第9話 堰番小屋の鍵
シュタム村の水路を、ヨナス様と歩きました。村の外れから上へ、水路に沿って千九百歩ございます。三村のうち、いちばん長い水路でございます。
歩きながら、二十歩ごとに水の深さを測ります。測り方は簡単でございます。杖を立てて、濡れたところに指を当てるだけでございます。
「二十歩。指二本」
「二十歩、指二本」
ヨナス様が復唱して、書き取られます。
「四十歩。指二本」
「四十歩、指二本」
六百歩まで、指二本が続きました。そこから先が、少しずつ浅うなってまいります。
「千二百歩。指一本」
ヨナス様の鉛筆が止まりました。
「減っていますね」
「はい」
「千九百歩の先、村の井戸までは」
「今の量では、あと六日でございます」
六日。
わたくしは、それを口に出してから、少し悔やみました。数を口に出しますと、それが期日になってしまいます。
「六日ですね」
ヨナス様は書き取られました。書き取ってから、こう仰いました。
「では、五日で何かをすればよい」
◆
シュタム村へ下りますと、村の女衆が井戸端に集まっておりました。桶を並べて、順番を待っておられます。まだ水は出ておりますけれど、汲む量を決めて分けておいでのようでございました。
「一軒、二杯まで」
いちばん年かさの方が仰いました。
「洗いものは川で。飲み水だけ井戸から」
わたくしは、その分け方を書き留めました。一軒二杯。村は五十四軒。一日に百八杯。
百八杯でございますと、井戸の湧きが日に百二十杯ございますので、まだ足ります。足りますけれど、湧きは細くなってまいります。
「お嬢様は、ミューレンの」
「はい」
女衆が、少し離れられました。責められるかと思いましたが、そうではございませんでした。
「上のお家に、ご迷惑をかけては」
わたくしは、首を振りました。
「迷惑ではございません。数を伺いに参りました」
「数、でございますか」
「一軒二杯とお決めになったのは、いつからでございますか」
「五日前でございます」
五日前。ニーダー村の水路が切れた日でございます。この村は、自分たちで先に減らしておいででした。誰にも言われず、隣の村を見て、決めておいででした。
わたくしは、それも書き留めました。
――シュタム村、自主節水。一軒二杯。五日前より。
こういうことは、帳面には書く欄がございません。欄はございませんけれど、書いておかねばならないと思いました。
◆
堰へ回りますと、グスタフ爺が小屋の前で網を繕っておりました。
「お嬢様」
「爺。第十一水門のことを伺いに参りました」
爺は網を置きました。
「二重扉でございますな」
「はい。帳面の用途の欄が、空いております」
「六代目の旦那様が、書かせなんだので」
爺は小屋の中へ入って、しばらく何かを探しておりました。出てきたときには、鍵を一つ持っておられました。
古い鍵でございます。柄のところに、十一、と刻んでございます。
「これが二重扉の鍵で」
「爺。わたくしはもう水番ではございません」
「へえ」
「その鍵は、お渡しいただけません」
爺は白い眉を動かして、こう申しました。
「これは、水番の家のものではございませんので」
「……と、仰いますと」
「堰番小屋のものでございます。小屋は谷のもんでございますから、鍵も谷のもんで。わしは三十二年、預かっとるだけでございます」
爺は鍵をわたくしの手のひらに置きました。
「預かっとるもんは、預けてもよろしい。返ってくればよろしいので」
わたくしは、その鍵を握りました。ずいぶんと冷とうございました。
◆
その晩、父に伺いました。
「父上。第十一水門のことを伺います」
父は書斎の椅子に座って、しばらく黙っておられました。
「……祖父様の代でございますね」
「うむ」
「事故があったと伺いました」
父は、机の上の古い帳面を引き寄せられました。五代目の頁でございます。
「大雨だった。三日続いた。堰の上に水が溜まって、堤を越えそうになった」
「はい」
「祖父様は、下の水門を全部開けた。水を落とさねば堤が切れる。切れれば谷が全部流される」
「……はい」
「下の村に、逃げろと使いを出した。使いは間に合った。人は死なんかった」
父はそこで、一度言葉を切られました。
「田が流れた。三村ぶんだ。その年、シュタムの半分が村を出た」
わたくしは、絵図に村の名が二つ足りない理由を、そこで知りました。
「祖父様は、そのあとで第十一に二枚目の扉を付けた。二枚目を閉めると、上の溜まりを二つに割ることができる。片方を溜めて、片方を落とす」
「では、下流の水を三日ぶん、持たせることができますか」
「できる」
父は、そこで初めてわたくしをご覧になりました。
「できるが、上の溜まりが半分になる。中流の田に水が回らんようになる。ケルンベルクの田だ」
わたくしは、鍵を握っておりました。
「祖父様は、それを一度も使わなんだ。使えば、必ず誰かの田が枯れるからだ」
「用途の欄が空いておりますのは」
「書けば、使えることになるからだ」
父は帳面を閉じられました。
「わしはその欄を、空けたままにした。おまえに書かせなんだのは、それが理由だ」
◆
自分の部屋に戻りまして、鍵を机の上に置きました。抽斗を開けますと、婚約指輪の受領の控えが一枚だけ入っております。
その隣に、鍵を入れました。紙が一枚と、鍵が一つ。わたくしはもう水番ではございません。役目を持たぬ者が水門を開ければ、それは水番の仕事ではなく、ただの不法でございます。
――五日でございます。
窓を開けますと、庭の水路が細く鳴っておりました。細うございますけれど、まだ流れております。流れているものは、放っておいても流れていると、あの方は思っていらした。
わたくしは、今夜だけそれを思い出しました。
集会所の絵図には、いまはもうない村の名が二つ入っております。第九話は、その二つの理由の回でした。
大雨が三日。堤が切れれば谷が全部流される。祖父様は下の水門を全部お開けになり、人は死なせずに済ませて、田を三村ぶん流されました。その年、シュタムの半分が村を出ております。二枚目の扉は、そのあとに付いたものです。
用途の欄が空いているのは、書けば使えることになるからでした。使えば、必ずどこかの田が枯れます。書かないことがいちばん誠実である場合も、たしかにございます。
次回、第十話「三村目が涸れる前に」。シュタムの井戸まで、あと五日でございます。




