第10話 三村目が涸れる前に
マルグレーテ様に呼ばれましたのは、その翌日でございます。
客間ではなく、蔵の前でございました。ケルンベルク家の蔵は三つございまして、いちばん奥が書付の蔵だと伺っております。
「ミューレン嬢。あなたの控えを、当家へお渡しなさい」
単刀直入に仰いました。
「六年分あると聞きました。四月九日以降の書き足しも、そちらにあるとか」
「ございます」
「では、お渡しなさい。役目に用いる財は、役目とともに移ります」
わたくしは、少しの間、蔵の戸をご覧になっておりました。鉄の帯が三本、横に渡してございます。
「奥様。お渡しすることはできます」
「では」
「ただ、明日には古くなります」
マルグレーテ様の眉が動きました。
「明日、雨が降れば書き足しが要ります。降らなくても、田の水が三日で変わりますので、やはり書き足しが要ります。三日に一度、水路を歩いて、深さを測って、直します」
「では、その歩く者を、当家が雇いましょう」
「はい。雇っていただければ、数は取れます」
わたくしは申し上げました。
「取った数から順序を決めるところは、六年かかりました」
「六年」
「はい。四年目までは、外しております。外した年は、下の村の井戸が濁りました」
マルグレーテ様は蔵の鍵を握っておられました。握ったまま、しばらく動かれませんでした。
この方は、数えられるものを数えて生きてこられた方でございます。蝋燭の本数も、麦の俵も、蔵に入れておけば減りません。
「……蔵に入れておけないものが、あるということですか」
「はい」
「厄介ですこと」
マルグレーテ様は、そう仰いました。それきり、暦の話はなさいませんでした。
◆
門を出ますと、ヨナス様が馬をつないで立っておられました。
どのくらい待っておられたのか、帽子の肩に埃が積もっておりました。
「ミューレン嬢」
「ヨナス様」
「お願いに参りました」
この方は、帽子を胸に当てられました。それから、頭を下げられました。
下げたまま、しばらく上げられませんでした。
「ハルバッハ家の水番として、来ていただけませんか」
わたくしは、すぐには返事ができませんでした。
「三村の水路と井戸を見ていただきたい。年に幾らお払いできるかは、正直に申し上げます。年に十二ターレルです。組合の年会費が払えなかった家ですから、それが精一杯です」
「……ヨナス様」
「二年、こう言えずにおりました」
顔を上げられました。
「人に頼んで、聞き違えて、それで家を傾けました。ですから、頼むのが怖いのです。今日も、門の前で三十分立っておりました」
三十分。
この方は、そこも数えておられます。
「けれど、シュタムの井戸まで六日と伺いました。あと五日です」
わたくしは、抽斗の中の鍵のことを思っておりました。紙が一枚と、鍵が一つ。役目を持たぬ者が水門に触れれば、それはただの不法でございます。役目を持つ者が触れれば、それは水番の仕事でございます。
わたくしとその鍵のあいだに足りなかったのは、六年でも、帳面でもございませんでした。頼まれることでございました。
「お受けいたします」
ヨナス様が、ゆっくりと息を吐かれました。
「……ありがとうございます」
「条件を二つ、申し上げます」
「伺います」
「一つ。年に十二ターレルは、来年からで結構でございます。今年は、村の井戸を優先してくださいませ」
「それは」
「二つ。わたくしは、ケルンベルク家の水門には触れません。触れるのは、組合の許しが出たときだけでございます」
ヨナス様は、二つとも書き取られました。
「書き取りました」
「はい」
「一つ目は、お断りしてもよろしいですか」
わたくしは顔を上げました。
「十二ターレルは、お支払いします。今年からです」
この方は、帽子を持ち直されました。
「頼んだのに払わないのが、うちの家の失敗のはじまりでしたので」
◆
その日の夕方、わたくしは組合へ申請を出しました。ハルバッハ子爵領・水番、アデリナ・ミューレン。
申請の名義に自分の名を書きますのは、生まれて初めてでございました。申請の中身は一つでございます。
――第十一水門、二重扉の使用許可を求む。
理由の欄には、こう書きました。シュタム村井戸まで、あと五日。二重扉により、下流へ三日を作る。中流の田の減水は、およそ二割。
書いてから、しばらく見ておりました。二割でございます。二割は、ケルンベルク領の田でございます。誰かの田を枯らさずに、この谷の水は回りません。祖父様が用途の欄を空けたままにしたのは、それを紙に書きたくなかったからでございましょう。
わたくしは、書きました。書かねば、誰も判断できませんので。
◆
申請を出した二日後、組合から返答が参りました。
寄合を開く、と。同じ日、王領の水利巡察使が谷に入られるという知らせも届きました。そして、ゲルト様から一枚の書付が回ってまいりました。
――アルデ堰下流三村の減水につき、責は上流ミューレン家にあり。水利権を組合直轄へ移すことを、正式に提案する。
鍵は、昨夜から抽斗にございました。足りなかったのは六年でも帳面でもなく、「頼まれること」でした。この一行のために、十話かけております。
頼みに来た側も、頼むのが怖い方でした。門の前で三十分。年に十二ターレルは、組合の年会費すら待っていただいた家の精一杯です。それでも「頼んだのに払わないのが、うちの家の失敗のはじまりでしたので」と、値切らせてくださいません。この二人はたぶん、この先ずっとこういう会話をして生きてまいります。
マルグレーテ様の「厄介ですこと」も気に入っております。この方は負けても、数え方をお変えになりません。
次回、第十一話「組合は、上流の落ち度と申します」。王領の水利巡察使が谷に入られます。
――ブックマークと評価は、水番の報酬十二ターレルの十三枚目に。よろしければ一枚、谷へ。




