第3話 高級モールでの最悪な再会と、迫る悪意
一ノ瀬さんが仕事に出かけたあと、私は渡されたゴールドカードと、昨日から持ち歩いている古びたボストンバッグを手に、お隣の駅にある大型ショッピングモールへと向かっていた。
平日の昼間だというのに、モール内は多くの買い物客で賑わっている。
吹き抜けの天井から差し込む光が、ガラス張りの店舗をキラキラと照らしていた。
「服でも化粧品でも、好きなだけ買っていいからな」
今朝、出がけに一ノ瀬さんが不器用そうに言ってくれた言葉が、何度も頭の中でリピートする。
思い出すたびに、なんだか胸の奥がくすぐったくなるような、気恥ずかしいような不思議な気持ちになった。
だけど、元々お洒落に疎く、自分のためにお金を使うのが苦手な私だ。
きらびやかなブランドショップやコスメカウンターを前にすると、どうしても足がすくんでしまう。
結局、吸い寄せられるように私が真っ先に向かったのは、最上階にある落ち着いた雰囲気の「高級キッチン用品専門店」だった。
「わあ……すごい。この包丁、すごくバランスがいい。あ、このお鍋なら、もっと煮込み料理が美味しく作れるかも……!」
並べられたプロ仕様の道具たちを見て、私の胸は一気に高鳴った。
一ノ瀬さんに「限度額なし」のカードを渡されて、私が最初に買ったのは、彼に美味しいご飯を作るための切れ味抜群の三徳包丁と、ずっしりとした、綺麗なチェリーレッドの鋳物ホーロー鍋だった。
自分のための服は、結局ファストファッションのお店で、動きやすそうなシンプルなワンピースを1着買っただけ。
どうしても、自分のことよりも「一ノ瀬さんに何を作ろう」という考えて頭がいっぱいになってしまうのだ。
「よし、次は地下の食品フロアで、今夜の買い出しだね」
両手にずっしりとした新しい調理器具を抱え、カートを押して地下のスーパーへと移動する。
今夜のメニューは、一ノ瀬さんが「お肉が好きそう」だったので、贅沢に国産牛の塊肉を使った『自家製ローストビーフ』にしようと決めていた。
表面を香ばしく焼き上げ、じっくり火を通したお肉に、赤ワインと醤油をベースにした特製ソースをかけるのだ。
想像するだけで、早くキッチンに立ちたくてウズウズしてくる。
高級なお肉を選び、カートのカゴにそっと載せて、次に野菜コーナーを回っていた、その時だった。
「あれ? ――おい、莉奈じゃねえか」
背後から、聞き覚えのある、だけど二度と聞きたくなかった嫌な声が響いた。
心臓がドキンと嫌な音を立てて跳ねる。
恐る恐る、錆びついた人形のように振り返ると、そこには見事にブランド物で身を固めた男が立っていた。
元カレの、翔太だった。
しかも、その腕には私をあのアパートから追い出す原因になった、ゆるふわパーマに濃いメイクの若い女の子――派遣の美咲がべったりと絡みついている。
「やっぱり莉奈だ。何だよその格好、相変わらず地味だな。つーか、お前、俺の家から追い出されて行く当てないって泣いてたくせに、こんなところで何してんの?」
翔太は小馬鹿にしたような下卑た笑みを浮かべ、私のカートの中を覗き込んできた。
「うわ、高級な牛肉の塊じゃん。お前さ、別れた腹いせにヤケ食いでもする気? ウケるんだけど。あ、もしかして俺のカードでも盗んで使おうとしてんじゃねえだろうな?」
「ちょっと翔太くぅん、この人だれぇ? もしかして、あの噂の『華がない元カノさん』?」
美咲が、わざとらしい甘ったるい声で鼻で笑う。
「そうそう。毎日毎日、おばさん臭いエプロンつけてさ、肉じゃがとか味噌汁とか、実家みたいな飯ばっかり作ってた莉奈だよ。美咲みたいに、お洒落なイタリアンとかフレンチに連れて行き甲斐がないっていうかさー。家政婦としては優秀だったけど、彼女としてはマジで萎えるんだよね」
二人は人目を気にせず、私を指差してクスクスと笑い転げている。
平日ののどかな食品フロアに、彼らの悪意に満ちた声が響き渡る。
周りの買い物客の視線が、突き刺さるように痛い。
私はカゴの取っ手をきゅっと白くなるまで握りしめ、下を向くことしかできなかった。
言い返したいのに、喉がぎゅっと詰まって声が出ない。
悔しい。
悲しい。
3年間、この人のために自分の時間も、お給料も全て捧げてきた。
食費を浮かせるために、安いスーパーを何軒もハシゴして、彼の健康を一番に考えて、毎日一生懸命ご飯を作ってきた。
それを、こんな風に生ゴミみたいに嘲笑われるなんて。
「……私の料理は、そんな風に言われるものじゃありません」
震える声で、小さな反論をするのが精一杯だった。
「あ? 何か言ったか? 負け惜しみは見苦しいぞ。大体、お前みたいな行き遅れの地味女、俺が拾ってやらなきゃ一生一人だったんだからな。ほら、邪魔だからそこ退いて――」
翔太が私のカートを乱暴に押し除けようと、手を伸ばした、その瞬間だった。
「――人の妻に向かって、ずいぶんと無礼な物言いをするな、そこの馬鹿どもは」
冷徹極まりない、だけど地獄の底から響くような低い声が、食品フロアの空気を一瞬で凍りつかせた。
驚いて顔を上げると、そこには――仕立てのいいスリーピースのスーツを完璧に着こなした、一ノ瀬さんが立っていた。
濡れた黒髪の隙間から覗く切れ長の瞳は、見たこともないほど冷たく激しい怒りに燃えていた。




