第8話 四月九日の順序では、開きません
水利組合の寄合は、堰のたもとの集会所で開かれます。卓が一つと、椅子が十二。壁に谷の絵図が掛かっております。百年前に描かれたもので、今はもうない村の名が二つ入っております。
わたくしは父の後ろに座りました。呼ばれたのは父でございます。わたくしは記録係として控えております。
「ケルンベルク伯爵家より申し立てがございます」
組合の代理人が立たれました。ゲルト・シュタインと申される方でございます。四十半ば、痩せて、声のよく通る方でございます。
「アルデ堰の下流三村において、四月以降、著しい減水が生じております。ミューレン男爵領における堰外取水の疑いにつき、調査を求めます」
「取水はしておらぬ」
父が仰いました。
「庭の水路が一筋ある。指幅ほどだ。届けは出しておる」
「届けの写しは拝見しました。数字の上では、確かに指幅です」
ゲルト様は書類をお繰りになりました。
「ですが、三村の減水は指幅では説明がつきません。ロート村の水路は四月十二日に、ニーダー村の水路は四月二十五日に切れております。合計で、田は百四十ヘクタル」
数字を出される方でございます。読み上げる速さも、こちらが書き取れる速さに合わせておいででした。
わたくしは書き取っておりました。百四十。
「では、伺います」
ゲルト様がこちらをご覧になりました。
「記録係の方。ミューレン家の暦は、いまどちらに」
「ケルンベルク伯爵家がお持ちでございます。四月九日にお渡しいたしました」
「渡した、と」
「はい。第九条により、水番役はケルンベルク家へ移っております」
ゲルト様は頷かれて、ラウレンツ様のほうをご覧になりました。
「伯爵家は、その暦のとおりに開けておられましたか」
「……四月九日以降は、そのとおりにしている」
ラウレンツ様がお答えになりました。声が少し低うございました。
「写しも受け取った。四十二枚だ。そのとおりに開けている。それでも水が来ない」
「なるほど」
ゲルト様は、そこで初めて笑われました。
「では暦のほうが誤っておりますな」
◆
わたくしは立ち上がりました。父が袖を引かれましたけれど、わたくしは立ちました。記録係が立つのは作法に反しますが、そのときは反しておこうと思いました。
「暦は誤っておりません」
「ほう」
「四月九日の順序では、いま開きません。四月九日の暦は、四月九日までに分かっていたことで書いたものでございます」
「同じことを言うておられる」
「別のことでございます」
わたくしは控えを卓に置きました。六年ぶんの紙束のうち、今年の分だけを抜いて持ってまいりました。
「暦は年に一度作るものではございません。三日に一度、歩いて直します。雪解けの遅れ、雨、田の水の入り。直した分は帳面の余白に書き足して、古いほうを消します」
「消す、とは」
「ケルンベルク家がお持ちの帳面の、今年の頁をご覧くださいませ。字が二重になっております」
ご家臣が帳面をお出しになりました。ラウレンツ様がご自分で七枚目をお開きになって、そこで手を止められました。
消し跡がございます。四月の九日までに、六度直してございます。
「六度、直しております。四月九日に、わたくしはお渡しいたしました。そこから先は、直す者がおりません」
「直す者がいないのは、渡した側の落ち度ではないのかね」
ゲルト様が仰いました。
「役目を渡すなら、直し方も渡すべきでしょう。あなたは紙だけを渡して、直し方を渡さなかった」
卓が静まりました。壁の絵図の、もうない村の名のあたりに日が差しております。
――わたくしは、そこで一度、息を整えました。
「奥様に写しを求められましたので、四十二枚を七日でお作りいたしました。あの折に、来年の順序は別のものになると申し上げました」
「来年の話ではない。今年の話をしている」
「四月九日に、こうも申し上げております。今年の要は四番目、第十七水門だと。印もつけてございます」
「印」
「七枚目に、丸が一つ。ご覧くださいませ」
ラウレンツ様は、頁を見ておいででした。
丸はそこにございます。わたくしが二月に書いた丸でございます。
「ですが」
ゲルト様は書類を閉じられました。
「印の意味は、書いてありませんな」
わたくしは、口を開いて、閉じました。返す言葉が無いのではなく、返してよい言葉が無いのでございます。書いてございません。意味は、口で伝えるものでございました。書く者と読む者が、同じ家におりましたので。
「本日は、堰外取水の有無を調べに参りました」
ゲルト様が仰いました。
「取水はなかったと認めましょう。数字が合いませんから。ですが、別の点が明らかになりました。アルデ堰の水番役は、実務が引き継げていない。役目だけが移って、順序を決める者がどこにもいない」
ゲルト様は、そこで谷の絵図をご覧になりました。
「組合として申し上げます。次の寄合までに、来年の水番の体制について案を出していただきたい。出せぬ場合は――」
この方は、たいそう丁寧に仰いました。
「――アルデ堰の水利権を、組合の直轄に移すことを提案いたします」
◆
帰り道、父は一言も仰いませんでした。集会所を出るとき、ヨナス様が追いかけてこられました。
「今日の数字を、確認させてください」
「はい」
「百四十ヘクタル。それから、六度」
「六度でございます」
「六度直して、四月九日に渡した。……その六度が、あなたの六年です」
わたくしは、返事をいたしませんでした。
返事のかわりに、シュタム村の水路のことを申し上げました。
「明後日、参ります。あそこはまだ、水がございますので」
「印の意味は、書いてありませんな」。ゲルト・シュタイン様も悪人ではございません。手続きの方です。手続きの方は、いちばん痛いところをたいそう丁寧に突いてまいります。
七枚目の消し跡は六度。二月に一度、三月に三度、四月に二度。その六度が六年ぶんの厚みだと分かっているのは、いまのところヨナス様お一人でございます。
口で伝えてきた二十いくつの決まりは、口で伝えてきたぶんだけ証拠になりません。書かずに済ませたものが、そろって請求書になって戻ってまいります。
次回、第九話「堰番小屋の鍵」。三十年、誰も回していない鍵の話です。第十一水門の用途の欄が空いている理由も、そこで。




