第4章:白い廊下
読者の皆様、こんにちは。新しい章を楽しんでいただければ幸いです。できる限り多くの章を書き、定期的に投稿できるよう努力いたします。
あの小さな「事件」の後、アキラは寮へと向かっていた。そこには二つの大きな建物が並び、屋根付きの渡り廊下で繋がれている。中央には噴水があり、静かに水音を響かせていた。
男子寮と女子寮は隣り合って建てられており、その渡り廊下だけが両者を結んでいる。
アキラは歩きながら周囲の景色を眺めた。時刻はすでに夕暮れ。太陽は沈みかけており、ベンチに座る生徒も、歩いている者も見当たらない。皆、すでに部屋で休んでいるのだろう。
噴水の前まで来ると、その台座に文字が刻まれているのが目に入った。
「敵は侍を恐れる」
しばらくその言葉を見つめていると、不意に後ろから声がかかる。
「よう、迷子か?」
振り返ると、同じ制服を着た青年が立っていた。ブレザーのボタンの色からして、上級生らしい。
「この言葉の意味を考えてたんです。あなた、先輩ですか?」
アキラは再び視線を碑文へ戻した。
青年は気軽な足取りで近づき、そのまま話し始める。
「なるほど。初日ってわけか。正直、俺もそこまで興味なくて深く調べちゃいないけどな」
そう前置きしてから、由来を語った。
この碑文は学園の建設時に作られたもので、英雄・橋本テヅキを称えて刻まれたという噂があるらしい。だが、それが本当かどうかは分からない。歴史書には、その言葉に関する記録が残っていないからだ。
アキラは黙って耳を傾けていたが、やがてあることに気づき、青年の方へ向き直る。
「そういえば……今日、壇上にいた人の一人ですよね?」
「気づかれないと思ってたんだがな」
青年は片目を閉じ、両手をポケットへ入れた。
「改めて名乗るよ。俺は稲葉カズキ。カズキでいい。で、君は?」
歓迎の意味を込めるように、彼は拳を差し出す。見た目の威圧感とは裏腹に、意外と気さくな人物だった。
アキラも拳を合わせ、自分の名を告げる。カズキは彼を頭から足先まで見渡し、ブレザーを整えてから口を開いた。
「さて、中に入るか? ここで夜になるまで突っ立ってても仕方ない。冷えてきたしな」
二人は並んで男子寮へ入った。外観と同じく、中の廊下も果てしなく長い。
ロビーで最も目を引いたのは、銀色のプレートに記された寮則だった。近づくと、そこにはこう書かれている。
一、室内外を問わず、常に清潔を保つこと。
一、門限は午後十時。
一、午後八時以降、他室周辺の徘徊を禁ずる。
一、女子寮へは許可なく立ち入るべからず。
「女子寮に入るなって……わざわざ書く必要あるんですか?」
興味本位で尋ねると、カズキは真顔でアキラを指さした。
「元気なのは結構だが、そういう発想は捨てとけ。変な目立ち方をしたくないだろ?」
規則はかなり厳しく、違反すれば処罰も重いらしい。
「いや、ただ気になっただけです。そんなに真剣に言うってことは、何かあったんですか?」
アキラが何でもない調子で聞くと、カズキは咳払いをして答えた。
「いくらでもある。去年なんか、女子寮の奥にある銭湯を覗こうとして忍び込んだ連中がいてな。見つかった瞬間、返り討ちだった」
顎に手を当て、妙に詳しく語るその様子に、アキラは内心首を傾げた。
(なんでそんな細かいことまで知ってるんだ……?)
だが、あえて聞きはしなかった。
「じゃあ俺はもう行く。自分の部屋は、あそこの掲示板を見れば分かる」
そう言ってカズキは入口の方へ去っていった。どうやらこの寮の住人ではないらしい。
外へ出たカズキは、男子寮を見上げながら呟く。
「弟くんも、この戦場に来たか……リ ゼ」
中を見回すと、左右に廊下、正面に階段と受付のようなカウンターがある。ホテルのような造りだが、案内図らしきものは見当たらない。
(部屋は六十四号室か。たぶん上の階だな……でも少し探検してみるか)
廊下を歩いてみると、新入りが迷いやすい構造だとすぐ分かった。階段はあるが、何年生の区画かといった表示はなく、部屋番号しか書かれていない。
各廊下の奥には自販機があり、飲み物や軽食が並んでいる。
(広すぎるだろ、この場所……まあ、ここは何もかもでかいけど。……それにしても、銭湯らしきものは見当たらないな。女子寮にしかないのか?)
きょろきょろしながら進んでいると、廊下の先に扉があった。開けると、木の床に瓦屋根のかかった渡り廊下が伸びている。夜でも天井の明かりが灯っており、問題なく渡れそうだった。
そのまま別の棟へ入り、しばらく歩いたところで、アキラはようやく異変に気づく。
――完全に迷った。
(なんでこうなった……この建物、ただの四角じゃなかったのか?)
焦って周囲を見回したその時、誰かと正面からぶつかった。
「うっ……」
「きゃっ……」
慌てて謝りながら顔を上げると、床には落ちたタオル。そして目の前には少女がいた。
アキラは何度も謝りつつ、散らばったタオルを拾い集める。少女は尻もちをついたまま、両手を床につき、足を後ろへ流していた。
「い、いえ……こちらこそ。ぼんやりして前を見ていませんでした」
柔らかな声。わずかに異国の訛りが混じっている。
(この声……まさか)
「って、君……昼に壇上で話してた子だろ!? なんでここに!?」
そこは男子寮のはずだ。しかも彼女はタオルを抱えて一人で歩いている。
少女――エリカは困ったように顔を上げた。だが天井の照明が眩しく、相手の顔が見えにくいらしい。
「それは私の台詞です。どうして女子寮にいるんですか? なかなか勇気がありますね」
「……は?」
アキラの思考が止まる。
「ここ、男子寮じゃ……?」
「そんなわけないでしょう。裏の渡り廊下を渡れば、こっちに来られるんです。まさか気づいていなかったんですか?」
呆れたように息をつき、彼女は額に手を当てた。
(あった……そういえば木の屋根の通路、さっき通ったな……)
アキラは気まずそうに乾いた笑みを浮かべる。
「それで? いつまで突っ立ってるんですか。起こしてくれません?」
目を閉じたまま、少し不機嫌そうに言う。
アキラは彼女の姿勢を見てしまい、慌てて顔を逸らした。
「す、すみません。もちろん」
手のひらを差し出すと、エリカはそこに手を重ねる。アキラは慎重に引き上げた。
触れた手は驚くほど柔らかく、細い指先は繊細だった。長いキャラメル色の髪が揺れ、小さな唇が近づいてくる。立ち上がるまでの数秒が妙に長く感じられた。
気づけば、空気が少しだけ気まずい。
エリカは無表情のまま、じっと彼の顔を見つめている。
「えっと……その。どうしてプレゼンスと一緒にいて、あんな挨拶までしたんですか? クリガーさん」
拾ったタオルを渡しながら尋ねる。
エリカはしばらく考え込み、その後じっと彼を見つめた。
(見られてる……どうすればいいんだ)
やがて視線を外し、語り始める。
「実は、私にもよく分からないんです。学園に着いて数分後、講堂へ向かっていたら、ある先輩に呼び止められて。『司会役が足りないから代わってくれ』と言われて、そのまま壇上へ連れていかれました。短い言葉で印象を残せ、と」
話し終えると、彼女は腰に手を当て、どこか誇らしげに微笑んだ。
(……なんだ。こっちと同じで、流されただけなのか。しかもその先輩、なんとなく心当たりあるな)
「でも、それはそれとして……あなたは早く出た方がいいです。先生か他の女子生徒に見つかったら、周りまで巻き込みますよ」
その言葉で、アキラはようやく自分の状況を理解した。カズキにも気をつけろと言われたばかりだ。
「そ、それはまずい! まだ部屋も探してる途中なんだ。ほんとにごめん、じゃあまた!」
慌てて背を向け、そのまま走り去っていく。振り返りながら手まで振っていた。
(……ああいう人なんですね)
エリカは小さく息をつく。
(タオルを拾ってくれたお礼、言いそびれてしまいました)
それからかなりの時間をかけて、アキラはようやく自室を見つけた。
二階、男子寮東棟の奥。六十四号室。
迷いなく扉を開ける。
室内の明かりは点いていた。靴もきちんと並んでいる。だが人の気配はない。
思っていたより広い部屋だった。小さなキッチン、二段ベッド、大きめの机、風通しのいいベランダ。だが電子機器は一切ない。パソコンもテレビもゲーム機もなかった。
(なんだここ……人はいないのに荷物はある。しかも下のベッドの上にでかい鞄まで)
今日一日の出来事を思い返していたせいで、アキラは背後の存在に気づかなかった。
「君がルームメイトかな? 名前は?」
明るくよく通る声だった。旧友に話しかけるような気安さがある。
振り向くと、愛想の良さそうな少年が立っていた。短い黒髪、小ぶりな直線フレームの眼鏡、中背の体格。
「あ……どうも」
アキラは少し間の抜けた返事をする。
(近くまで来るまで気配を感じなかった……)
少年は、ルームメイトが来るのをしばらく待っていたが現れなかったので、先に風呂へ行っていたのだと説明した。首にはタオルがかかっている。
「そんなことより、俺は羽生ウリュウ。よろしく」
ウリュウは丁寧にお辞儀をする。アキラも同じように礼を返した。
その後、荷物を机に広げながら今日の出来事を話し、ウリュウは上段ベッドに寝転んでそれを聞いていた。
「なあ、この寮って変じゃないか? 無駄に広いし、案内もないし」
「そりゃそうだ。ここはただの寮じゃない。小さな基地みたいなものだからな」
ウリュウは天井を指しながら説明する。
「大きく分けて四つの区域がある。寮、共同銭湯、訓練区域、それから二つの寮の間にある中庭だ」
「正面の入口と、裏の瓦屋根の渡り廊下は?」
「正面は掲示や集合場所だろうな。裏は中庭や訓練場へ出るための通路だ。銭湯も訓練場の近くだよ」
そこで小さく息をつく。
「訓練終わりの連中なんて、湯船にも浸からず洗うだけ洗って、すぐ寮へ戻ってくる」
その言葉で、アキラは先ほどタオルを抱えていた少女の姿を思い出した。
(なるほど……ちゃんと風呂を満喫する人もいるってわけか)
脳裏に、熱い湯へゆったり浸かるエリカの姿が浮かぶ。
ぱしん、と自分の頬を叩くと、ウリュウは怪訝そうに見下ろしていた。
荷物の整理が終わるころには、自然と話題は「どうやってこの学園へ入ったか」に移っていた。疲れているはずなのに、二人の会話はしばらく続いた。
「なあアキラ。なんで東城に来たんだ? 普通の学生として暮らす道だってあったろ。少なくとも大人になるまでは」
アキラは数秒黙り込み、横になったまま自分の掌を見つめる。やがて静かに口を開いた。
「国や同盟国を守るため、って言うこともできる。でも本当は……ある人に、半ば無理やり背中を押されたんだ」
「女の子か!?」
ウリュウは勢いよく身を乗り出し、ベッドから落ちかけた。
「姉貴だよ」
「姉!? なんだよそれ、お前シスコンか?」
「違う、バカ」
アキラは拳を強く握る。
「約束したんだ。必ず一人前の男になって帰るって」
短く息を置き、続けた。
「それに――あの人を超えるために来た。プレゼンスとしての座を、俺が奪う」
「プレゼンス? 俺たちより一つ上の女子なんて、今日壇上にいたのは一人だけだろ。でも名字が違った。ってことは……あの外国人が言ってた、任務中の人か?」
アキラは目を閉じたまま、答えなかった。
「おい、アキラ?」
返事はない。
「無視するなって」
「寝るぞ」
ウリュウは数秒黙り込み、それから肩をすくめて横になった。
こうして一日目は終わる。
多くの出来事があり、多くの新しい顔が刻まれた。
東城学園――そこは、若者たちが国家と未来のために歩み始める場所だった。
読んでいただきありがとうございます。この章についてのコメントをお待ちしています!次の章はもっと長くなる予定です。できる限り多くの内容を盛り込みたいと思っています。




