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水門の開け閉めは、暦のとおりになさってください 〜婚約解消の三日後、領地の水が止まりました〜  作者: 芹沢たえ


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第1話 暦をお返しいたします

「水門は十七ございます。開け閉めは、年に四十二回でございます」


 帳面を膝の上で閉じて、わたくしはそう申し上げました。ラウレンツ様は窓の外をご覧になったまま、そうか、と仰いました。


 十年のあいだ、この方がアルデ堰をご覧になったのは三度でございます。三度とも、水は流れておりました。流れているものは、放っておいても流れていると思われたのでしょう。


「婚約の解消を、こちらからお願い申し上げます」


 わたくしが申し上げますと、ラウレンツ様は初めてこちらをお向きになりました。驚いていらっしゃいましたけれど、それは解消のことではなく、わたくしが自分から口をきいたことに対してでございました。


「……理由を聞こう」


「理由は、書面に記してございます」


 卓の上には、もう一枚置いてございました。婚約解消の申し入れ書。父の署名と、わたくしの署名。日付は今日でございます。


 ラウレンツ様はそれをお取りになって、二行だけお読みになりました。二行目までで、もう十分だと思われたようでございます。


「水番の役目のことか」


「はい」


「あれは去年、決まったことだろう。婚姻をもって、こちらが引き継ぐと」


「第九条でございます」


 わたくしは申し上げました。婚約契約書の第九条。アルデ堰の水番役は、婚姻の成立をもってケルンベルク伯爵家へ移す、という一条でございます。


 その条は、たいそう短うございました。ほかの条は但し書きが三つも四つも付いておりますのに、第九条だけは一行で終わっております。移す、とだけ書いてございます。何を移すのかは、書いてございません。


「今年の分から、実務はもう始まっております。四月の開けは、ケルンベルク家のご家臣が立ち会われました」


「ああ、そうだったな」


「ですから、お返しするものがございます」


 わたくしは、もう一つの包みを卓に置きました。革の紐で結わえた、厚い帳面でございます。


「引き継ぎ簿でございます。今年の順序は、七枚目からでございます」


 卓の上に置きました。指を離すのに、少しだけ間が要りました。


 七代、百三十年ぶんの順序でございます。そのうち六年ぶんは、わたくしの字でございました。


「これは」


「暦でございます。どの水門を、どの順で開けて、どの順で閉じるか。年に四十二回、その順序を記したものでございます」


 ラウレンツ様は革紐をほどこうとなさって、途中でおやめになりました。かわりに指先で表紙を叩かれました。二度でございます。


「順序など、紙に書いてあるのだろう」


 わたくしは、はい、と申し上げました。


 書いてございます。そのとおりでございます。


「では困ることはない。誰が開けても同じだ」


「……はい」


 それ以上は申し上げませんでした。申し上げてもよかったのでございますけれど、この方が三度しか堰をご覧にならなかった十年を、今日この場で埋めることはできません。


 帳面の背には、六代分の手あかが黒く残っております。表紙の裏には、押し花が一枚挟んでございました。母が観測に出た日の、川べりの花でございます。母は、わたくしが十のときに亡くなりました。


 押し花だけは、抜いておけばよかったかもしれません。けれど帳面の一部でございますから、抜くわけにはまいりません。


「アデリナ」


「はい」


「怒っているのか」


 わたくしは、少し考えました。


「いいえ」


「そうか」


「お怒り申し上げる筋のことではございませんので」


 ラウレンツ様は、なぜか安心なさったようでございました。安心なさったお顔を拝見して、わたくしはようやく、この十年が終わったのだと思いました。


    ◆


 馬車を待つあいだ、玄関の脇でハンナが荷を数えておりました。


「お嬢様、これで全部でございますか」


「ええ」


「帳面はお持ちにならないので」


「置いてまいりました。あれはお役目のものですから」


 ハンナは口を尖らせました。この娘はわたくしと同い年で、遠慮というものを持ち合わせておりません。


「お嬢様が六年、毎晩書いていらしたのに」


「六年ぶんは、七代のうちの一部です」


「そこで礼をなさるところですか」


 わたくしは玄関に向かって礼をしておりました。癖でございます。馬車が動き出しますと、窓の外を用水路が並んで流れてまいりました。ケルンベルク領の田は、今年もよく水が入っております。中流の田でございますから、堰を開ければ真っ先に水が来ます。


 その先、丘を二つ越えたところに、ハルバッハ子爵領の三つの村がございます。ロート村、ニーダー村、シュタム村。いちばん下の村まで水が届くには、十七の水門を、決まった順に開けなければなりません。


 順序を一つ違えますと、水は途中で分かれてしまいます。上の田に入った水は、下へは戻ってまいりません。


 三日でございます。三日で、下の村から涸れます。それを言わずに帰ってまいりましたのは、わたくしの落ち度でございましょうか。


 いいえ、と思い直しました。帳面には書いてございます。七枚目から、今年の順序が。書いてあるものを読んでいただけないことまでは、わたくしのお役目ではございません。


    ◆


 その晩、父が書斎でわたくしを待っておりました。


「置いてきたのか」


「はい」


「そうか」


 父はそれきり何も仰いませんでした。ただ、机の上に古い帳面を一冊広げて、ずっと同じ頁をご覧になっておりました。


 わたくしにはその頁が見えました。四代目の字でございます。父の字ではございません。自分の部屋に戻りまして、机の抽斗を開けました。


 空でございます。六年、毎晩そこに帳面がございました。今日から、書くものがございません。窓を開けますと、雪解けの水の音が聞こえてまいりました。今年は雪が多うございましたから、水は例年より十日ばかり遅れて出てまいります。


 ――そのことは、七枚目に書いてございます。


 明日の朝、ケルンベルク家のご家臣が第五水門をお開けになります。順序では、第五は三番目ではございません。九番目でございます。


 わたくしは窓を閉めて、灯りを消しました。

「怒っているのか」「いいえ」「お怒り申し上げる筋のことではございませんので」。ここで安心できてしまう方だからこそ、この十年、帳面は一度も開かれませんでした。


ラウレンツ様は悪人ではありません。ただ、書類を二行読んで足りたことにしてしまう方です。心当たりのある方は、どうぞそっと胸に手を当ててくださいませ。


返上した引き継ぎ簿の七枚目に、今年の順序が書いてございます。明日の朝あちらが開けるのは第五水門。順序では、九番目です。


次回、第二話「十七の水門と、四十二回の順序」。数えていた人が、堤の上で口を閉じます。


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