第14話 水利権の帰属について
裁定は、翌日の朝に読み上げられました。
エルマ様は立たれませんでした。座ったまま、紙を手に取られました。
「王領水利巡察使として、アルデ堰の件について申し上げます。異議は数字でどうぞ」
◆
「一。堰外取水の事実は認められません。ミューレン家の届出は指幅一寸、実測も一寸です」
父が、小さく息を吐かれました。届けの一寸は、六代のあいだ変えずに出してきた数でございます。
「二。下流三村の減収は、算定を改めて百三十四ヘクタルとします。シュタム村分は通水日の差により二十一。ハルバッハ子爵の申告によります」
ゲルト様は何も仰いませんでした。ご自分の算定書に、赤で線を引いておられます。
「三。責の所在について」
エルマ様は、そこで紙から目を上げられました。
「一方に帰しません」
卓が、ざわりといたしました。責を分けるという裁定は、この谷では十年に一度もございません。
「ミューレン家は、四月九日をもって順序の更新を止めました。止めることを事前に告げていません。これは不作為です。ケルンベルク家は、渡された帳面を四月九日に二行しか読まず、以後六十日にわたって読み返していません。これは不履行です」
「――お待ちください」
マルグレーテ様が仰いました。
「読まなかったことが、なぜ落ち度になるのです。読んで分かるものではなかったと、この方ご自身が申しております」
「そのとおりです」
エルマ様は否定なさいませんでした。手の紙をめくって、次の項へ移られます。
「ですから、四に移ります」
◆
「四。婚約契約書第九条について」
エルマ様は、その条を読み上げられました。
――アルデ堰の水番役は、婚姻の成立をもってケルンベルク伯爵家へ移す。
「この条は、役目を移すと書いてあります。役目に用いる帳面のことは、一言も書かれていません」
わたくしは、卓の下で手を組んでおりました。第九条は、十年のあいだ一度も読み返したことのない一行でございます。
「本件で争われたのは、帳面が誰のものかということでした。ミューレン家の私物か、ケルンベルク家へ移った財か。わたくしは、どちらでもないと判断します」
「では、どこのものだと」
ゲルト様が身を乗り出されました。鞄の留め金に指をかけたまま、今日はまだ一度も開けておられません。
「堰のものです」
エルマ様は、絵図のほうをご覧になりました。
「百三十年、七代にわたって書き継がれ、七つの家と三つの村の水を回してきた記録です。一つの家の蔵に入れておくと、蔵から出さない年に谷が涸れます。実際、今年がそうでした」
エルマ様は、紙を置かれました。
「よって裁定します。アルデ堰の暦は、組合の書庫に置きます。所有は組合。ただし――」
そこで、この方は初めて、わたくしのほうをご覧になりました。
「――書き入れる権は、書ける者に与えます。組合はこれを水番として指名し、報酬を払います」
◆
「五。水番の指名について」
「アルデ堰の水番は、ミューレン男爵家アデリナ・ミューレンとします。任期は三年。ハルバッハ子爵家は下流の観測を分担し、ケルンベルク伯爵家は水門の開閉実務と、その費用を負担します」
わたくしは、立ち上がって礼をいたしました。
礼をしながら、手が少し震えておりました。六年、毎晩やってきたことに、初めて名前が付いたからでございます。
「六。第十一水門二重扉の使用は、これを承認します。期間は本日より七日。中流の田の減水は上の五枚から引き、下の三枚には及ぼしません。以上」
エルマ様は紙を畳まれました。
「異議のある方は」
誰も手をお挙げになりませんでした。
ゲルト様が、書類を鞄にしまわれました。しまい終わってから、一言だけ仰いました。
「……お手習いを、証拠と呼んで失礼いたしました」
「いいえ」
わたくしは申し上げました。
「手習いでございました。四年前までは」
マルグレーテ様が、膝の上で手をお組みになりました。蔵の帳面を閉じるときと同じ手つきでございます。
「……蔵に入れておけないもの、でしたね」
わたくしのほうは、ご覧になりませんでした。ご覧にならないまま、そう仰いました。
◆
寄合が終わって、集会所の外でラウレンツ様に呼び止められました。
「アデリナ嬢」
「はい」
この方は、しばらく言葉をお探しでございました。
「十年、一度も帳面を見なかった」
「はい」
「三度、堰へ行った。三度とも、水は流れていた」
「はい」
「流れているものは、放っておいても流れていると思っていた」
わたくしは、返事をいたしませんでした。
「……三番目までしか、聞かなかった」
ラウレンツ様は、そう仰いました。
それが、この方がご自分の口で言われた、いちばん長い数字でございました。
「謝ってもよいか」
「謝っていただくことではございません」
「では、何なのだ」
わたくしは、少し考えました。
「四番目を、聞いていただくことでございます」
ラウレンツ様は、笑われました。今度は、困ったときのお笑いではございませんでした。
「――来年の四番目は、何だ」
「まだ決まっておりません。秋の雪を数えてからでございます」
「そうか」
この方は、帽子を被り直されました。
「ではそのときに、聞かせてくれ。最後まで聞く」
◆
馬車を待つあいだ、ハンナが荷を数えておりました。
「お嬢様、これで全部でございますか」
「ええ」
「帳面は」
「組合の書庫へ参ります。わたくしは、書きに行くことになりました」
ハンナは、しばらくぽかんとしておりました。それから、こう申しました。
「じゃあ、これからも数えるんですねえ」
「ええ」
「頼まれて?」
「頼まれて、でございます」
わたくしは、そう申し上げました。六年、頼まれずに数えてまいりました。頼まれた今日から、数えることの重さが少しだけ変わったように思います。
軽くなったのではございません。誰かに渡せるものになった、ということでございます。
「堰のものです」。暦の帰属は、私物でも婚家の財でもなく、そこへ落ち着きました。一つの家の蔵に入れておくと、蔵から出さない年に谷が涸れる。今年が、まさにそれでございました。
そのうえで「書き入れる権は、書ける者に与えます」。六年、毎晩やってきたことに、ここで初めて名前が付きます。礼をしながら手が震えるのは、勝ったからではありません。
ラウレンツ様の「ではそのときに、聞かせてくれ。最後まで聞く」も、謝罪より重い一言のつもりで置きました。この方は謝ろうとなさいましたが、求められたのは謝罪ではなく、四番目を聞くことでした。
次回、第十五話「来年の暦を、書き始めます」。最終話です。八冊目の、白い一枚目から。




