第7話 二村目の期日でございます
ニーダー村の水路が切れたと聞きましたのは、翌朝でございます。
知らせを持ってきたのは、ヨナス様ご自身でございました。馬を屋敷の門に繋いで、帽子を胸に当てて、それからこう仰いました。
「昨日の開けは、写しのとおりでした。私が立ち会って、番号を全部書き取りました」
紙束をお出しになりました。
第十四、第十五、第十二。順序は写しのとおりでございます。
「開度は」
「開度、と申しますと」
「水門をどれだけ上げるかでございます。写しには、指三本と書いてございます」
ヨナス様は紙をお繰りになりました。
「……三本、と書いてあります。そのとおりに上げていました」
「はい」
「はい、とは」
わたくしは、少しの間、言葉を選んでおりました。
「今は、五本でございます」
ヨナス様の鉛筆が止まりました。書きかけの「三」の横棒が、途中で細くなっております。
「上の田が水を張っております。張った田は水を吸いません。ですから同じ量を落としますと、下の水路へ回る前に横へ逃げます。逃げる分だけ、開度を上げねばなりません」
「それは、写しには」
「書いてございません」
わたくしは申し上げました。
「写しは、四月に書いたものでございます。四月には、上の田はまだ乾いておりました」
◆
ヨナス様は、しばらく黙って紙をご覧になっておりました。
「では、あの四十二枚は」
「四月の九日の順序でございます。その日までに分かっていたことで書いた順序でございます」
「暦は、途中で変わるのですか」
「変わります」
わたくしは、抽斗から自分の控えを出しました。六年ぶんの紙束でございます。いちばん上の一枚を、ヨナス様の前に置きました。今年の三月末から四月頭にかけての観測でございます。
雨の日と量、田の水の入り、水路の湿り。日付の脇に、そのつど短く印を打ってございます。
「三月の末に、雨が四日続きました。ですから開度を一度、細くいたしました」
「三本を二本に、ですか」
「はい。四月に入って乾きましたので、四日に戻しました」
ヨナス様は書き取られました。四月四日、開度三へ戻す、と。
「帳面のほうには、直した結果だけが残ります。細くした字を消して、上から書き直しますので」
「では、なぜ直したかは」
「この控えにございます」
わたくしは紙束を軽く叩きました。
「帳面をご覧になれば、直したことは分かります。なぜ直したかまでは分かりません」
ヨナス様は、鉛筆を持ったまま動きを止められました。
「……ケルンベルク家がお持ちなのは、直した結果のほうですね」
「はい」
「理由のほうを、あなたが持っている」
「はい」
「それは、あなたのご判断ですか」
わたくしは、そこで言葉に詰まりました。
渡してくれと言われたのは帳面でございます。控えは求められておりません。求められておりませんので、お渡ししておりません。
――それは、判断でございましょうか。
「……申し出ておりません」
わたくしは、そう申し上げました。
「雪の深さ、雪解けの日、雨の日と量、田の水の入り具合。三日に一度は歩いて見ます。見て、順序を直します。直した分は帳面の余白に書き足して、古いほうを消します」
「消す」
「はい。ですから帳面の今年の頁は、字が二重になっております」
ヨナス様は、また鉛筆を持たれました。紙の端が汗で少し波打っております。
「四月九日、開度三。……今は五。書き足しの記録は、どこに」
「わたくしの手元にございます」
「では、ケルンベルク家がお持ちの帳面には」
「四月九日までの分がございます」
ヨナス様は書き取る手を止められました。
「……失礼を申し上げるかもしれません」
「どうぞ」
「あなたは、それをあの方々に伝えましたか」
「伝えておりません」
わたくしは正直に申し上げました。
「役目はお返ししております。役目を持たぬ者が横から順序を申しますと、次に誤りが出たときに、誰の落ち度か分からなくなります」
「それは、村にとってよくないから、ですか」
「はい」
ヨナス様は、そうですか、と仰いました。
それから、こう続けられました。
「私は、それを正しいと思います」
わたくしは顔を上げました。この方は、責めるつもりでそう仰ったのではございません。
「ただ、正しいことと、村に水が来ることは、別だとも思います」
◆
その日の午後、ケルンベルク家が水利組合へ申し立てを出されました。上流のミューレン領で、堰の外の取水が行われている疑いがある、という内容でございます。
つまり、わたくしどもが横から水を抜いている、と。父は書状を読んで、机に置かれました。
「抜いておらぬ」
「はい」
「屋敷の水路は、庭の一筋だけだ。指の幅ほどの水しか取っておらぬ」
「はい。組合の記録にも、そのとおり届けてございます」
組合は谷の三家――ミューレン、ケルンベルク、ハルバッハ――と、村々の代表で成り立っております。堰の水の分け方に文句が出たとき、そこで決めます。
文句が出るのは、十年に一度あるかないかでございます。
「アデリナ。組合は何を見る」
「記録でございます」
「記録は、こちらにあるのか」
わたくしは自分の控えを見ました。六年ぶんの紙束。日付と、数と、字の消し跡。
「ございます」
◆
夕方、ヨナス様がお帰りになる前に、玄関で少しお話しいたしました。
「ハルバッハ様のお家は、組合で発言なさいますか」
「ヨナスで結構です」
「……ヨナス様のお家は」
「発言はできます。ただ、弱い立場です」
この方は帽子を持ち直されました。
「二年前に父が亡くなりまして、家には借財があります。組合の年会費も、去年は待っていただきました」
「そうでございますか」
「その借財は、父が口約束で背負ったものです」
ヨナス様は、そこで少しだけ、笑うような顔をなさいました。笑っておいでではございませんでした。
「聞いただけで、書き留めなかったのです。あとで金額が違うと言われて、証文を出されたときには、もう遅うございました」
わたくしは、この方が数字を書き取る理由を、そのとき初めて聞きました。
「では、ヨナス様」
「はい」
「明日から、三日に一度、一緒に歩いていただけますか」
「歩く、と申しますと」
「シュタム村の水路でございます。まだ切れておりません」
ヨナス様は帽子を胸に当てられました。
「――何時に伺えばよろしいですか」
答えは開度でした。四月は指三本、いまは五本。上の田が水を張ってしまうと、同じ量を落としても横へ逃げてまいります。写しは四月九日の紙で、四月九日の田を前提にしております。
つまり暦は、年に一度作るものではなく、三日に一度歩いて直すものです。帳面に残るのは直した結果だけ。なぜ直したかは控えのほうにございます。あちらが持っているのは結果、こちらが持っているのは理由。この分かれ方が、そのまま査問の争点になります。
ヨナス様が数字を書き取る理由も、今回ようやく。聞いただけで書き留めなかった口約束で、お家が傾いたのだそうです。皆さまも、書き留めましょう。
次回、第八話「四月九日の順序では、開きません」。水利組合の寄合です。上流が水を抜いている疑いがある、と。




