第15話 本物の特別になるため
カフェの店内に駆けつけた蓮さんの頼もしいSPたちと、通報を受けてやってきた警察官によって、藤代翔太と東条一華さんが連行されていき、ラウンジには再び、ホテルの静かで上品なBGMだけが流れ始めた。
すべてが終わったのだと実感した瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、私の膝ががくがくと震えだす。
「莉奈……っ!」
倒れそうになった私の身体を、蓮さんが強い力でしっかりと抱きとめてくれた。
彼の高価なスーツから香る、いつもの落ち着くウッディな香りが鼻腔をくすぐり、ようやく「本当に助かったんだ」と涙が溢れてくる。
蓮さんは私の頭をその大きな手で優しく撫でながら、耳元で何度も愛おしそうに囁いてくれた。
「もう大丈夫だ。怖かったな、よく頑張った。……さあ、俺たちの家に帰ろう」
ホテルの地下駐車場から蓮さんの車に乗り込み、高級マンションの我が家へと戻る。
リビングの扉を開けた瞬間、昨日作り置きしておいたデミグラスソースのほのかな残り香が私たちを迎えてくれた。
「ふぅ……」
リビングのソファに深く腰を下ろすと、蓮さんはすぐに私の隣にぴたりと体を寄せて座り、私の細い腰に腕を回して自分の胸へと引き寄せた。
いわゆる『ホールド』の体勢のまま、蓮さんは私の首筋に自分の額をこすりつける。
「蓮さん……? あの、ちょっと苦しいです……」
「離さない。……莉奈、お前はどうしていつも、そうやって一人で抱え込もうとするんだ。翔太から連絡が来た時点で、すぐに俺に頼ればよかっただろう」
蓮さんの声は、静かに怒っているようでもあり、少しだけ拗ねた子供のようでもあった。
「ごめんなさい……。でも、契約書のことが世間にバレたら、蓮さんの会社が大変なことになるって思ったら、どうしても怖くて。……それに、いつも蓮さんに守られてばかりじゃなくて、私も蓮さんの力になりたかったんです」
私が俯きながら本音を吐露すると、蓮さんは私の顎を細い指先でくいっと持ち上げ、真っ直ぐに私の瞳を覗き込んできた。
その切れ長の瞳には、怒りではなく、狂おしいほどの愛おしさが波打っている。
「馬鹿だな、莉奈。お前が俺のために戦おうとしてくれたのは、死ぬほど嬉しい。カフェでお前が『絶対に逃げない』と言ってくれた時、愛おしすぎてその場で抱き潰してやろうかと思ったくらいだ」
「なっ……! だ, だ、抱き潰すって……っ!」
「だがな、俺の財力も、権力も、情報網も、すべてはお前を全うに幸せにするために存在しているんだ。お前が傷つくくらいなら、会社などいくらでも踏み台にしてやる。だから、次は絶対に一人で泣くな。俺を頼れ」
蓮さんはそう言い切ると、私の唇に、吸い付くような深くて甘いキスを落とした。
「んむ……っ、れ、蓮さ……」
何度も角度を変えて重ねられる熱い唇に、頭の芯がとろとろに溶けていく。
偽装結婚の契約を結んだあの雨の夜には、こんな風に彼に愛される日が来るなんて、想像もしえなかった。
「……莉奈。もう、月50万の『契約』という縛りは、俺たちには不要だと思わないか?」
しばらくしてようやく唇が離れると、蓮さんは私の左手をそっと取り、薬指の付け根を愛おしそうに親指でなぞった。
「え……?」
「一華の件で、本家も完全に沈黙した。もう俺たちを邪魔するものは誰もいない。だから莉奈、1年の期限なんて待たない。……俺と、本当の夫婦になってくれ。偽物なんかじゃなく、一生俺の隣で、俺のために美味い飯を作って、俺に溺愛されていてほしい」
蓮さんのストレートで熱烈なプロポーズに、私の目から、今度は嬉し涙がポロポロと溢れ出した。
「はい……っ! 私も、蓮さんのことが大好きです。蓮さんの本物の奥様になりたいです……!」
私が泣きながら胸に飛び込むと、蓮さんは満足そうに低く笑い、私を抱き上げたまま寝室の大きなベッドへと運んでくれた。
その夜、私たちは初めて『契約』という壁を取り払い、心も身体も、本当の意味で一つに結ばれたのだった。
甘くて、少しだけ激しい、一生忘れられない特別な夜。
一華たちの仕掛けた罠を乗り越えたことで、私たちの絆は、誰にも引き裂くことのできない本物の愛へと変わった。
……そう、思っていたのに。
深夜2時。
深い眠りについていたはずの蓮さんが、突然、飛び起きるようにしてベッドの上に身を起こした。
サイドテーブルの上で、彼のスマートフォンが、見たこともない真っ赤な警告ランプを点滅させながら激しく振動していたからだ。
「……高橋か。こんな時間に、一体何の――」
電話に出た蓮さんの声が、一瞬で凍りついた。
暗闇の中、スマートフォンの青白い光に照らされた蓮さんの顔が、今まで見たこともないほど真っ青に引き攣っていく。
「……なんだと? ニューヨークのサーバーが……全面停止? 開発中の国家機密データが、すべて外部に流出した……!?」
蓮さんの怒号に近い声に、私も完全に目が覚め、ベッドの中でガタガタと身体を震わせた。
『イノベーション・ゲート』が社運を賭けて開発していた、次世代の国家防衛プログラム。
それが、世界最高峰のハッカー集団の手によって、すべて盗まれたというのだ。
「誰の仕業だ。東条家か……? いや、違うな。まさか……っ!」
蓮さんが、何かに気づいたように息を呑む。
受話器の向こうから聞こえる高橋さんの悲痛な叫び声が、静かな寝室にまで漏れ聞こえてくる。
一華の事件は、ただの『前座』に過ぎなかった。
本家や財閥すらも裏で操る、一ノ瀬蓮を本当の意味で奈落へ突き落とすための「本当の黒幕」が、ついに動き出したのだ――。




