第2話 十七の水門と、四十二回の順序
翌朝、わたくしはアルデ堰におりました。役目はお返しいたしましたけれど、最初の開けだけは立ち会うようにと父が申しましたので、堤の上に立っております。立ち会うと申しましても、口を出す立場ではございません。
堰は谷を横に塞いでおります。堤の長さは百二十歩。そこに水門が十七、上から順に並んでおります。第一から第五までが上流の田へ、第六から第十一までが中流へ、第十二から第十七までが下流へ落ちる水路につながっております。
「では、始めよう」
ラウレンツ様が仰いました。ご家臣が四人、それに堰番のグスタフ爺が一人。爺はわたくしを見て、目だけで会釈をいたしました。
「順序を申し上げます」
わたくしは帳面――ではなく、覚えているままを申し上げました。帳面はもうケルンベルク家のものでございます。
「今年の一番目は第十四水門。二番目が第十五。三番目が第十二でございます」
「下からか」
「はい。今年は雪が多うございましたので、下から順に水を通します。下の水路が乾ききっておりますと、上から流しても土が吸ってしまいますので」
「四番目は」
「第十七、それから第十三、第十六と続きまして――」
「わかった」
ラウレンツ様は手をお挙げになりました。
「三つ覚えれば十分だ。あとは順に開けていけばよかろう」
ご家臣のお一人が、帳面を開いて食い下がってくださいました。若い方でございます。
「若様。ここに記号が並んでおりますが、これは」
「読めるのか」
「……いえ」
帳面の順序の欄には、丸と棒と、点が打ってございます。丸が全開、棒が半分、点が指の幅でございます。五代目からの決まりでございまして、書いてはございません。
「そちらの丸は、全開でございます」
わたくしが申し上げますと、その方は書き留めようとなさいました。矢立をお持ちでなかったので、手のひらに指で書いておられました。
「棒は半分。点は指の幅。点の脇に小さな数がございましたら、それが指の本数でございます」
「指の、本数」
「今日は三本でございます」
「三本」
その方は三度、繰り返されました。
ラウレンツ様が、そこで仰いました。
「クラウス。そう細かく覚えずともよい。書いてあるのだろう」
「は」
クラウス様は帳面を閉じられました。わたくしは、その方の名を覚えました。この谷で、記号の意味を尋ねてくださった最初の方でございます。
わたくしは口を閉じました。四番目からがこの年の要でございます。第十七を先に開けませんと、いちばん下のシュタム村へ落ちる水路に水が回りません。順に、と仰いますのは番号の順ということでございましょうけれど、番号の順は水の順ではございません。
「――第五水門を開けろ」
「第五水門。四月に入りましてから一日に一つずつ、これで五つ目にございます」
ご家臣の一人が復唱なさいました。第五水門は、上流の田へ落ちる水門でございます。グスタフ爺がわたくしを見ました。わたくしは堤の上に立っておりました。
わたくしはもう、水番ではございません。
「アデリナ嬢」
ラウレンツ様が仰いました。
「何か言いたいことがあるようだが」
「……いいえ」
「気になるなら言えばいい」
「順序は、七枚目に書いてございます」
わたくしはそう申し上げました。
ラウレンツ様は、少しお笑いになりました。困ったときにお笑いになる方でございます。悪気はございません。この十年、悪気があったことは一度もございません。
「書いてあるなら問題ないな」
「はい」
水門が上がりました。朝の光の中で、水が白く跳ねて上流の田へ落ちてまいります。ご家臣の方々が声を上げられました。よい水だ、と誰かが仰いました。
よい水でございます。今年の雪解けは十日遅れましたけれど、量そのものは例年より多うございます。その水が、いま上の田へ入っていきます。
◆
堤を下りますと、グスタフ爺が桶を担いで待っておりました。
「お嬢様」
「もう、お嬢様の役目ではございません」
「へえ。……三番目までで、よろしいので」
「よろしいのです。帳面はお渡ししてございますから」
爺は白い眉を動かして、それから桶を担ぎ直しました。
「わしは今年で堰番を三十二年になります」
「存じております」
「三十二年で、下から開けなんだ年は二度ございました。二度とも、下の村が涸れました」
「……はい」
「二度とも、九日目でございました」
わたくしは足を止めました。九日。第五を先に開けた年の記録でございます。あれは三代目の頁に書いてございました。
けれど今年は、雪解けが十日遅れております。下の水路は、例年より十日ぶん長く乾いております。乾いた土は水を吸います。吸う土に上から水を流せば、下へ届く量はさらに減ります。
九日ではございません。
「爺」
「へえ」
「今年は、三日でございます」
爺はしばらく黙っておりました。それから、そうでございましょうな、と申しました。
◆
屋敷に戻りますと、卓の上に小さな箱が置いてございました。
婚約指輪でございます。昨日、返却の手続きを済ませてまいりました。こういうものは、指輪そのものを投げ返すのではございません。受領の控えをいただいて、双方が署名をして、写しを一枚ずつ持ちます。それが取り決めどおりの作法でございます。
わたくしは控えを抽斗にしまいました。空だった抽斗に、紙が一枚だけ入りました。
「お嬢様」
ハンナが戸口から顔を出しました。
「ロート村の子が、門のところに来ております」
「ロート村の」
「はい。何か、瓶を持って」
わたくしは立ち上がりました。ロート村は、下流三村のいちばん上でございます。第十二水門から落ちる水路の、終わりのあたり。
今日は、開けから一日目でございます。
今回いちばん書きたかったのは、帳面の記号でした。丸が全開、棒が半分、点が指の幅。点の脇の小さな数が、指の本数。この二十いくつの決まりは、どこにも書いてありません。書く者と読む者が、ずっと同じ家におりましたので。
覚えようとなさったのは、矢立も持たず手のひらに書いたクラウス様お一人です。あの手のひらは、後でちゃんと効きます。
グスタフ爺は三十二年で二度しか外していない方ですが、その二度を九日目まで覚えておいでです。三十二年で、二度。――今年は、三日でございます。
次回、第三話「三日で、下の村から涸れます」。




