第3話 三日で、下の村から涸れます
三日目の昼に、ケルンベルク家の使いが屋敷へ参りました。馬を降りるなり、上流が水を止めているのではないか、と仰いました。
父が応対に出ようとなさいましたので、わたくしが先に立ちました。
「止めておりません。堰の水門はすべてケルンベルク家がお預かりでございます。わたくしどもには開ける権も、閉める権もございません」
「では、なぜ下の村の水路が干上がる」
「参りましょう」
◆
ロート村の水路は、村の東を回って南へ抜けております。わたくしが着きましたとき、村の者が十人ばかり、その水路の縁に立っておりました。誰も何も申しません。ただ底を見ておりました。
水はございませんでした。底の泥が乾いて、亀の甲のように割れております。割れ目の深さは指の一関節ほど。これは昨日今日に涸れたのではなく、二日かけて減って、今朝方に切れた形でございます。
三日でございます。わたくしは膝を折って、割れた泥に触れました。乾いております。日が当たっている面だけでなく、下の層まで乾いております。
水路の縁に、白い線が二本ついておりました。水が減るときには、線が残ります。一日目の水位に一本、二日目の水位に一本。三日目には線を作る水がございませんので、線は二本で止まります。
村の年寄りが、杖をついて隣に立たれました。
「一昨日の朝までは、脛まで来ておりました」
「昨日の朝は」
「くるぶしで」
「今朝は」
「ございません」
脛からくるぶしまでが一日。くるぶしから底までが一日。線が二本、そのとおりに残っております。村の水車が止まっておりました。羽根が半分だけ濡れて、そこから下が白く乾いております。止まってから、半日は経っております。
水車が止まりますと、粉が挽けません。粉が挽けませんと、村はパンを他所から買います。井戸がまだ出ておりますうちは、それで凌げます。
凌げなくなりますのは、井戸が濁ってからでございます。
「アデリナ嬢」
ラウレンツ様が堤の道からお降りになりました。ご家臣が三人、後ろに続いておられます。
「これはどういうことだ」
「順序でございます」
「順序どおりに開けている。番号の順に、一日一つずつ」
「はい」
わたくしは立ち上がって、泥を手巾で拭きました。
「番号の順は、水の順ではございません」
ラウレンツ様は黙られました。
「第五水門を先にお開けになりましたので、上流の田に水が入りました。上の田は水を張るまでに時間がかかりますから、そのあいだ、下へ落ちる分が細くなります」
「細くなるだけだろう」
「今年は雪解けが十日遅れております。下の水路はその十日ぶん、余分に乾いておりました。乾いた土は水を吸います。細くなった水は、途中の土に吸われて、いちばん下まで届きません」
「……それは、書いてあったのか」
「七枚目でございます」
ご家臣の一人が、鞄から帳面をお出しになりました。革紐で結わえた、あの帳面でございます。
わたくしはそれを受け取りませんでした。受け取る立場ではございません。
「お開きくださいませ。七枚目でございます」
ラウレンツ様がご自身で紐をほどかれました。指がもつれておいででした。表紙を開けると、押し花が一枚、はらりと落ちました。ご家臣が慌てて拾われました。
七枚目。今年の頁でございます。上の欄に、雪解け、十日遅、と書いてございます。その下に、一番、第十四。二番、第十五。三番、第十二。四番、第十七。
四番のところに、丸が付けてございます。わたくしが書いた丸でございます。
「四番に印がある」
「その年いちばん大事な一つに、印をつけております。父の代からの決まりでございます」
「なぜ第十七が大事なのだ」
「いちばん下のシュタム村へ落ちる水路の、口を開ける水門でございますので。第十七を先に開けて水路を湿らせておきませんと、あとから流しても土が吸ってしまいます」
ラウレンツ様は頁を見ておいででした。長うございました。
わたくしは待っておりました。責めることは、何も申し上げておりません。申し上げることが一つもございませんでした。書いてあるものを読み上げただけでございます。
「……四月の九日に、これを渡されたな」
「はい」
「わたしは、二行しか読まなかった」
「はい」
村の者が誰も口をききませんでした。ただ、乾いた水路の底を見ておりました。
「今から第十七を開ければ、戻るのか」
「今からでは、ロート村には戻りません」
わたくしは申し上げました。
「上の田がもう水を張っております。張った田から水を抜けば、上の田が枯れます。抜かなければ、下へ回る量が足りません。今年の水は、上に入ってしまいました」
「では、どうすればいい」
わたくしは口を開きかけて、閉じました。申し上げたいことは、たくさんございました。六年ぶん、毎晩書いてまいりましたので。
けれど、わたくしはもう水番ではございません。役目を持たない者が口を出しますと、次に誤りが起きたときに、誰の落ち度か分からなくなります。それがいちばん、村にとってよくないことでございます。
「暦のとおりになさってください」
わたくしはそう申し上げました。
「それだけでございます」
◆
帰りの道で、ハンナが黙って歩いておりました。この娘が黙るのは珍しいことでございます。
「お嬢様」
「はい」
「気持ちがようございましたか」
わたくしは少し考えて、正直に申し上げました。
「……いいえ」
嘘ではございません。
乾いた水路の底は、わたくしが六年、水を通してきた場所でございます。
「けれど、ハンナ」
「はい」
「あの頁を、あの方がご自分で開かれました」
十年で、初めてのことでございました。村の入口で、小さな子が一人待っておりました。おとといの晩、屋敷の門まで瓶を持ってきた子でございます。
瓶の中の水は、今日はもっと濁っておりました。
「番号の順は、水の順ではございません」。この一行を言わせるために、二話ぶん黙っていていただきました。
アデリナは責めません。声も荒げません。ただ七枚目をお開きくださいと申し上げるだけで、あとは水が三日で答えを出します。乾いた水路の縁に残る白い線が二本――あれを、数えられる形の怒りのつもりで書きました。
十年で初めて、あの方がご自分の手で表紙をお開きになりました。落ちた押し花のほうは、まだ終わっておりません。
次回、第四話「濁った水の瓶」。ロート村の子が持ってきた瓶が、日ごとに濃くなります。
――ブックマークと評価は、川べりの杭を三本立て直す墨代に充てさせていただきます。




