↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水門の開け閉めは、暦のとおりになさってください 〜婚約解消の三日後、領地の水が止まりました〜  作者: 芹沢たえ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/15

第8話 四月九日の順序では、開きません

 水利組合の寄合は、堰のたもとの集会所で開かれます。卓が一つと、椅子が十二。壁に谷の絵図が掛かっております。百年前に描かれたもので、今はもうない村の名が二つ入っております。


 わたくしは父の後ろに座りました。呼ばれたのは父でございます。わたくしは記録係として控えております。


「ケルンベルク伯爵家より申し立てがございます」


 組合の代理人が立たれました。ゲルト・シュタインと申される方でございます。四十半ば、痩せて、声のよく通る方でございます。


「アルデ堰の下流三村において、四月以降、著しい減水が生じております。ミューレン男爵領における堰外取水の疑いにつき、調査を求めます」


「取水はしておらぬ」


 父が仰いました。


「庭の水路が一筋ある。指幅ほどだ。届けは出しておる」


「届けの写しは拝見しました。数字の上では、確かに指幅です」


 ゲルト様は書類をお繰りになりました。


「ですが、三村の減水は指幅では説明がつきません。ロート村の水路は四月十二日に、ニーダー村の水路は四月二十五日に切れております。合計で、田は百四十ヘクタル」


 数字を出される方でございます。読み上げる速さも、こちらが書き取れる速さに合わせておいででした。


 わたくしは書き取っておりました。百四十。


「では、伺います」


 ゲルト様がこちらをご覧になりました。


「記録係の方。ミューレン家の暦は、いまどちらに」


「ケルンベルク伯爵家がお持ちでございます。四月九日にお渡しいたしました」


「渡した、と」


「はい。第九条により、水番役はケルンベルク家へ移っております」


 ゲルト様は頷かれて、ラウレンツ様のほうをご覧になりました。


「伯爵家は、その暦のとおりに開けておられましたか」


「……四月九日以降は、そのとおりにしている」


 ラウレンツ様がお答えになりました。声が少し低うございました。


「写しも受け取った。四十二枚だ。そのとおりに開けている。それでも水が来ない」


「なるほど」


 ゲルト様は、そこで初めて笑われました。


「では暦のほうが誤っておりますな」


    ◆


 わたくしは立ち上がりました。父が袖を引かれましたけれど、わたくしは立ちました。記録係が立つのは作法に反しますが、そのときは反しておこうと思いました。


「暦は誤っておりません」


「ほう」


「四月九日の順序では、いま開きません。四月九日の暦は、四月九日までに分かっていたことで書いたものでございます」


「同じことを言うておられる」


「別のことでございます」


 わたくしは控えを卓に置きました。六年ぶんの紙束のうち、今年の分だけを抜いて持ってまいりました。


「暦は年に一度作るものではございません。三日に一度、歩いて直します。雪解けの遅れ、雨、田の水の入り。直した分は帳面の余白に書き足して、古いほうを消します」


「消す、とは」


「ケルンベルク家がお持ちの帳面の、今年の頁をご覧くださいませ。字が二重になっております」


 ご家臣が帳面をお出しになりました。ラウレンツ様がご自分で七枚目をお開きになって、そこで手を止められました。


 消し跡がございます。四月の九日までに、六度直してございます。


「六度、直しております。四月九日に、わたくしはお渡しいたしました。そこから先は、直す者がおりません」


「直す者がいないのは、渡した側の落ち度ではないのかね」


 ゲルト様が仰いました。


「役目を渡すなら、直し方も渡すべきでしょう。あなたは紙だけを渡して、直し方を渡さなかった」


 卓が静まりました。壁の絵図の、もうない村の名のあたりに日が差しております。


 ――わたくしは、そこで一度、息を整えました。


「奥様に写しを求められましたので、四十二枚を七日でお作りいたしました。あの折に、来年の順序は別のものになると申し上げました」


「来年の話ではない。今年の話をしている」


「四月九日に、こうも申し上げております。今年の要は四番目、第十七水門だと。印もつけてございます」


「印」


「七枚目に、丸が一つ。ご覧くださいませ」


 ラウレンツ様は、頁を見ておいででした。


 丸はそこにございます。わたくしが二月に書いた丸でございます。


「ですが」


 ゲルト様は書類を閉じられました。


「印の意味は、書いてありませんな」


 わたくしは、口を開いて、閉じました。返す言葉が無いのではなく、返してよい言葉が無いのでございます。書いてございません。意味は、口で伝えるものでございました。書く者と読む者が、同じ家におりましたので。


「本日は、堰外取水の有無を調べに参りました」


 ゲルト様が仰いました。


「取水はなかったと認めましょう。数字が合いませんから。ですが、別の点が明らかになりました。アルデ堰の水番役は、実務が引き継げていない。役目だけが移って、順序を決める者がどこにもいない」


 ゲルト様は、そこで谷の絵図をご覧になりました。


「組合として申し上げます。次の寄合までに、来年の水番の体制について案を出していただきたい。出せぬ場合は――」


 この方は、たいそう丁寧に仰いました。


「――アルデ堰の水利権を、組合の直轄に移すことを提案いたします」


    ◆


 帰り道、父は一言も仰いませんでした。集会所を出るとき、ヨナス様が追いかけてこられました。


「今日の数字を、確認させてください」


「はい」


「百四十ヘクタル。それから、六度」


「六度でございます」


「六度直して、四月九日に渡した。……その六度が、あなたの六年です」


 わたくしは、返事をいたしませんでした。


 返事のかわりに、シュタム村の水路のことを申し上げました。


「明後日、参ります。あそこはまだ、水がございますので」

「印の意味は、書いてありませんな」。ゲルト・シュタイン様も悪人ではございません。手続きの方です。手続きの方は、いちばん痛いところをたいそう丁寧に突いてまいります。


七枚目の消し跡は六度。二月に一度、三月に三度、四月に二度。その六度が六年ぶんの厚みだと分かっているのは、いまのところヨナス様お一人でございます。


口で伝えてきた二十いくつの決まりは、口で伝えてきたぶんだけ証拠になりません。書かずに済ませたものが、そろって請求書になって戻ってまいります。


次回、第九話「堰番小屋の鍵」。三十年、誰も回していない鍵の話です。第十一水門の用途の欄が空いている理由も、そこで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。