第12話 第十一水門は、二重でございます
その晩のうちに、宿へ伺いました。
エルマ様は谷の宿にお泊まりでございます。灯りの下で、書付を広げておられました。
「ミューレン嬢。寄合は三日後です」
「シュタム村の井戸は、二日でございます」
わたくしは控えを卓に置きました。
「千九百歩の水路の、深さの記録でございます。二十歩ごとに三十九日分。一日あたり、指の五分の一ずつ減っております」
エルマ様は、それを上から順にご覧になりました。
「この減り方は、まっすぐですか」
「いいえ。十日目から急になっております。上の田が満ちた日でございます」
「すると、二日」
「二日でございます」
エルマ様は書付を閉じられました。
「巡察使には、暫定の措置を出す権があります。ただし条件が二つあります」
「伺います」
「一つ。減水を被る側の同意。二つ。措置の期間を数字で切ること」
わたくしは礼をいたしました。
「三日でございます。三日で寄合が開かれますので、そこで正式に決めていただきます」
「同意は」
「これから、伺って参ります」
エルマ様は、少しだけ目を細められました。
「今夜ですか」
「はい」
◆
ケルンベルク家の門を叩きましたのは、夜の九時でございました。夜分に伺うのは無作法でございます。無作法でございますけれど、二日でございます。
通されましたのは、あの客間でございました。マルグレーテ様と、ラウレンツ様。二人ともお休み前の装いでございました。
「こんな刻限に、何のご用でしょう」
「お願いに参りました」
わたくしは、申請書の写しを卓に置きました。
「第十一水門の二重扉を、明朝より三日、閉じさせていただきたく存じます。中流の田の水が、およそ二割減ります」
「お断りします」
マルグレーテ様は、即座に仰いました。
「当家の田を枯らして下の村を救う。それは施しではなく、付け替えです」
「はい。付け替えでございます」
わたくしは申し上げました。
「谷の水は、増えません。どこかを減らさねば、どこかへは行きません」
マルグレーテ様は黙られました。灯りの下で、蝋の落ちる音だけがしております。
「奥様。二割の引きどころを申し上げます」
わたくしは、図を広げました。中流の田の絵図でございます。上の五枚と、下の三枚。
「上の五枚は四月に水を張っております。稲は根がつきましたので、いま二割減らしても実りに響きません。響きますのは下の三枚でございます。下の三枚には触れません。第十一の二枚目を閉じれば、水は上の五枚から先に減ります」
「根拠は」
「三年前でございます。同じ形で減らしたことがございます。そのときの収穫高は、組合の記録にございます。上の五枚は、平年の九割八分でございました」
――九割八分。
その数字を申し上げたとき、ラウレンツ様が口を開かれました。
「……もう一度、言ってくれ」
わたくしは顔を上げました。この方が、数を繰り返してくださったのは初めてでございます。
「上の五枚、平年の九割八分でございます」
「九割八分」
ラウレンツ様は、そう繰り返されました。それから、卓の上の紙を引き寄せられました。ペンを取って、ご自分でその数字をお書きになりました。
書くのに、ずいぶん時間がかかっておいででした。
「四番目が、大事なのだったな」
「……はい」
「第十七だ。丸が付いていた」
「はい」
「わたしは三つで止めた。あのとき、四つ目まで聞いていれば」
ラウレンツ様は、そこで一度、言葉を止められました。
「――今日は、最後まで聞く」
マルグレーテ様が、息子のほうをご覧になりました。
「ラウレンツ」
「母上。上の五枚です。下の三枚には触らないと、この人は言っている」
「けれど」
「わたしは、田の話を今まで一度もしなかった。母上に任せきりでした」
ラウレンツ様は、ペンを置かれました。
「ですから今日は、わたしが決めます。二割は、上の五枚から引いてください」
◆
夜が明ける前に、堰へ上がりました。グスタフ爺と、ヨナス様と、わたくしの三人でございます。エルマ様は堤の端に立って、こちらをご覧になっておりました。
第十一水門は、堤の真ん中にございます。表の扉を半分ほど上げますと、その奥に二枚目の扉がございます。
鍵を差しました。十一、と刻んだ鍵でございます。三十年、誰も回していない鍵でございます。錆が噛んで、途中で止まりました。
「油を」
爺が差し出してくれました。継ぎ目に垂らして、しばらく待ちます。東の空が白んでまいりました。もう一度、回しました。
――かちり、と音がいたしました。
二枚目の扉は、思ったより軽うございました。歯車を六度回しますと、扉が水の中へ降りてまいります。六度目で、水音が変わりました。
上の溜まりが二つに割れて、片方が下の水路へ落ちてまいります。白い水が、水路を下って行くのが見えました。乾いた土の上を、先を尖らせて、走るように進んでまいります。
「――走りますね」
ヨナス様が仰いました。
「乾いた水路では、水は走ります。土に吸われる前に先へ行こうといたしますので」
わたくしは、そう申し上げながら、目盛りを読んでおりました。
上流、二尺一寸。下流の二番、五寸。
「ヨナス様。数だけ申し上げます」
「はい」
「シュタムの井戸まで、三日と半日。持ちます」
ヨナス様は、鉛筆を握ったまま、しばらく書かれませんでした。
「……三日と、半日」
「はい」
「書き取りました」
東から日が差して、堤の影が長く伸びました。
グスタフ爺が、白い眉の下で目をこすっておりました。
「三十二年で、初めて開けましたわ」
「爺」
「へえ」
「鍵は、お返しいたします」
「へえ。……三日後にでも」
錆びた鍵は、一度では回りません。油を垂らして、待って、もう一度。歯車を六度回して、六度目に水音が変わる。この段取りを一つずつ書きたくて、十一話かけて錆びさせておきました。
「乾いた水路では、水は走ります」。土に吸われる前に、先へ行こうといたしますので。
そして九割八分。ラウレンツ様が生まれて初めて数字を繰り返し、ご自分の手でお書きになります。三つで止めた方が四つ目まで聞くようになるのに、六十日。遅うはございません。十年よりは、よほど早うございます。
次回、第十三話「四十二回、すべて記してございます」。卓の上に、六年ぶんを積みます。
――ブックマークと評価は、三十年ぶんの錆に垂らす油の一滴に。一滴で、扉は開きます。




