書類と沈黙と、名前の欄
その日は、書類が多かった。
机の上に積まれた紙の山を前に、マオは腕を組んでいた。
役所から届いた追加資料。
補助金申請。
在籍児童確認表。
「……文字が多い」
戦術書より厄介だ、と本気で思う。
先生の一人が、そっと一枚差し出した。
「園長、ここだけ確認お願いします」
名前、住所、保護者名。
ただの一覧表だ。
そこに、見覚えのある名前があった。
元部下の名。
人間用に整えられてはいるが、間違いない。
マオは、しばらくその欄から視線を動かさなかった。
「……問題はないか」
「はい。手続き上は、何も」
先生は、何も知らない。
それでいい。
だが、役所は数字と書類しか見ない。
だからこそ、怖い。
昼休み。
園庭では、例の園児が他の子と一緒に鬼ごっこをしていた。
転び、笑い、また走る。
父の正体など、欠片も知らない。
その様子を見ながら、マオは思う。
この場所は、過去を洗い流す場所ではない。
だが、過去に縛られない場所ではある。
午後、電話が鳴った。
「市役所ですが、在籍児童の件で一点確認を」
来たか、と思う。
マオは受話器を取る。
「……話せ」
声は低く、だが落ち着いている。
確認内容は些細だった。
表記の揺れ。
漢字の確認。
それだけで、電話は終わった。
受話器を置いたあと、マオは深く息を吐く。
「……通過だな」
その背中を、元部下が遠くから見ていた。
迎えの時間。
男は、園庭の端で静かに立っている。
「問題は、ありましたか」
「今はない」
「……今は、ですか」
マオは、少しだけ間を置いて答えた。
「だが、問題が起きたときのために、ここがある」
男は、その意味を正しく理解したらしい。
深く、静かに頭を下げた。
「子は、普通に育てます」
「それでいい」
門が閉まり、今日も一日が終わる。
書類はまだ残っている。
過去も、完全には消えていない。
それでも。
マオはペンを取り、次の書類に目を通す。
ここは、守る価値のある場所だ。
それだけは、もう迷っていなかった。




