第15話 来年の暦を、書き始めます
秋になりました。組合の書庫は、集会所の裏にございます。石造りで、高いところに窓が一つ、壁ぎわに棚が四つございます。
いちばん下の棚に、七代分の帳面が並びました。革の背が七つ、並んで立っております。わたくしは八冊目を持ってまいりました。表紙はまだ白うございます。
「アデリナ嬢。判をお願いします」
書庫番の方が帳面をお出しになりました。出納の記録でございます。誰がいつ持ち出して、いつ返したか。
わたくしは判を押しました。
――八代・アデリナ・ミューレン。
押してから、しばらくその字を見ておりました。声に出して申し上げたことは、今でもございません。ただ、紙の上には、これで八年分になります。
◆
その日から、冬の観測が始まります。雪の深さを七か所、月に二度でございます。川の水位は毎日、杭を三本。それに、井戸の濁りを三村で見てまいります。
七か所のうち、二か所はミューレン領、二か所はケルンベルク領、三か所はハルバッハ領にございます。今年からは、それぞれのお家の方が測ってくださることになりました。
ケルンベルク家からは、クラウス様が来られます。あの春に、記号の意味を尋ねてくださった方でございます。
「丸は全開、棒は半分、点は指の幅」
「はい」
「点の脇の数が、指の本数ですね」
「よく覚えていらっしゃいます」
「手のひらに書きましたので」
この方は、そう仰って笑われました。
濁りの見方をヨナス様にお教えいたしました。瓶に取って、一晩置いて、底の砂を見る。赤茶なら鉄気の土、白なら粘土、黒なら畑。
「一晩、ですね」
「はい。慌てて見ますと、砂が沈んでおりませんので」
「一晩置く。……書き取りました」
この方は、相変わらず書き取られます。シュタム村の井戸は、九月の末に少しだけ澄みました。二年かかると申し上げましたけれど、思ったより早うございます。
ミナがそれを知らせに走ってまいりました。瓶を持って。
「見て」
「はい」
「まだ濁ってる。でも、まえより薄い」
「はい。薄うございます」
わたくしは、その日の欄にこう書きました。
――九月二十九日、シュタム井戸、赤茶、前月より薄。
数えられるものは、忘れなくてよいのだと母は申しました。薄くなったことも、数えれば残ります。
中流の田の刈り入れも、済んでおります。二割を引いた上の五枚は、平年の九割七分でございました。
九割八分と申し上げましたので、一分は、わたくしの見込み違いでございます。その一分も、控えに書きました。
◆
抽斗の中を、一度整理いたしました。
婚約指輪の受領の控えが一枚。あれは、家の書付の箱へ移しました。捨てるものではございませんし、悲しいものでもございません。取り決めどおりに済んだ手続きの記録でございます。
空いたところに、組合の任命書を入れました。
――アルデ堰水番、任期三年。
三年でございます。三年経ちましたら、また誰かが決めるのでございましょう。それでよいのだと思います。一つの家に置いておくと、蔵から出さない年に谷が涸れますので。
◆
十一月の初め、雪の前に、堰へ上がりました。グスタフ爺が小屋の前で網を繕っておりました。もう三十三年目でございます。
「鍵は、お返しいただいたままで」
「はい。預かっておりますだけでございます」
爺は笑って、それきり網に戻りました。
堤の上には、ヨナス様が先に来ておられました。杖を二本持って、風の中に立っておられます。
「上流、一尺九寸です」
「一尺九寸」
「今朝は私が読みました。合っていますか」
わたくしは杭を見ました。
「合っております」
「よかった」
この方は、ほっとしたようなお顔をなさいました。
「では、来年の一番目は、どこになりますか」
「まだ決まりません」
わたくしは申し上げました。
「雪を数えてからでございます。今年は下から開けました。雪が少なければ、来年は上からになります」
「上からと下からで、そんなに違うものですか」
「違います。上からの年は、開度を細く、回数を多く。下からの年は、太く、少なく」
ヨナス様は書き取られて、それからこう仰いました。
「私は、それを覚えたい」
わたくしは、堤の風の中で、少しだけ考えました。
「六年かかります」
「六年ですね」
この方は、その数字も書き取られました。
「では、六年お願いします」
◆
書庫へ戻りまして、八冊目の一枚目を開きました。白い紙でございます。いちばん上の欄に、年を書きます。その下に、雪の欄。まだ空でございます。
わたくしは、一行目を書きました。
――十一月三日。初雪。堤にて計測。深さ、指一本。
筆を置いて、窓を見上げました。高い窓の外は、もう暗うなっております。来年の四十二回は、まだ一つも決まっておりません。
決まっておりませんけれど、数え始めております。
◆
書庫を出ようとしましたとき、書庫番の方に呼び止められました。
「アデリナ嬢。お手紙が届いております」
封をあらためますと、隣の谷からでございました。オーバー谷。山を一つ越えたところに、同じような堰がございます。堰の名も、水門の数も違いますけれど、雪解けで動くのは同じでございます。
文面は、たいそう短うございました。
――こちらの谷でも、水番が代わりました。順序が分からなくなりました。一度、見ていただけませんか。
わたくしは、その手紙を三度読みました。それから、抽斗の任命書のことを思い出しました。アルデ堰の水番、任期三年。ほかの谷のことは、何も書いてございません。
書いてございませんので、断ることもできます。
――けれど。
わたくしは、帳面の余白に一行だけ書き足しました。
――十一月三日、オーバー谷より照会。返事は、雪を数えてから。
最終話でございます。全十五話、お付き合いくださってありがとうございました。
九割八分と申し上げた上の五枚は、九割七分でした。一分は見込み違い。その一分も控えに書き足します。勝った回でも自分の外した幅を一分ぶん残していく、そういう人でございます。「数えられるものは忘れなくてよい」というお母上の一言に、「ただし、読む人がいれば」を書き足せたところが、この物語の答えです。
シュタムの井戸は二年かかると申し上げたのに、九月の末には薄くなりました。ミナが走って知らせに来る場面を書きたくて、十一話ぶん濁らせておりました。
隣の谷からの照会は、開いたままにしてございます。断ることもできたのに、この人は帳面の余白へ一行だけ書き足しました。返事より先に、まず数える。最後まで、そういう人でございました。
――ブックマークと評価は、八冊目を括る麻紐に充てさせていただきます。七代ぶんは、もう括ってございますので。




