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第16話 暗雲と、深夜のオムライス

「……ニューヨークのサーバーが、全面停止?」


深夜二時。

リビングのペンダントライトの下で、蓮さんの低い声が室内の空気を凍らせた。


つい数時間前まで、私たちは互いの気持ちを確かめ合い、本物の夫婦になった喜びの中にいた。


蓮さんの大きな手が私の髪を優しく撫でてくれた、あの温もりがまだ肌に残っている。


それなのに、蓮さんのスマホに鳴り響いた一本の緊急電話が、甘い余韻を容赦なく切り裂いた。


「ああ、間違いない。すぐに全役員を招集してくれ。俺も今から本社に向かう」


通話を終えた蓮さんの横顔は、今まで見たことがないほど険しかった。

数々の難局を冷徹に切り抜けてきた天才実業家が、かすかに唇を噛みしめている。


『イノベーション・ゲート』が社運を賭けて開発していた、国家機密級の次世代セキュリティデータ。

それがすべて外部に流出した。

一華さんの背後にいた、本当の黒幕の仕業に違いない。


「莉奈、すまない。せっかく、やっと二人きりになれたのに……」


蓮さんが苦しげに眉をひそめ、私を抱きしめようとして、その手を止めた。


自分の身体から漂う、緊迫した空気や焦燥感を私に移したくない。

そんな不器用な優しさが伝わってきて、胸がぎゅっと締め付けられる。


私は迷わず、自分から蓮さんのスーツの裾をぎゅっと掴んだ。


「謝らないでください。蓮さん、お仕事ですよね? 会社が大変な時です、すぐに行ってください」


「莉奈……」


「でも、その前に。ほんの十分だけ、私に時間をくれませんか?」


「十分?」


蓮さんが怪訝そうに目を見開く。

私は力強くうなずくと、エプロンを締め直してキッチンへ走った。


これからどれほどの長期戦になるか分からない。

そんな蓮さんを、空腹のまま戦場へ送り出すわけにはいかない。


プロの家政婦として、そして蓮さんの妻として、今の私にできることはこれだけだ。


冷蔵庫を開け、一瞬で頭の中にレシピを組み立てる。

時間がない。

だけど、極上のエネルギーを補給できて、かつ胃に優しいもの。

フライパンを火にかけ、細かく刻んだ鶏肉と玉ねぎをバターで手早く炒める。


じゅわあ、と甘く香ばしい香りがキッチンに広がった。

温かいご飯を投入し、自家製の濃厚トマトソースを絡めていく。


「莉奈、いい匂いがするな……」


いつの間にか、蓮さんがキッチンの入り口に立っていた。

ネクタイを少し緩め、愛おしそうに私を見つめている。


その瞳には、先ほどまでの張り詰めた冷徹さはなく、ただ私だけを映す甘い熱が灯っていた。


「蓮さん、危ないですから座って待っていてくださいね」


「いや、莉奈が俺のために料理をしてくれている姿を、一秒も見逃したくないんだ。……本当なら、今すぐ君をこの腕に閉じ込めて、どこにも行きたくないくらいなのに」


低く掠れた声で囁かれ、心臓が跳ね上がる。

危機的状況だというのに、蓮さんの私に対する溺愛ぶりは一切ブレない。

むしろ、余裕がないからこそ、本音が漏れ出しているようだった。


「できました! 特製・ふわとろオムライスです!」


お皿に盛り付けたチキンライスのクッションの上に、絶妙な火加減で仕上げたオムレツを滑らせる。


ナイフで真ん中に一本、すっと切れ目を入れると、パカッと左右に開いて、中から半熟の卵がとろりと溢れ出した。

仕上げに、じっくり煮込んでおいたデミグラスソースをたっぷりとかける。

深夜の胃袋を直撃する、究極の「飯テロ」オムライスの完成だ。


「召し上がれ。少しでも元気がでますように」


スプーンを渡すと、蓮さんは愛おしそうにオムライスを見つめた後、大きく一口頬張った。


「っ……!」


蓮さんの目が見開かれる。


「美味しい、なんて言葉じゃ足りないな。バターのコクと、トマトの酸味が完璧に調和している。卵の信じられないほどの滑らかさが、口の中でソースと絡み合って……莉奈、君の料理はいつも、俺の魂を救ってくれる」


「よかったです。蓮さん、顔色が少し良くなりました」


「ああ。莉奈の愛が身体中に染み渡っていくようだ。これで、どんな敵が相手でも負ける気がしない」


蓮さんはあっという間にオムライスを完食すると、スプーンを置いて立ち上がった。

その瞳には、先ほどまでの焦燥感は消え去り、確固たる決意と冷徹な王者の輝きが戻っていた。


「行ってくる。……莉奈、一つだけ約束してくれ」


玄関のドアの前で、蓮さんが私の肩を包み込み、視線を真っ直ぐに合わせる。


「はい、なんでしょう?」


「何があっても、俺が君を守る。会社がどうなろうと、俺の全財産を使ってでも、莉奈、君の安全だけは絶対に死守する。だから、俺を信じて待っていてほしい」


「蓮さん……」


それは、甘く、けれど痛いほどの執着が籠った言葉だった。

限界まで私を愛し、全精力を傾けて守ろうとしてくれるスパダリな夫。


だけど、今の私はただ守られるだけの存在でいたくない。


「信じています。でも、蓮さん。私は蓮さんの『妻』です。だから、守られるだけじゃなくて、一緒に戦わせてください」


私の言葉に、蓮さんは一瞬驚いたように目を見開いた。

そして、堪えきれないといった風に愛おしそうな笑みをこぼすと、私の腰を引き寄せ、深い、深いキスを交わした。


「……本当に、君は最高の妻だ。愛しているよ、莉奈」


名残惜しそうに唇を離すと、蓮さんは振り返り、漆黒の闇が広がる夜の街へと駆け出していった。


一人残されたリビング。


一華さんの背後にいる本当の黒幕。


国家機密データの流出。


「蓮さんを、絶対に助ける」


プロの家政婦として培った人脈と、かつてどん底にいた私を救ってくれた蓮さんのために。

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