第2話 初めての朝食と、冷徹社長の過保護な独占欲
「ん……っ」
差し込む柔らかな朝の光に、私はゆっくりと目を覚ました。
見慣れない高い天井。広すぎるセミダブルのベッド。高級ホテルのような遮光カーテン。
「あ……そっか。私、本当にあのお部屋にいるんだ」
昨夜の出来事は夢じゃなかった。
婚約破棄されて雨の中で行き倒れそうになっていた私は、一ノ瀬蓮さんに拾われ、彼の「偽装妻」兼「専業主婦」になったのだ。月々50万円の報酬つきで。
時計を見ると、時刻は午前6時。
「大変、急いで朝ご飯を作らなきゃ!」
ガバッと跳ね起き、洗面所で顔を洗う。
借りた部屋のゲスト用クローゼットには、一ノ瀬さんが昨夜のうちにネットの即日配送で手配してくれた、私にぴったりのサイズのルームウェアと、真っ白な新しいエプロンが用意されていた。
おろしたてのエプロンをキュッと結び、広いキッチンへと向かう。
昨夜、一ノ瀬さんが寝たあとに、私は冷蔵庫と棚のストックを徹底的にチェックしていた。
朝食用に使えるのは、卵、納豆、ちりめんじゃこ、冷凍庫にあった油揚げ。あとは昨日使ったニンジンの残りと、大根が少し。
「よし。一ノ瀬さんは仕事が忙しそうだから、朝は胃に優しくて、エネルギーがしっかり補給できるものにしよう」
まずは出汁を取る。昆布と鰹節で丁寧に取った出汁の香りが、朝の静かなリビングに満ちていく。
大根と油揚げを刻んで、お味噌汁の準備。
その間に、卵焼きを作る。
一ノ瀬さんの好みが分からないので、今回は出汁をたっぷり含ませた、ほんのり甘い「出汁巻き卵」にした。卵液を数回に分けて流し込み、菜箸で手際よく巻き上げていく。綺麗な黄色い層が重なり、ふっくらとした形が出来上がる。
「あとは、じゃこおろしと、納豆……。あ、お米も炊き立てが一番だよね」
ちょうどご飯が炊き上がり、炊飯器から真っ白な湯気と甘い香りが立ち上ったタイミングで、足音が聞こえた。
「……おはよう、莉奈」
振り返ると、まだ眠そうに目をこすりながら、髪が少しハネた一ノ瀬さんが立っていた。
昨夜のピシッとしたスーツ姿や、お風呂上がりの鋭い雰囲気とは違い、どこか大型犬のような無防備さがある。
「おはようございます、一ノ瀬さん! ちょうどご飯ができました」
「……すごいな。部屋の中が、実家よりも『実家』の匂いがする」
一ノ瀬さんは寝ぼけ眼のまま、ふらふらとカウンター席に座った。
私は手際よく、お盆に載せた朝食を並べていく。
つやつやに輝く炊き立ての白米。
お豆腐と大根、油揚げの、合わせ味噌のお味噌汁。
湯気を立てる、ふんわりとした出汁巻き卵。
ちりめんじゃこを添えた、大根おろし。
そして、ネギを細かく刻んでしっかり混ぜた納豆。
「ザ・日本の朝食、というメニューですが……お口に合いますか?」
一ノ瀬さんはお味噌汁のお椀を手に取り、まずは一口、ズズッとすすった。
その瞬間、彼の目がハッと見開かれる。
「……美味い。出汁が、身体の隅々に染み渡るみたいだ。インスタントとは全然違う」
「よかったです! ちゃんと昆布と鰹節から出汁を取ったんですよ」
「毎朝これを飲めるなら、それだけで寿命が5年は延びる気がする」
一ノ瀬さんは真顔でとんでもないことを言いながら、次は出汁巻き卵に箸を伸ばした。
一切れを口に含むと、ジュワッと溢れる出汁の旨味と優しい甘さに、彼の口元が自然と緩んでいく。
「これも美味すぎる……。外はしっかり固まっているのに、中は信じられないくらいジューシーだ。莉奈、お前は本当に天才だな」
「えっ……あ、ありがとうございます……」
そんなにストレートに褒められると、耳が熱くなる。
元カレには、どれだけ手の込んだ料理を作っても
『あー、ありがと。ちょっと味薄くない?』
とスマホを見ながら言われるだけだった。
私の作ったものを、こんなに真っ直ぐ見つめて、美味しいと喜んでくれる。それだけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。
一ノ瀬さんは、ものの十分ほどで、お茶碗もお味噌汁も完全に平らげてしまった。
「ごちそうさま。最高だった」
満足そうに微笑む彼の顔は、国宝級に整っている。不意打ちのイケメンスマイルに、私はドギマギしてしまい、慌てて食器を下げようとした。
「あ、お皿下げますね! あと、一ノ瀬さん、これ……」
私はキッチンから、小さな2段式のお弁当箱を取り出した。
「これ、今日のランチ用に作ってみたんです。昨日の肉じゃがの残りをリメイクした『肉じゃがコロッケ』と、出汁巻き卵の残りを詰めました。外食ばかりだとお体に悪いですし、もしよければ……」
一ノ瀬さんは、手渡されたお弁当箱を、まるで宝石でも見るかのような目で見つめた。
「……俺にお弁当? 誰かに弁当を作ってもらうなんて、高校生以来だ」
「あ、あの、やっぱり迷惑でしたか? 会社の周りの方に見られたら恥ずかしいですよね、こんな所帯じみた手作り弁当……」
元カレに言われた言葉が不意にフラッシュバックして、私はキュッと身を縮めた。
やっぱり、お節介だったかもしれない。
しかし、一ノ瀬さんは私の言葉を聞いた瞬間、それまでのみっともないほど和やかだった表情を消し、ひどく冷徹で、だけど強い怒りを孕んだ目で私を見つめた。
「莉奈。お前に『所帯じみている』なんて言った元カレは、脳の検査を受けた方がいい。それか、見る目が壊滅的にない大馬鹿者だ」
「え……?」
「こんなに美味い飯が作れて、体調を気遣ってお弁当まで持たせてくれる女性を、手放す奴の気が知れない。俺なら、絶対に手放さない。……この弁当は、誰にも一口もやらずに、俺がオフィスで独り占めして食べる」
一ノ瀬さんはお弁当箱を愛おしそうに胸に抱え、真剣な声でそう言いきった。
「あ、ありがとうございます……」
私の全てを肯定してくれるような彼の言葉に、視界が少し潤む。
不器用で、冷たそうに見える一ノ瀬さんだけど、本当は誰よりも優しくて、温かい人なのかもしれない。
仕事着の高級スーツに着替えた一ノ瀬さんは、玄関で靴を履きながら、私を振り返った。
「じゃあ、行ってくる。莉奈、日中は好きに過ごしてくれていいからな。あ、これ」
彼はポケットから、ゴールドに輝くクレジットカードを私に差し出してきた。
「えっ、これは……?」
「家族カードだ。限度額は設定していないから、今日の買い物や、お前が必要なものは全部これで買え。服でも化粧品でも、好きなだけ買っていいからな」
「限度額なし!? い、いえ、そんなの使えません! 食費だけで十分です!」
「ダメだ、使え。俺の妻になるんだから、それなりの格好をしてもらわないと困る。……いや、そうじゃないな」
一ノ瀬さんは少し耳を赤くして、そっぽを向いた。
「お前が元カレに見せつけるために、もっと綺麗になる軍資金だ。俺のカードで、いくらでも贅沢しろ。……じゃあ、夜の飯を楽しみにしている」
「あ、いってらっしゃいませ……!」
バタン、と重厚な玄関のドアが閉まる。
残された広い部屋で、私はゴールドカードを両手で持ちながら、呆然としていた。
月々50万円の報酬だけでも破格なのに、限度額なしのカードを渡されるなんて。
「……よし! 一ノ瀬さんがそこまで言ってくれるなら、私もプロの家政婦として、全力で彼をサポートしなきゃ!」
私はやる気に満ち溢れ、まずは部屋全体の掃除を始めることにした。
その頃、一ノ瀬蓮が経営するIT企業「イノベーション・ゲート」の本社社長室。
「……ふっ」
デスクに向かっていた蓮は、書類を見ながら、不意に口元を緩めた。
その様子を見ていた秘書の高橋は、驚きで目を見開いた。
普段は「冷徹無比な仕事の鬼」と呼ばれる社長が、仕事中に鼻歌を歌いそうなほど上機嫌なのだ。
「社長、何か良いことでもあったのですか? 非常にご機嫌に見えますが」
「高橋、お前にも分かるか。……いや、実はな」
蓮はデスクの引き出しから、大切そうに、莉奈が作った2段式のお弁当箱を取り出した。
「これを見ろ。今日の俺の昼飯だ」
「お弁当……ですか? 社長が手作りの弁当なんて、珍しいですね。どちらの高級仕出しですか?」
「違う。俺の『妻』の手作りだ」
「は!? 妻!?」
高橋が声を裏返した。
昨日まで「実家のお見合いがウザい、誰か適当な偽装妻になってくれる奴はいないか」と頭を抱えていた男が、突然「妻の弁当」だと言い出したのだから当然だ。
「昨日、運命的な出会いがあってな。籍はこれからだが、もう同居している。……彼女の作る飯は、世界一だ。昨夜の肉じゃがも、今朝のみそ汁も、五臓六腑に染み渡る美味さだった。高橋、俺はもう、外食には戻れない」
蓮は自慢げに胸を張り、お弁当箱の包みをそっと撫でた。
「あの……社長。まさか、実家の圧力を逃れるためだけに、適当な女性を囲ったわけではありませんよね? その、お顔が完全に……本気の惚れ薬でも飲まされたような表情ですが」
「何を言っている。これはビジネスの契約だ。彼女には月50万を支払っている」
蓮はキリッとした表情で答えたが、すぐにその目を細めた。
「だが、彼女を他の男の目に触れさせたくないのは確かだ。元カレとやらに酷い裏切られ方をして、自己評価が底辺になっているからな。俺の財力と権力で、彼女を世界一幸せな女にして、あのクソ元カレが二度と近づけないように囲い込んでやるつもりだ」
「……社長、それを世間では『一目惚れ』かつ『過保護な執着』と言うんですよ」
高橋のため息混じりのツッコミは、これから始まるベタ甘な同居生活の、ほんの序章に過ぎなかった。




