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第6話 過保護な社長の朝帰りと、不穏なスマートフォンの音

ローストビーフの劇的な初夜から、一夜が明けた。


昨夜、れんさんに「これからは蓮と呼べ」と言われた衝撃で、私はベッドに入ってからも心臓のバクバクが止まらなかった。


結局、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。


「うぅ……顔が赤い。これじゃ鏡を見るのも恥ずかしいよ」


洗面所の鏡に映る自分の顔は、絵に描いたようにのぼせ上がっている。

だけど、契約結婚としての私の仕事は、彼に最高の体調で会社に行ってもらうことだ。


私は両頬をパンパンと叩いて気合を入れ、急いでキッチンへと向かった。


今朝のメニューは、昨夜の洋食からガラリと変えて、胃に優しい和食に決めていた。

メインは、脂の乗った塩鮭の塩焼き。

魚焼きグリルから、皮目がパリッと焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。


さらに、小松菜と油揚げのお浸し、だしをたっぷり吸わせた高野豆腐、そして、蓮さんが「寿命が延びる」と大絶賛してくれた、昆布と鰹節から丁寧に取ったお味噌汁だ。

今日のお味噌汁の具は、豆腐とナメコ、そしてネギ。


トントンと小気味いい包丁の音が、静かなリビングに響く。


「……莉奈りな、おはよう。……ん、なんだか今日は一段と顔が赤いな。熱でもあるのか?」


いつの間にか起きてきていた蓮さんが、心配そうに私の額に手を伸ばしてきた。


大きくて、少しゴツゴツとした男らしい手が、私の額にそっと触れる。

それだけで、私の体温はさらに数度跳ね上がった。


「ふぇっ!? あ、い、いえ! なんでもありません! ちょっと火の前にいたので、のぼせただけです!」


私は慌てて一歩後ろに下がり、お盆に載せた朝食をテーブルに並べた。


蓮さんは私の過剰な反応に少し首を傾げたけれど、目の前に並んだ朝食を見た瞬間、その切れ長の目をこれ以上ないほど輝かせた。


「……素晴らしい。朝から焼き鮭にお浸しか。莉奈、お前は俺をダメにする天才だな。もう会社の独身寮の飯には二度と戻れん」


「ふふ、お口に合うといいのですが。どうぞ、温かいうちに召し上がってください」


「いただきます」


蓮さんはお味噌汁を一口すすると、ふぅ、と幸せそうに息を吐いた。

そして、パリッと完璧に焼けた鮭の身を箸でほぐし、炊きたての白米と一緒に口へ運ぶ。


「美味い……。鮭の塩加減が絶妙だ。皮まで香ばしくて最高に美味い。莉奈、昨日渡したカードで、今日も好きなものを買っていいからな。というか、もっと自分自身の贅沢のために使ってくれ」


「そんな、昨日もお鍋や包丁を買わせていただきましたし、これで十分です。あ、そうだ。一ノ瀬さん、じゃなくて……れ、蓮、さん」


勇気を出して、小さな声で彼の名前を呼んでみる。

すると、蓮さんはご飯を口に運ぶ手をピタリと止め、驚いたように私を見つめた。


「……今、なんて言った?」


「え、あ……れ、蓮さん、って……。夫婦の、練習、ですから……」


恥ずかしさのあまり、エプロンの端をきゅっと握りしめて下を向く。

そんな私を見て、蓮さんは一瞬呆然としたあと、手で口元を覆って、不自然に顔を背けた。


彼の耳の付け根が、うっすらと赤くなっているのが見える。


「……ずるいな。そんな顔で、そんな風に呼ばれたら、会社に行く気が失せる。今すぐ有給を取りたいレベルだ」


「ええっ!? だ、ダメですよ、社長さんなんですから!」


「分かっている。冗談だ。……だが、最高のエネルギーを補給できた。今日の重要会議は百戦百勝だな」


蓮さんは照れ隠しのように、もの凄い勢いで鮭のご飯を完食してしまった。


食後のコーヒーをれ、ホッとした空気が流れた、その時だった。


カウンターテーブルの上に置かれていた、蓮さんのスマートフォンのバイブレーションが、静かな部屋に重苦しく響いた。


画面に表示された名前を見た瞬間、蓮さんの表情から、先ほどまでの穏やかな甘さが一瞬で消え去った。


そこに映っていたのは、【一ノ瀬本家・母】という文字だった。

蓮さんは忌々しげにため息をつくと、通話ボタンを押し、冷徹なビジネス用の声で耳に当てた。


「……何ですか、母さん。今から仕事に行くところなのですが」


『蓮! お前、一体どういうつもりなの!?』


スピーカーから漏れ聞こえてきたのは、キリキリとした、いかにも高圧的な中年女性の声だった。


『今、木村社長から連絡があったわよ! 我が一ノ瀬グループの傘下である下請け会社から、優秀な若手を一人、お前の独断でクビに追い込んだんですって!? しかも、何、宇野莉奈という地味な家政婦を「妻」だと言い張って囲っているそうじゃないの!』


お昼の、翔太の件だ。

もう実家にまで話が回っている。


「家政婦」という言葉に、私の胸がキュッと締め付けられる。

やっぱり、私のような普通の人間が一ノ瀬さんの隣にいるのは、迷惑なことなのだ。


私が不安になってうつむいた瞬間、蓮さんは立ち上がり、私の手を力強く握りしめた。


「言葉を慎んでください、母さん。莉奈は家政婦などではない。俺が一目惚れし、俺の全財産をかけてでも生涯を守ると決めた、俺の婚約者だ。あの男は、俺の未来の妻を侮辱した。だから相応の報いを与えたまでです」


『な、何言ってるのよ! お前には、来週、東条財閥の令嬢との大事なお見合いがあるのよ! そんな素性の知れない女、一ノ瀬家の敷居をまたがせるわけにはいきません! 今すぐその女を追い出しなさい!』

実家の母親の怒号が響く。


普通なら、ここで怖くなって逃げ出したくなるシチュエーション。

だけど、蓮さんは全く動じなかった。

それどころか、フッと冷たい、傲慢ごうまんな笑みを浮かべたのだ。


「追い出す? 断ります。一ノ瀬の家柄など、俺が立ち上げたこの会社の前には何の価値もない。俺をコントロールできると思わないでいただきたい」


『蓮……っ!』


「これ以上、莉奈を侮辱するなら、一ノ瀬の本家ごと叩き潰しますよ。……では、失礼します」


蓮さんは一方的に通話を切ると、スマートフォンをテーブルに放り投げた。

そして、不安で震えていた私を、優しく、だけど拒絶を許さない強さで、その広い胸の中に抱きしめた。


「怖がらせてすまない、莉奈」


蓮さんの低い声が、私の耳元で心地よく響く。


「大丈夫だ。実家だろうが、どこの財閥だろうが、お前を脅かす敵は俺がすべて排除する。お前は何も心配せず、俺の帰りを待って、美味しいご飯を作ってくれればいい」

「れ、蓮さん……」


「よし。これで本当に、今日も完璧に戦える。……行ってくる、俺の可愛い奥さん」


蓮さんは私の額に、そっと、触れるだけの優しいキスを落とした。


そして、完璧なスーツ姿で、颯爽と玄関から出て行った。

残された私は、赤くなった額を押さえながら、ただただ呆然とするしかなかった。


どうしよう。


偽装結婚のはずなのに、一ノ瀬さんの過保護な溺愛のスピードが、私の想像を遥かに超えて加速している。

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