クレームという名の最終試練
その日は、朝から妙な胸騒ぎがしていた。
マオは職員室で書類に目を通しながら、何度目か分からないため息をつく。
理由ははっきりしている。
机の端に置かれた、一枚のメモ。
「園長、今日の午前中にお電話があるそうです」
電話。
それだけで、昨日の保護者面談よりも重たい空気がのしかかる。
戦場では、敵意は剥き出しだった。
だが人間社会の敵意は、柔らかい言葉と丁寧な声に包まれている。
それが、どうにも苦手だ。
午前十時。
職員室の電話が鳴った。
全員の視線が、自然とマオに集まる。
マオは一瞬だけ固まり、それから受話器を取った。
「……はい。こちら、保育園です」
受話器の向こうから、落ち着いた声が聞こえてくる。
「先日の遠足の件で、お話がありまして」
来たか、と内心で構える。
話は、決して怒鳴り声ではなかった。
だが、一つ一つが鋭い。
・服が汚れて帰ってきた
・虫に驚いて泣いた
・帰ってから、疲れたと言っていた
マオは、遮らずにすべて聞いた。
途中で言い訳を挟みたくなる衝動を、何度も抑える。
「……ご心配をおかけしました」
そう言って、頭を下げたのは、無意識だった。
電話が終わるころには、手のひらに汗をかいていた。
受話器を置くと、先生の一人が恐る恐る声をかける。
「……大丈夫でした?」
マオは、しばらく黙ってから答えた。
「怒られたわけではない。だが、軽くもない」
その言い方に、先生たちが苦笑する。
「園長、それクレームってやつです」
「……なるほど」
理解はした。
だが、納得はまだだ。
昼過ぎ。
問題の園児が、園庭で一人、砂場に座っていた。
いつもより静かで、山も作らず、砂を指でなぞっているだけ。
マオは、ゆっくり近づいた。
「……疲れたか」
園児は、こくりと頷く。
「でも、たのしかった」
その一言に、胸の奥が少しだけ緩む。
「泣いたことは、悪いことではない」
そう言うと、園児は顔を上げた。
「ほんと?」
「怖いものがあるのは、生きている証拠だ」
難しい言葉だったかもしれない。
だが、園児はなぜか納得したように頷いた。
その様子を、遠くから先生が見ている。
後で聞いた話では、その日、家に帰ってから園児はこう言ったらしい。
「えんちょーが、だいじょうぶっていった」
それだけで、親は少し安心したという。
夕方。
マオは職員室で一人、窓の外を眺めていた。
「……全部守ることは、できないか」
魔王だったころは、守るか壊すかしかなかった。
だが今は、その間に無数の選択肢がある。
それは、面倒で、難しくて、正解がない。
それでも。
「……悪くない」
そう呟いて、マオは明日の予定表に目を通した。
次の試練は、もうすぐやってくる。




