第7話「俺の方が、後から来たみたいだ」
『じゃ、今、俺と話してんのは誰なんだよ』
机の端末から聞こえた健の声に、寧は流しへ向けていた体を戻した。
水を出したままだった。紙コップを一つ伏せ、蛇口を閉める。
《健なら、もう向こうにいるよ》
悠斗が見せた画面の文字は、さっきと同じだ。
こちらの健は、まだ電話の向こうにいる。自分の名前で書かれた返事を、一度も見ていない。
「健。いま電話、切りたくなった?」
寧が聞くと、少し間があった。
『……切って、そっちにいるってやつを見たくなった』
「うん。でも、声はここに残して。今は」
『それで、追いつくのかよ』
寧は、すぐにはうなずけなかった。
悠斗が椅子の上で膝を寄せた。さっきまで少し空いていた机との隙間が、またなくなっている。
「待ってる間に、俺たちの話、終わってない?」
誰に聞いたのか、寧にも分からなかった。
机の奥には、作りかけの端末台がある。角度さえ合えば、同じ位置で止まるはずだった針金が、少しずつ横へ倒れていた。
寧は直そうとして、手を引いた。
手袋を外した指には、まだ赤みが残っている。小さい力で済ませたい時ほど、細かいところへ余計な力が入る。
「レン。これ、ちょっと支えて」
蓮が片手を伸ばした。
寧は倒れた端末を取り上げ、台を部品皿の横へ戻した。健の声がする方を、二人にも聞こえる向きに置き直す。
「作り直すのは、あと。今は、こっち」
「んー……台は、休みにするかぁ……」
蓮が薄い本を机の奥から引き出し、端末の下へ敷いた。画面はもう傾かなかった。
「今日は、これで」
「それ、レンが寝る時に使ってるやつ?」
「そっちでも、支えてくれるからなぁ……」
寧が小さく息を漏らした。すぐに健の声の方へ顔を戻す。
悠斗の膝は、まだ机の下へ寄ったままだった。
*
健のところへ届いた返事を、寧は本人に見せてもらった。
友達が向こうの部屋で見た文の画像だった。
《俺も来た。悠斗にも言っといて》
その上には、健の名前と、見慣れた写真がある。
『俺、そんなこと言ってねえのに』
「この画像を送った人とは、前から話してる?」
『うん。いつもの方。さっき翼がいるって教えてくれたやつ』
その友達自身が、健のふりをしているとは限らない。見たものを知らせてきただけかもしれない。
寧は、画像を机の右へ寄せた。
左には、今つながっている健の通話がある。
二つに分けることはできた。けれど、健の友達には、もう右の方が届いている。
「向こうで何か言ってるか、聞けば――」
悠斗が自分の端末を持ち上げた。
親指が止まる。
「……俺の名前も、あるんだよな」
寧はうなずいた。
「悠斗から聞く文も、悠斗に返す文も、今は分けたい」
「じゃあ、何も送れないじゃん」
声を荒らげてから、悠斗は画面を伏せた。
「ごめん。寧に言っても仕方ないのに」
「そこは、言っていいよ」
寧は右へ寄せた画像を、もう一度真ん中へ戻した。
「分けただけじゃ、健のところに戻ってこないんだよね」
手順なら思いつく。表示を比べて、違いを残して、勝手に開かない。
全部、した。
それでも、健の声は、さっきより小さくなっていた。
寧は、紙の右へ「未確認」と書きかけた。
『俺も、そっちに入る?』
ペンが止まった。
「健のことじゃないよ。向こうにある返事の方」
『でも、それ見たやつ、俺にも聞いてきたんだぞ。ちゃんと、違うって言った』
「うん。聞いてる」
『じゃ、何て書くの』
寧は、書きかけの「未」を見た。
自分にとっては、まだ確かめていないものを置く場所だった。健には、自分もそこへ入れられたように聞こえた。
ペン先を紙から離す。
「健が、今、送ってないと言った。それは残す」
『それなら、そう書いてくれよ』
「うん。ごめん。向こうの文と、一緒にしない」
寧は、健の名前を先に書いた。画像の名札を写す手つきとは、変えたかった。
「健。今の文、読み返すね。違ってたら、その場で言って」
『言うよ。……今度は、ちゃんと』
寧は画像の横ではなく、通話が続いている端末の横へ紙を置いた。
健の言葉を、健へ聞き直しながら書く。
《その部屋は開いていない。呼ぶ文も送っていない》
『そう。それ、友達にも見せたい』
「画像の方まで一緒に送る?」
『送らない。俺が言った方だけでいい』
悠斗が、伏せていた画面を起こした。
「俺のも、そうしたい。まだ入ってないのと、翼を探してるの。それだけ」
寧は新しい紙を一枚渡した。二人の言葉を、一枚にまとめるのはやめた。
健が自分の文を打つ音が聞こえた。今度は、寧に続きを尋ねなかった。
紙に書いたところだけは、返事を待たずに友達へ渡せる。
寧は少し息を吐いた。
だが、向こうにいる名前が消えたわけではなかった。健が打ち終える前に、悠斗の端末が光った。
*
新しく届いた文には、赤いコントローラーの絵が付いていた。
《こっち、もう使わないから》
翼の名前の下に、新しい連絡先を知らせるカードが付いていた。
悠斗が息を止めたのが、隣にいた寧には分かった。
《分からなかったら、ここで聞いて》
「聞く場所も、こっちが決める前に来た」
寧が言うと、悠斗は口を開けたまま、カードを見ていた。
「これに聞けば、翼か分かるって?」
「そう思わせたい文には、見える」
蓮が椅子を寄せた。
「その連絡先を教えてきたのも、今、確かめたい方なんだよなぁ……」
悠斗はカードから指を離した。
その時、健が言った。
『同じの、来た』
向こうでは、もう誰かがそこへ聞いていた。
《翼に確認取れたよ。今までの方には返さなくていいって》
送られてきた画像を、寧は見た。
部屋の中の短い会話だった。誰かが翼へ聞き、翼の名前が答えている。最後には、《本人に確認済み》とあった。
寧は椅子の脚を、床へ下ろし直した。
「同じところに聞いて、同じ名前が答えてる」
『でも、聞いたやつも、俺の友達なんだよ』
健の声が重くなる。
『そいつまで嘘つきって言えねえよ』
「その人が嘘をついたって、言いたいんじゃない」
寧は少しだけ声を落とした。
「見た返事が、誰の返事か。そこが、まだ分からない」
『同じこと、何回言えばいい?』
寧は画面から顔を上げた。
健の問いは、説明の続きを欲しがってはいなかった。
*
蓮が、流しの横から紙袋を持ってきた。
残っていたパンを、悠斗の前へ置く。もう一つを寧の方へ滑らせた。
「食べながらでも、聞けるだろ」
悠斗は袋を開けた。すぐには口へ運ばず、二つに割る。
「翼、前なら、電話出たんだけど」
寧の指が、袋の口で止まった。
「前って、どの電話?」
「このアプリじゃないやつ。母さんが、向こうのお母さんと連絡先、交換してる。前に家まで送ってもらって」
「それ、今、使えそう?」
「母さんに聞けば。でも、家にまで言うのは……」
悠斗はパンの割れ目を見た。
「翼が本当に、俺と話したくなくて消したんだったら」
寧は、袋から手を離した。
自分なら、通じる番号が残っているかを先に確かめる。
悠斗は、その電話で、はっきり断られるかもしれないと思っていた。
「全部、話さなくてもいい」
蓮が隣へ腰を下ろした。
「連絡が取れなくて、無事か知りたい。まずは、それで聞けないかぁ……」
「それで、もう話したくないって言われたら」
蓮は椅子へ手をかけたまま、悠斗を見た。
「そん時も、ここにいるよ。今、先の返事まで一人で決めなくていい」
寧も袋の口を折った。パンを押しつけず、悠斗の手が空くところへ置き直す。
悠斗は口を結んだ。
寧は待った。もう一度聞きたくなって、パンを一口かじる。思ったより口の中が乾いていて、なかなか飲み込めなかった。
「……母さんには、俺が話す」
悠斗が言った。
「勝手に、向こうへ話を広げないでって。それも」
「うん」
寧は椅子を少し離した。悠斗が電話を持ち直す場所を空ける。
彼が母親へ掛ける間、健の通話は別の端末へ残した。蓮がそちらを持ち、寧は机の上の画像を伏せた。
聞かなくていい話まで、隣へ集めたくなかった。
*
少しして、悠斗の端末が鳴った。
さっき届いたカードからではなかった。母親が以前に交換した連絡先を通り、翼の家から掛かってきた電話だった。
悠斗は一度、寧へ目を向けた。
「俺、話していい?」
「うん。まず、悠斗が」
通話を取り、悠斗が音声を外へ出した。端末を二人の間へ置く。
「翼?」
『……悠斗?』
声がした。
悠斗の肩が上がり、それからゆっくり下がった。
寧にも、聞き覚えのある声だった。
『ごめん。連絡、変になってて』
「お前、どこにいんの」
『家。母さんから、電話出ろって。何か、ずっと来てたらしい』
「部屋には?」
『部屋?』
翼の返事が遅れた。
悠斗は画面を見た。赤いコントローラーの方では、今も別の返事が続いている。
『俺、今、そっち開けないんだけど』
寧は、袋を机へ置いた。
電話の向こうの事情が、初めて言葉になった。
電話の声は家にいると言い、自分のアカウントを開けないと言っている。
部屋の中の名前は、もう確認が済んだと言っている。
「翼。寧も、隣にいる」
『寧も?』
「聞こえてるよ」
寧が答えると、電話の向こうで、短く息を吐く音がした。
『あー……よかった。俺だけ、何の話か分かんなくて』
寧は身を乗り出した。
「アカウントは、いつから――」
言いかけて、止まる。
悠斗の手が、端末を持ったまま震えていた。
「ごめん。それは、あとで聞く」
寧は息を整えた。
「無事? 今、誰かと一緒?」
『うん。母さんもいる。……俺、何か、やったことになってる?』
誰も、すぐに返せなかった。
悠斗がパンを袋へ戻した。
「来いって。俺とか健に、呼びかけてる」
『健? あいつに、今日は返してないよ』
蓮が、健の声がする端末を少し持ち上げた。
『俺も、まだつないでる』
健が言った。
翼は、ほっとしたように小さく笑った。
『じゃ、こっちにいたんだ』
その一言で、寧の胸の奥が少し緩んだ。
声の細かい違いを探すつもりだった耳に、友達を見つけた時の息だけが、先に届いていた。
*
「会える?」
寧が聞いた。
『顔、映した方がいい?』
「それを送って証明して、じゃないよ」
寧は、端末を伏せた悠斗の手を見た。
「今、会いに行けるなら。会って話したい」
『今から?』
「場所も、一緒に行く人も、翼が決めて。私たちはレンと行く。悠斗は?」
悠斗が、何度も小さくうなずいた。
「行く。……嫌じゃなければ」
『嫌じゃない。俺も、そっちで話したい』
寧は、そこではじめて笑えた。
電話の向こうで、翼が母親と短く相談する。
待ち合わせは、いつも使う駅の、改札を出たところになった。母親も一緒に来る。決まった時刻を悠斗が繰り返し、翼がうなずく声を返した。
寧はその場所を、友達の部屋には送らなかった。
蓮が、窓際の椅子から鞄を引き寄せる。
「んー……じゃあ、出るかぁ……。開けなくていい方は、ここへ置いてく」
無刻印のキーボードを机の奥へ戻し、紙を裏返す。
寧が鞄の紐を持ち上げると、蓮は窓際の椅子へ一度戻った。
「忘れ物?」
「帰ったら、そのまま座れる向きに」
椅子を少し回し、机との間を測るみたいに眺めている。
「今、座ればすぐ決まるんじゃない?」
「座ったら、出たくなくなるだろうなぁ……」
悠斗が小さく吹き出した。蓮も自分の椅子から離れ、今度は鞄を持った。
寧も手袋の箱へ手を伸ばしかけた。
まだ直っていない。
代わりに、自分の鞄から水を取り出して確かめた。補給食は一つ残っている。端末を持つ手を、反対へ替える。
窓の下では、荷台を押す人が立ち止まっていた。肘の補助具の細い筋が縮み、冷却板の上で、広告の光が小さく揺れる。手を離して待つと、その人の腕もゆっくり戻った。
寧は作りかけの台を見た。
今は、倒れたままでいい。
机の紙には、待ち合わせの時刻が一つ増えていた。
悠斗が鞄を肩へ掛け、ようやくパンをもう一口食べた。
*
出る前に、健が友達へ返す文を読み上げた。
『翼と、前から使ってた別の連絡先で話せた。いま、俺たちと会う段取りしてる。あの部屋から呼んでたのは、自分じゃないって』
「場所は、書かないで」
寧が言うと、健が返した。
『書いてねえよ。そこは、大丈夫』
送った後、誰も話さなくなった。
翼はまだ、電話を切っていなかった。向こうで靴を出す音がする。
悠斗が、翼とつながった端末を寧へ預けた。パンの袋を閉じ、鞄を掛け直している。寧は、その間も電話を切らずに待った。
蓮が持つ端末の向こうで、通知が鳴った。
『返ってきた』
「何て?」
悠斗が聞いた。
健が一度、息を止めた。
『そっちの翼って、誰? って』
靴を出す音が止まった。
『何だよ、それ』
翼の声だった。
悠斗が、寧の手元の電話へ顔を寄せた。
「俺は、翼の話を聞いてる。……そう返してくれよ」
『分かった。待ってろ』
健の返事に、翼は何も言わなかった。寧は電話を持ち直し、悠斗にも声が届く方へ向けた。
『俺の方が、後から来たみたいだ』
寧は、自分の手の中の電話を見た。
向こうの部屋には、見慣れた翼の名前がある。
その外に出てきた方が、自分は誰なのかと、友達から聞かれていた。




