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第1話 雨降る夜の肉じゃがと、冷徹社長の奇妙な提案

土砂降りの雨の中、私は駅前のロータリーで呆然と立ち尽くしていた。


手元にあるのは、使い古したボストンバッグが一つだけ。

着の身着のままとはまさにこのことで、お気に入りのエプロンも、長年買い足してきた使い勝手のいい調理器具も、すべてあの部屋に置いてきてしまった。


『悪いけど、莉奈りなとは婚約破棄させてほしい。新しく付き合うことになった彼女がさ、莉奈の生活感がありすぎるところが苦手だって言うんだよね。ほら、莉奈っていつも所帯じみてるし、料理とかばっかりで華がないだろ?』


三年付き合い、結婚直前だった婚約者――いまや元カレとなった男の言葉が、雨の音に混じって脳裏に蘇る。


私は、小さな家事代行サービス会社で働く、いわゆる「プロの家政婦」だ。


彼のために毎日、栄養バランスを考えたご飯を作り、部屋をピカピカに磨き上げ、彼のわがままを全て受け入れてきた。

彼のステップアップのために、私の給料のほとんどを生活費に充てていた。


それなのに、彼は私の家事スキルを「所帯じみている」「家政婦と付き合っているみたいで萎える」と切り捨て、新しく入ってきた若い派遣の女の子と浮気した挙句、私をアパートから追い出したのだ。


「華がない、か……」


自分の濡れたスニーカーを見つめる。


確かに私はお洒落に疎いし、爪を綺麗に彩るよりも、短く切り揃えておく方を選ぶ。


だけど、それがそんなに悪いことだったのだろうか。

体温が奪われ、指先が冷たくなっていく。

行く当てもない。

実家を頼ろうにも、数年前に両親を亡くしてからは天涯孤独の身だ。


いっそ、このまま雨に溶けて消えてしまえたら楽なのに。


そう思った瞬間、ふっと、雨の音が遠ざかった。


「……おい。そんなところで突っ立ってると、死ぬぞ」


低い、だけど驚くほど心地のいい声が降ってきた。


見上げると、大きな黒い傘が私をすっぽりと覆っていた。

傘を差しかけてくれていたのは、仕立てのいい高級そうなスーツを身にまとった男性だった。


濡れた黒髪の隙間から覗く、切れ長の鋭い瞳。整いすぎた鼻筋に、形のいい薄い唇。


まるでファッション雑誌から飛び出してきたかのような、息を呑むほどの美形だった。年齢は20代後半くらいだろうか。


「あの、私……」


「声が震えてる。いいから、これに入れ」


彼は有無を言わせぬ口調で、私の肩を抱くようにしてすぐ目の前に停まっていた黒い高級セダンへと促した。


断る気力すら残っていなかった私は、吸い込まれるように後部座席へと乗り込んでしまった。


車内は、ほんのりと高級なシトラスの香りがした。

彼は運転席に乗り込むと、すぐに暖房を強め、ダッシュボードから清潔なバスタオルを取り出して後ろの私に放り投げた。


「とりあえずそれを拭け。……誘拐する気はない。俺はここのタワーマンションの住人だ。お前があまりにも幽霊みたいに立っているから、車に轢かれでもしたら寝覚めが悪いと思っただけだ」


「すみません……。ありがとうございます……」


タオルを頭からかぶり、小さく頭を下げる。


車が静かに動き出し、地下の駐車場へと滑り込んでいく。

エレベーターに乗り、最上階のフロアへ。

連れてこられたのは、広大なリビングを持つ、絵に描いたような高級タワマンの一室だった。


しかし、その部屋は――驚くほど、荒れていた。


「……散らかっているのは気にするな。家政婦を雇っていたんだが、今朝、俺の私物に手を出そうとしたのがバレてクビにしたばかりなんだ」


彼は忌々しげにネクタイを緩めながら言った。


見れば、床には脱ぎ捨てられた衣類や、高級そうなビジネス書が雑然と積まれている。


そして何より、キッチンカウンターの上には、中身の干からびたコンビニ弁当の容器や、デリバリーのピザの箱が山積みになっていた。


私はプロの家政婦だ。

この光景を見た瞬間、体に染み付いた習性が、失恋のショックよりも先に悲鳴を上げた。


「……あの」


「なんだ?」


「あの、お礼と言ってはなんですが……ここ、片付けてもいいですか?」


「は?」


彼は不審そうな目を向けたが、私がボストンバッグから、かろうじて持ち出せたマイ・エプロンを取り出すと、呆れたようにため息をついた。


「好きにしろ。風呂を借りる」


彼が浴室へ向かったのを確認すると、私のスイッチが入った。


まずは換気扇を回し、ゴミを分別して袋にまとめる。


シンクに溜まった食器を、手際よく洗っていく。


次に冷蔵庫を開けた。案の定、まともな食材はほとんど入っていない。


だが、奥の方に、まだ使えるパプリカ、少し萎びかけの玉ねぎ、人参、そして賞味期限が明日に迫った国産牛の薄切り肉を見つけた。


「よし……これなら、あれが作れる」


私は備え付けの高級な鍋(宝の持ち腐れになっている)を借り、手際よく調理を開始した。


まずは牛肉を軽く炒め、一度取り出す。


同じ鍋で、乱切りにした人参と玉ねぎを炒める。

油が回ったら、出汁(粉末のものが棚の奥にあった)と、醤油、みりん、砂糖、酒を絶妙な配分で投入。


アクを丁寧にすくい取り、落とし蓋をして弱火でコトコトと煮込む。


最後に牛肉を戻し、ひと煮立ち。


部屋の中に、甘辛い、どこかホッとする醤油と出汁の香りがふんわりと広がっていく。


ちょうど鍋の火を止めたタイミングで、浴室のドアが開き、髪を濡らした彼がスウェット姿で出てきた。


「……なんだ、この匂いは」


彼は怪訝そうに鼻を動かした。

その表情は、先ほどの冷徹なビジネスパーソンのものとは違い、少し幼く見える。


「勝手に冷蔵庫の残り物を使わせていただきました。肉じゃがです。あと、ご飯も冷凍のものが一口分だけあったので、温めました。もしよければ、温まるので食べてください」


私は、ピカピカに磨き上げたカウンターテーブルに、湯気の立つ肉じゃがを差し出した。


彼はしばらく肉じゃがを見つめていたが、やがて諦めたように席についた。


「……いただきます」


箸を持ち、人参を口に運ぶ。

その瞬間、彼の動きがピタリと止まった。


(……お口に合わなかったかな?)


不安になって指をきゅっと握りしめる。


しかし、彼は無言のまま、次は牛肉と玉ねぎを口に入れ、間髪入れずにご飯を口に掻き込んだ。


「美味い……」


ポツリと、だけど心の底から絞り出すような声だった。


「味が、信じられないくらい染み込んでる。なのに人参もジャガイモも型崩れしてない。……肉も、安いバラ肉のはずなのに、どうしてこんなに柔らかいんだ?」


「あ、それは、最初に牛肉をさっと炒めて取り出しておいて、最後に合わせることで硬くなるのを防いでいるんです。玉ねぎの甘みをしっかり引き出してから煮込むのがコツで……」


説明する私を無視して、彼は猛烈な勢いで肉じゃがを食べ進めていく。


外では完璧なエリートに見える彼が、まるで飢えた子供のように、私の作った料理を夢中で食べている。


その姿を見ているだけで、私の凍りついていた心が、じんわりと温かくなっていくのを感じた。


『莉奈っていつも所帯じみてるし、華がないだろ?』


元カレの言葉が、彼の「美味い」という一言で、綺麗に洗い流されていく気がした。


私のしてきたことは、無駄じゃなかったんだ。

あっという間に器は空になり、彼は満足そうにふぅ、と息を吐いた。


そして、鋭い瞳でまっすぐに私を見つめた。


「お前、名前は?」


「あ、宇野うの莉奈、と申します」


「莉奈。お前、さっき家を追い出されたと言っていたな。行く当ては?」


「ないです。明日から家政婦の仕事をしながら、格安のアパートを探そうかと……」


それを聞いた彼は、腕を組み、信じられないことを口にした。


「なら、俺と結婚しろ」


「……はい?」


私は間抜けな声を上げた。

初対面の、しかもこんなイケメン社長に、いきなりプロポーズ?


「あ、いや、結婚と言っても『偽装結婚』だ」


彼は冷静なトーンで話を続けた。


「俺の名前は一ノいちのせれん。これでも一応、IT系の会社を経営している。……実は、実家の親うるさくてな。『早く身を固めろ』『次の見合いを受けろ』と毎日うるさい。挙句の果てには、会社にまで縁談を持ち込んでくる始末だ。仕事に集中できなくて困っていた」


一ノ瀬さんは、空になった肉じゃがの器を指差した。


「条件を提示する。俺の実家や周囲に対して『妻』のフリをしてくれ。期間はとりあえず1年間。この部屋の家事全般、そして何より、毎日の三食の食事を俺に提供すること。家賃・光熱費・食費は全て俺が持つ。その上で――」


一ノ瀬さんは、スウェットのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を私に見せた。


「月々、報酬として50万円を支払う。どうだ?」


「ご、ごじゅっ……!?」


あまりの金額に目玉が飛び出そうになる。一般的な家政婦の月収を遥かに超えている。


「俺にとっては、実家からの見合いの圧力をシャットアウトできて、おまけに毎晩この絶品の飯が食えるなら、月50万など安い投資だ。お前にとっても、住む場所と当面の資金が手に入る。悪い話ではないはずだ」


彼はビジネスの交渉をするように、淡々とメリットを並べる。


だけど、その瞳の奥には、どこか「この料理を囲う権利を絶対に渡さない」というような、強い執着の光が見えた。


月50万の偽装結婚。


普通の女の子なら、怪しんで逃げ出すかもしれない。

だけど、理不尽に全てを失った私にとって、それはあまりにも魅力的な救いの手だった。


何より――私の料理を、こんなにも必要としてくれる人がいる。


「……本当に、私のご飯で、満足していただけますか?」


弱気な私の問いに、一ノ瀬蓮はフッと口元を和らげ、意地悪そうに、だけど優しく微笑んだ。


「満足どころか、胃袋を完全に掴まれたと言っているんだ。……返事は?」


雨の音は、もう聞こえなくなっていた。

私はエプロンの紐をぎゅっと結び直し、一歩、前に踏み出した。


「はい。喜んで、お引き受けします。一ノ瀬さん」


こうして、理不尽に婚約破棄された限界家政婦の私は、ワケありイケメン社長との、甘くて美味しい「月50万円の偽装結婚生活」をスタートさせることになったのだった。

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