第4話 濁った水の瓶
子どもの名はミナと申しました。ロート村の、鍛冶屋の下の娘でございます。
瓶は葡萄酒の空き瓶で、中の水は薄く茶色く濁っておりました。底に細かい砂が沈んでおります。
「これは、どこで汲みましたか」
「うちの井戸」
「井戸の水が濁ったのは、いつから」
ミナは指を三本立てました。
「三日前」
わたくしは瓶を陽にかざしました。濁りには種類がございます。粘土の濁りは白っぽく、いつまでも沈みません。畑の土の濁りは黒く、すぐ沈みます。この濁りは赤茶で、砂が沈んでおります。
赤茶の砂が出ますのは、第十二水門から落ちる水路の、上のほうでございます。あのあたりは鉄気の土でございますので。
水路の水が減りますと、井戸へ回る分も減ります。減ったところへ、水路の底のほうの水が入ります。底の水は砂を巻いております。
「井戸が濁ったのは、水路が細くなったからでございます」
わたくしは瓶を門の脇の台に置いて、少し待ちました。砂は、数を数えるあいだに沈みます。十まで数えて沈むのは粗い砂、五十まで数えて沈むのは細かい砂。今日の砂は、三十でございました。
三十で沈む砂は、水路の底から二寸ほどのところにございます。つまり、井戸へ回っている水は、水路のいちばん底の水でございます。
上のきれいな水は、もう来ておりません。
「お嬢様」
ハンナが子どものために湯冷ましを持って出てまいりまして、ついでに瓶を覗きました。
「これ、飲めるので」
「煮れば飲めます。ただ、赤子と年寄りには煮ても勧めません」
「うちの村でも、昔そういうことが」
「四年前でございます」
わたくしは申し上げました。
「四年前、わたくしが順序を外しました。そのときも同じ色でございました」
ハンナは、それ以上何も申しませんでした。この娘が黙るのは、二度目でございます。
「なおる?」
わたくしは、なおります、と申し上げそうになって、口を止めました。
今年は、なおりません。
「……この瓶は、お預かりしてもよろしいですか」
「うん」
「お返しいたします。必ず、お返しいたします」
ミナは瓶より、わたくしの手巾のほうを気にしておりました。泥がついたままでございましたので。
◆
その日の夕方、屋敷に客がございました。
ハルバッハ子爵。下流三村を預かるお家でございます。お若い方でございました。二十四とうかがっております。二年前にお父上を亡くされて、家督を継がれたばかりと。
「ヨナス・ハルバッハと申します。突然に失礼をいたします」
この方は、帽子を胸に当てて頭をお下げになりました。子爵が男爵家の娘に、そこまでなさることはございません。
「ミューレン家の暦を、拝見したいのです」
「……暦は、ケルンベルク伯爵家がお持ちでございます」
「伺いました。伺いましたが、書かれたのはあなただと聞きましたので」
わたくしは客間へお通しいたしました。父は席を外しておりました。
「三村の水路の見取り図をお持ちいたしました。どこがどう涸れているか、朝に歩いて参りました」
ヨナス様は紙を広げられました。手の込んだ図ではございません。線と、村の名と、数字が書き込んであるだけでございます。
けれど、数字が正確でございました。
「ロート村の水路、東を回る分の長さは千二百歩でございますね」
「――千二百八十歩でございます」
ヨナス様は懐から小さな紙束を出して、鉛筆でそれを書き取られました。
「もう一度、数だけ仰ってください」
「千二百八十歩」
「千、二百、八十。……失礼、書き取っております」
わたくしは、少し驚きました。
数を言って、その場で書き取られたことが、これまでにございませんでしたので。
「ハルバッハ様」
「ヨナスで結構です」
「では、ヨナス様。井戸の濁りは、いつからでございますか」
「ロートが三日前、ニーダーが昨日から。シュタムはまだ濁っておりません」
「シュタムは、いつ切れますか」
ヨナス様は紙をお繰りになりました。
「……分かりません。それを伺いに参りました」
わたくしは瓶を卓に置きました。赤茶の砂が、静かに底へ落ちてまいります。
「順序を戻せば、ニーダーはまだ間に合います。シュタムは、水路が長うございますので難しゅうございます」
「難しい、というのは」
「上の田がもう水を張っております。抜けば上が枯れ、抜かねば下へ回りません。今年の水は、上に入ってしまいました」
ヨナス様は、それも書き取られました。書き取ってから、鉛筆を置かれました。
「では、三村は今年、麦を諦めることになりますか」
「……はい」
この方は、そうですか、とだけ仰いました。声を荒げも、卓を叩きもなさいませんでした。
わたくしは、その静けさのほうが応えました。
「ヨナス様。一つだけ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「堰の第十一水門は、二重になっております」
ヨナス様が顔を上げられました。
「二重、と申しますと」
「扉が二枚ございます。表の扉と、その奥にもう一枚。祖父の代に付けたものでございます」
「なぜ二枚も」
「……祖父の代に、一度事故がございました。それきり、父は第十一の話をいたしません」
わたくしも、そこまでしか存じません。帳面には、第十一水門・二重、とだけ書いてございます。使い方の欄は、六代目の頁で空白のままでございます。
「使えるのですか」
「分かりません。わたくしは一度も開けたことがございません」
ヨナス様は、それも書き取られました。第十一、二重、用途不明、と。
帰り際、玄関で帽子を胸に当てて、この方はまた頭を下げられました。
「今日伺った数字は、七つでした。全部書き取りました」
「はい」
「二年前から、そうしております」
理由は仰いませんでした。わたくしも伺いませんでした。門を出ていかれる背を見送りながら、わたくしは机の空の抽斗のことを思い出しておりました。
今夜は、書くものがございます。三村の水路の長さと、井戸が濁った日でございます。
数を申し上げると、その場で書き取る方が出てまいりました。ヨナス・ハルバッハ、二十四歳。千二百八十歩を「千、二百、八十」と三つに割って復唱する律義さは、書いていていちばん楽しいところでした。この癖には理由がございます。理由のほうは、もう少し先で。
濁りにも種類がございまして、赤茶は鉄気、白は粘土、黒は畑。三十数えて沈む砂は、水路の底から二寸あたりの水です。――作者はこの砂を沈めるために、しばらく台所で泥水を睨んでおりました。
次回、第五話「手習い、と父は申しました」。伯爵夫人から、暦の写しを至急よこすようにとの書状が届きます。




