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第5話 初夜のローストビーフと、ほどける心

一ノいちのせさんのマンションに戻った私は、さっそく夕食の準備に取りかかった。


大きな窓の外には、少しずつトワイライトブルーに染まっていく都会の夜景が広がっている。


お昼の騒動でバタバタしたけれど、キッチンに立ち、エプロンを締めると自然と心が落ち着いていく。


買ってきたばかりのチェリーレッドのホーロー鍋と、新調した包丁を調理台に並べる。


「よし、一ノ瀬さんをあっと言わせるローストビーフを作るぞ!」


まずは、常温に戻しておいた国産牛の塊肉に、塩、胡椒、そしてすりおろしたニンニクを丁寧にすり込んでいく。


このひと手間で、お肉の旨味がグッと引き締まるのだ。


フライパンに牛脂を溶かし、強火で煙が立つ直前まで温める。

そこへ塊肉を投入すると、ジュー(ッ)と、弾けるような小気味いい音がキッチンに響き渡った。

香ばしいお肉の焼ける匂いが、一気に広がっていく。


「まずは全面に、綺麗な焼き色をつけて……」


肉汁を中に閉じ込めるように、表面を素早く焼き上げていく。

全体に美味しそうな焦げ目がついたら、お肉を取り出し、新しく買ったホーロー鍋へ移す。


セロリの葉やニンジンの切れ端を一緒に敷き詰め、ぴったりと蓋をして、極弱火でじっくりと蒸し焼きにしていく。


このホーロー鍋は気密性が高いので、お肉自身の水分と弱火の熱だけで、驚くほど柔らかくジューシーに仕上がるはずだ。

お肉に火を通している間に、特製のソースを作る。


お肉を焼いたフライパンの肉汁をそのまま使い、赤ワイン、醤油、みりん、そして隠し味にほんの少しのはちみつを加える。

じっくり煮詰めていくと、コクのある、甘辛く芳醇な香りのソースが完成した。


莉奈りな、ただいま。……なんだ、この信じられないくらい良い匂いは」


ちょうどソースが仕上がったタイミングで、リビングのドアが開いた。


スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら入ってきた一ノ瀬さんは、犬のように小さく鼻を動かしている。


その表情は、お昼にモールで見せた冷徹な社長のものとは打って変わって、完全に美味しいご飯を心待ちにする少年のようだった。


「お帰りなさい、一ノ瀬さん! ちょうど今、ローストビーフが焼き上がったところです」


「ローストビーフ……! お前、本当にそんな手の込んだものを数時間で作ったのか?」


「はい! 良いお鍋を買わせていただいたので、お肉がふっくら仕上がりましたよ。今スライスしますね」


私は焼き上がった塊肉を、新しい包丁で慎重に切り分けていく。


包丁を入れて刃を引いた瞬間、あまりの柔らかさに感動した。

断面は、完璧な美しいローズピンク色。


溢れ出そうになる肉汁をなだめるように、手際よくお皿に並べ、特製ソースをたっぷりとかける。


付け合わせには、マッシュポテトとクレソンを添えた。

カウンターテーブルに料理を運ぶと、一ノ瀬さんはすでに席につき、目を輝かせて待っていた。


「……これが、莉奈の手作りローストビーフか。見た目だけで、そこらの高級レストランが敗北を認めるレベルだな」


「ふふ、大袈裟ですよ。温かいうちにどうぞ!」


「いただきます」


一ノ瀬さんは恭しくはしを持ち、綺麗にスライスされたお肉を一口で運んだ。


咀嚼した瞬間、一ノ瀬さんの動きがピタリと止まる。

綺麗な切れ長の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。


「……信じられん」


「お、お口に合いませんでしたか……?」


緊張で息を呑む私に、一ノ瀬さんは頭を抱えるようにして、低い声でうめいた。


「美味すぎる……! 歯がいらないくらい柔らかい。噛むたびに、上質な肉の旨味と脂の甘みが口の中に溢れてくる。それにこのソース……赤ワインの深みの中に、醤油のコクときりっとした甘みがある。マッシュポテトを絡めると犯罪的な美味さだ」


「よかったです……! 隠し味にはちみつを入れたのが正解でした」


一ノ瀬さんは、それからはもう無言だった。

お昼のオフィスでの冷徹な姿が嘘のように、猛烈な勢いでローストビーフを口へと運んでいく。


その姿を見ていると、私の胸の奥が、ローストビーフの湯気のようにじんわりと温かくなっていった。


3年間、翔太には『また肉じゃが?』『唐揚げとかもっと男ウケするもん作れよ』と言われ続けてきた。


私の料理を、こんな風に全身全霊で「美味しい」と受け止めてくれる人がいる。

それだけで、今まで心の底に張り付いていた冷たい寂しさが、綺麗に溶けていくような気がした。


「ふぅ……。莉奈、お前は本当に恐ろしいな」


気づけば、お皿の上はソースの一滴すら残らないほど綺麗に平らげられていた。


一ノ瀬さんは満足そうに息を吐き、ワイングラスの水を飲み干した。


「恐ろしい、ですか……?」


私が首を傾げると、一ノ瀬さんは肘をつき、じっと私を見つめてきた。


その瞳には、お昼のモールで私を抱きしめた時と同じ、強い熱が宿っている。


「ああ、恐ろしい。お前の飯を食べ始めてまだ2日目だが、俺はもう、お前の作る飯なしでは生きていけない身体にされている。完全に胃袋を人質に取られた気分だ」


「ふふ、嬉しいです。家政婦冥利みょうりに尽きます」


私が微笑むと、一ノ瀬さんは少しだけ不満そうに眉を寄せた。


「家政婦、か。……莉奈、お昼に言ったことは覚えているな?」


「え……?」


一に瀬さんはすっと立ち上がり、カウンター越しに私の顔へ近づいてきた。


至近距離で見る彼の顔は、心臓に悪いほど整っている。


「俺は、1年後の契約終了までに、お前を本気で口説き落とすと言った。これはビジネスの契約だが、俺の気持ちはもう、半分以上本気になりつつある。お前を傷つけたあの男に、一生届かないような高い場所でお前を溺愛してやるつもりだ」


「あ、あの……一ノ瀬さん……」


「まずは呼び方だな。『一ノ瀬さん』じゃなくて『れん』と呼べ。夫婦の練習だ」


「ええっ!? そ、そんなの恥ずかしいです……!」


私が両手で顔を覆うと、蓮さんは満足そうに低く笑った。


「焦らなくていい。毎日の美味い飯の報酬代わりに、少しずつ、俺に染まっていってもらうからな」


お昼の「ざまぁ」でスカッとしたはずなのに、夜は夜で、この過保護な社長からの甘すぎる攻撃に、私の心臓は休まる暇がなさそうだった。

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