第11話 組合は、上流の落ち度と申します
王領の水利巡察使は、供も連れずにおいでになりました。エルマ・ヴァイス様と仰います。五十代の女性で、旅装のまま堰へ上がられました。
わたくしとヨナス様が堤でお迎えいたしましたが、この方はご挨拶もそこそこに、堤の上を端から端まで歩かれました。百二十歩でございます。
歩き終えて、こう仰いました。
「杭は、どこにありますか」
「川べりに、三本ございます」
「読ませていただきます」
水位の杭でございます。堰の上流に一本、下流に二本。毎日読んで、控えに書きます。
エルマ様は膝を折って、杭の目盛りをご覧になりました。それからしばらく、水面と目盛りを見比べておられました。
「今朝の読みは」
「上流、二尺四寸。下流の一番、五寸。二番、三寸でございます」
「どなたが読まれました」
「わたくしでございます」
エルマ様は、初めてこちらをご覧になりました。
「あなたは、どちらの家の方ですか」
「ミューレン男爵家の娘でございます。三日前より、ハルバッハ子爵領の水番を務めております」
「三日前」
「はい」
「その前は」
「六年、アルデ堰の暦を書いておりました。四月九日にお返しいたしました」
エルマ様は、それだけ聞かれて、また杭に戻られました。
「わたくしは記録しか見ません」
「はい」
「ですから、記録を出していただきます。誰が正しいかは、そのあとです」
◆
寄合は、翌日の昼から開かれました。集会所の椅子は十二。今日はすべて埋まっております。三家の当主、村の代表が三人、組合の代理人、それに巡察使。
わたくしは、今日は父の後ろではなく、卓に着いております。ハルバッハ家の水番として呼ばれておりますので。
「では、始めます」
ゲルト様が立たれました。
「本件は単純でございます。四月九日、ミューレン家は水番役を引き継がせた。しかし引き継がれたのは紙だけで、順序を直す術は渡されなかった。結果、下流三村のうち二村が涸れ、田は百四十ヘクタル」
数字が並びます。よく通る声でございます。
「ミューレン家は、暦の書き足しを手元に残しております。役目に必要なものを渡さぬまま役目だけを移した。これは不完全な引き継ぎであり、責は上流にあります」
「異議がございます」
わたくしは申し上げました。
「どうぞ」
「書き足しは、紙ではございません」
「紙に書いてあると伺いましたが」
「書いてはございます。ただ、書き足しを作るには、三日に一度、水路を千九百歩まで歩いて、二十歩ごとに深さを測らねばなりません。それを渡すには、歩く人を渡さねばなりません」
「では、あなたが行けばよろしい」
ゲルト様は、たいそう穏やかに仰いました。
「四月九日以降、あなたはケルンベルク家の水門へ一度も助言をしていない。歩ける人がいて、歩かなかった。それを不作為と申します」
卓が静まりました。誰かが椅子を引く音がして、それきりでございます。
――そのとおりでございます。
わたくしは歩けました。歩いて、申し上げることもできました。申し上げなかったのは、役目を持たぬ者が口を出せば、次の誤りの責任が曖昧になるからでございます。
けれど、その理屈は、涸れた井戸には届きません。
「ミューレン嬢」
エルマ様が仰いました。
「四月九日から今日までに、あなたは何を書きましたか」
「……はい」
「あなたの手元の控えに、その期間の記載はありますか」
「ございます」
「何日分」
「三十九日分でございます。毎日、杭を三本」
「歩いた日は」
「十三日でございます」
エルマ様は、記録の紙に何かを書き付けられました。
「歩いた記録は、誰に頼まれて取ったものですか」
わたくしは、返事に詰まりました。誰にも頼まれておりません。役目を返した日から、頼まれてもいないのに、わたくしはずっと歩いておりました。
「……誰にも頼まれておりません」
「では、なぜ取ったのですか」
「取らないと、来年の順序が決まりませんので」
卓の端で、ラウレンツ様が顔を上げられました。エルマ様は、また何かを書かれました。
◆
「本日の議題は二つございます」
ゲルト様が続けられました。
「一つ。責の所在。二つ。ハルバッハ家の水番より提出された、第十一水門二重扉の使用申請」
絵図の前に、その申請書が貼り出されました。わたくしの字でございます。
「申し上げますが」
ゲルト様は、そこで少しだけ声を落とされました。
「この申請は、中流の田に二割の減水をもたらします。ケルンベルク家の田でございます。すなわち、この提案は上流の家の娘が、婚約を解消した相手の田を枯らす提案でございます」
村の代表の一人が、椅子を鳴らされました。
「そのような読み方は」
「読み方ではございません。書いてあることでございます。二割と、この方ご自身が書いておられる」
わたくしは、その紙を見ておりました。
書いたのは、わたくしでございます。書かねば誰も判断できないと思って、書きました。
「ミューレン嬢。反論は」
エルマ様が仰いました。
わたくしは立ちました。今日は記録係ではございませんので、立つのは作法どおりでございます。
「二割は、わたくしが書きました。書いたとおりでございます」
「では」
「その二割を、どこから引くかは、まだ書いておりません」
卓が、ざわりといたしました。書いた本人が、書いていないところを言い出したのでございますから、当然でございます。
「中流の田は、上の五枚と下の三枚で入りが違います。上の五枚は四月に水を張っておりますので、いま二割を落としても実りに響きません。響きますのは、下の三枚でございます」
「その根拠は」
「六年分の控えでございます。三年前に同じ形で減らしたことがございます。そのときの収穫高が、組合の記録に残っております」
エルマ様が、初めて筆を止められました。
「――組合の記録は、ここにありますか」
ゲルト様が、少し遅れてお答えになりました。
「……書庫にございます」
「では、取り寄せてください」
エルマ様は仰いました。
「三日後、続きを行います。それまでに、双方とも記録をすべて卓に出していただきます」
◆
集会所を出ますと、日が傾いておりました。ヨナス様が紙束を抱えて追いついてこられました。
「三日ですね」
「はい」
「シュタムの井戸まで、あと二日です」
わたくしは、堤のほうを見ておりました。二日でございます。寄合の続きは三日後でございます。順序どおりに待てば、間に合いません。
「歩ける人がいて、歩かなかった。それを不作為と申します」。主人公がいちばん痛いところを突かれる回でございます。しかも突かれた本人が、心の中で「そのとおりでございます」と認めてしまいます。
役目を持たぬ者が口を出せば、次の誤りの責任が曖昧になる。理屈は通っております。通っているのに、涸れた井戸には届きません。皆さまなら、どちらをお取りになりますか。
エルマ・ヴァイス様は、どなたの味方でもありません。記録しか見ないと最初に宣言なさった方です。ですから、頼まれてもいないのに三十九日ぶん杭を読んでいた事実も、ちゃんと数に入ります。
寄合の続きは三日後。シュタムの井戸まで、あと二日。次回、第十二話「第十一水門は、二重でございます」。




