第13話 忍び寄る黒い影と、逃げない決意
パーティーの翌々日。
蓮さんは一華さんの件を受けて、会社のセキュリティや実家への法的措置の強化で、朝から分刻みの過密スケジュールに追われていた。
『莉奈、何があっても絶対に一人で外に出るな。買い物はすべてネットスーパーで済ませるんだ。いいな?』
今朝も、まるで世界が終わるかのような悲痛な顔で念を押していった蓮さん。
私は彼の言葉を忠実に守り、高層マンションの一室で、彼が帰ってきたらすぐに食べられるようにと、じっくり煮込む『特製デミグラスハンバーグ』の仕込みをしていた。
パチパチと音を立てて飴色に変わっていく玉ねぎの甘い香りが、部屋いっぱいに広がる。
この家政婦としての日常の時間が、今の私にとって一番の心の支えだった。
しかし、そんな静かな時間を切り裂くように、私のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。
画面に表示されたのは、見知らぬ固定電話の番号。
「はい、宇野ですが……」
恐る恐る通話ボタンを押して耳に当てると、受話器の向こうから、聞き覚えのある不快な笑い声が聞こえてきた。
『よぉ、莉奈。久しぶりじゃん。相変わらず金持ちの社長に囲われて、いい暮らししてんの?』
「……翔太……っ!?」
心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ね上がった。
私を裏切り、家も職も奪って捨てた最低の元カレ。
蓮さんに会社をクビにされ、完全に社会的制裁を受けたはずの男の声だった。
「どうして私の番号を……! 蓮さんに何をされるか分かっているの!? もう私に関わらないで!」
受話器を握る手が恐怖で震える。
しかし、翔太は怯えるどころか、下品なせせら笑いを返してきた。
『ハッ、一ノ瀬の社長か? ああ、怖いねぇ。でもさ、俺の後ろに誰がいるか分かって言ってんの? 東条一華様だよ。あの超お嬢様が、俺の「借金」を全部肩代わりして、新しい仕事まで手配してくれたんだよなぁ』
「え……? 一華さんが……?」
頭を殴られたような衝撃が走る。
一華さんは、蓮さんに恥をかかされた腹いせに、私の過去である翔太を抱き込んで、復讐の手駒として使い始めたのだ。
『一華様から伝言だ。――「月50万の契約書のコピー、こちらの探偵がしっかりと確保いたしましたわ。一般人の泥棒猫さん。大人しく蓮さんの前から消えなさい。さもないと、その汚い過去と一緒に、蓮さんの会社の株価を奈落の底に叩き落としてあげますわ」――だってよ。アハハ、傑作だな!』
「契約書を……持っている、の……?」
血の気が一気に引いていく。
あの夜、リビングのテーブルで交わした、たった一枚の『偽装結婚契約書』。
いつの間にか、一華さんの雇ったプロの探偵に写真を撮られるなどして、証拠を握られていたのだ。
これが世間に公表されれば、『イノベーション・ゲート社長、月50万で一般女性と偽装結婚』という大スキャンダルになり、蓮さんが命がけで育ててきた会社に致命的な泥を塗ることになる。
『明日の午後2時、指定するカフェに来い。一華様直々のお出ましだ。そこで手切れ金をもらって大人しく田舎に帰るか、それとも社長を巻き込んで心中するか、自分で選べよ?』
ブツリ、と一方的に通話が切れた。
ツーツーという無機質な音が響く中、私はその場にへたり込んでしまった。
キッチンでは、ハンバーグのための玉ねぎが、ジリジリと焦げた匂いを上げ始めている。
(どうしよう……。私のせいで、蓮さんの大切なものが、また傷つけられちゃう……)
涙が視界をにじませる。
やっぱり、私みたいな人間が蓮さんの隣にいるべきではなかったのかもしれない。
契約を解除して、私が消えれば、蓮さんの会社は守られる。
そう思った瞬間、私の脳裏に、あのパーティー会場での蓮さんの真っ直ぐな瞳が、鮮明に蘇った。
『どうなってもいい。莉奈がいない世界なら、こんな会社などいつでも潰してやる』
蓮さんは、私を守るために自分のすべてを賭けてくれた。
それなのに、私だけが怖気づいて、彼の隣から逃げ出すなんて、そんなの絶対に間違っている。
(もう、昔の弱くて怯えるだけの私じゃない。私は、蓮さんのご飯を作るって決めたんだから……!)
私は溢れそうになる涙をグッと拭うと、立ち上がってキッチンの火を止めた。
焦げかけた玉ねぎを素早く処分し、新しい玉ねぎを刻み直す。
トントン、と小気味よい包丁の音が、私の乱れた心を落ち着かせていく。
一華さんの罠は卑劣で、巨大だ。
蓮さんに相談すれば、彼はまた無理をして私を守ろうとするだろう。
だから、この件は私がしっかりと決着をつけなければならない。
私はスマートフォンを握りしめ、明日、指定された場所へ行く決意を固めた。
逃げるためじゃない。
蓮さんの隣という、世界で一番温かい私の居場所を、今度は私の手で守り抜くために。
その日の夜、帰ってきた蓮さんは、私が作った肉汁溢れるデミグラスハンバーグを『世界一美味い!』と子供のように喜び、いつものように私を抱きしめてハグを求めてきた。
その愛おしい温もりを感じながら、私は心の中で、一華さんへの静かな反撃の炎を燃やしていたのだった。




