第8話「俺だけの秘密じゃないんだ」
改札の向こうで、翼が手を上げた。
悠斗が先に気づき、二歩駆けてから止まる。蓮は、その背中にぶつかりかけた。
電話を持ったままの翼も、同じところで立ち止まっていた。
「……いた」
悠斗の声が、妙に小さかった。
「うん。いる」
悠斗も手を上げた。二人とも上げたままで、どちらも近づかない。
翼の母親が一歩進むと、二人は同時に手を下ろした。
翼が笑おうとした。口の片側だけが少し上がる。
隣にいた母親が、翼の肩からずり落ちた鞄の紐を直した。彼は「自分でやるって」と言ってから、直してもらった紐を握った。
その声に、悠斗の肩から力が抜けた。
蓮の端末から、健が呼んだ。
『会えた?』
「あー……会えた。今、改札の前」
『翼、いるか』
「いるって。お前も何回言わせんだよ」
翼が電話へ顔を寄せる。少しだけ、いつもの調子に戻った。
『分かった。……よかった』
健の方も、そこでようやく声が下がった。
翼の名前は、蓮の友人一覧にはまだなかった。改札の広告は人の顔を見て色を変え、天井の案内板には空席の数が流れている。その下で、翼は鞄の紐を握っていた。
蓮は端末を伏せた。
「んー……どっか、座るかぁ……」
*
駅の横の店で、五人分の椅子を寄せた。
翼の母親は通路側へ座った。注文を取りに来た店員の手首には、細い補助具が巻かれている。盆を傾けるたび、透けた管の内側で筋が縮んだ。
寧はそれを目で追い、店員が離れてから自分の鞄を開けた。
「そうだ。これなら、邪魔にならないんだよっ」
短いケーブルを留める、自作のクリップだった。蓮が持っている端末へ線をつなぎ、机の縁へ挟む。赤い指には力をかけず、もう片方の手で留め金を押した。
「片手で外せるの。試してみて」
蓮は端末を持ち上げた。
クリップごと、紙のメニューが付いてきた。
悠斗がそれを押さえた。
「これ、注文する時どうすんの」
「外してから注文するんだよっ」
「片手で済むの、寧だけかぁ……」
蓮がメニューを戻すと、翼が鼻で笑った。
「あ、それ。俺も前に留められた」
「今度のは、外れるもん」
「前のも、外れたよ。俺の鞄から。中身と一緒に」
寧がクリップを受け取り、裏を確かめる。
「……今日は、普通につなぐ」
蓮は線を鞄の脇へ通した。寧は小さい袋にクリップを戻し、袋の表へ短く何かを書いた。捨てるつもりは、なさそうだった。
水のコップが届く頃には、翼も鞄を膝から下ろしていた。
*
「全部、見せたらさ」
翼がコップを回した。
「俺が呼んだんじゃないって、分かる?」
蓮は、まだ注文票の置かれた机を見た。
「全部って、何を」
「残ってるやつ。前の会話とか、画像とか。開けなくなる前に撮ったのもある。母さんとの連絡も。ゲームの方も」
翼の指が、画面を次々に送った。止まったアプリの外にも、写真や通知の控えは残っている。
自分がいつ、誰へ、何を言ったか。
それを、一つも隠していない形にしたいらしかった。
「みんなに、見せてほしいんだ。こっちが俺だって。あそこで呼んでたのは、俺じゃないって」
健の通話は、蓮の手元で続いていた。寧が目で尋ねると、翼は「健にも聞いててほしい」と言った。
『俺からも言うよ』
健がすぐに返した。
「でも、さっきも言ってくれたろ」
翼は、画面を送るのをやめなかった。
「返ってきたじゃん。そっちの翼って誰、って」
母親が、膝の上で手を組み直した。
蓮は、翼が差し出す端末へ手を伸ばしかけた。
受け取れば、残っているものを順に見られる。本人に一つずつ探してもらうより、早いかもしれない。
だが、翼の親指が動かなくなった。
画面には、別の友達との短いやり取りがあった。
《この話、ほかのやつには言わないで》
続きが見える前に、翼は端末を自分へ引き戻した。
「……ごめん。これ、関係ない」
「うん」
蓮は伸ばした手を、コップの横へ戻した。
翼が別の画像を探す。その途中にも、誰かの顔や、家の中の写真が出てきた。彼は何度も指を戻し、ついには画面を伏せた。
「隠したら、また怪しいって言われるかな」
悠斗が、何か言いかけた。
翼は、先に首を振った。
「俺のは、いいんだ。俺が何言ってたかなら、見られても。でも、これ」
机の上の端末を指す。
「俺だけの秘密じゃないんだ」
蓮は、半分残っている水を見た。
端末の中身を早く調べることばかり考えていた。何が関係するかは、預かってから分ければいい。
その方が早い。
誰かが、この先も翼へ話せるかどうかまで、一緒に受け取るつもりはなかった。
「……全部は、いらない」
蓮が言うと、翼が顔を上げた。
「でも、足りなかったら」
「あー……そん時は、別のとこを探す。必要なのがあれば、何に使うか話して、もう一回聞くよ」
「それで、信じてもらえる?」
そこだけは、すぐにうなずけなかった。
蓮が見せてくれと言える範囲と、向こうの友達が納得する範囲は、同じとは限らない。
コップの水面から目を上げる。
「みんなが、どう思うかまでは決められない」
翼の肩が下がった。
蓮は、その先を急いだ。
「でも、俺は今、お前の話を聞いてる。見せたくないとこまで、出さなくていい」
悠斗が、机へ置いていた両手を膝に戻した。
「俺も、全部見たいわけじゃないんだ。……返事がなくて、俺が何かしたのかと思って」
「してない」
翼は、今度はすぐに答えた。
「お前に何か言われて、消したんじゃない」
悠斗が一度、強くうなずいた。それから、少し息を吐いた。
「じゃ、そこは、もう聞かない。ほかのやつの話まで見せなくていいから」
悠斗は、自分の端末を持ち直した。
「でも、昨日、何回も早く来いって送ったのは俺だ。そこは、ごめん」
翼は、すぐには笑わなかった。
「今日は無理って返したら、次は、一回待って。それで頼むわ」
「うん。待つ」
翼の指が、伏せた端末の角から離れた。
*
注文した飲み物が届いた。
翼の母親は、店員へ礼を言ってから、蓮の方へ体を向けた。
「この子の記録、どこまで必要でしょう」
「まず、翼が見せていいものからで」
蓮は手元の紙に、大きく二つ、間を空けた。
「向こうで見た、翼の名前の返事。それと、翼が今、違うって言ってること。混ぜないで残します」
寧が隣で椅子を寄せた。
「画像にほかの人の話が入ってたら、まず翼が見て。私たちは、それを選ぶところから見なくていいよ」
「切ったら、調べられなくならない?」
「前後が要るかもしれない。でも、最初から全部もらうのとは違うんだよ。元のものをどう残すかも、一緒に考えたい」
寧は、自分の端末を裏返した。
「今、勝手には撮らない。これも、見えない向きにする」
翼は、彼女の手を見ていた。
「ああ。……それで頼むわ」
母親が椅子を少し引いた。翼は自分の鞄を持ち上げ、ほかの人に画面が向かないよう、膝の上に置く。
蓮はその間、店の窓へ目をやった。
駅から出てくる人の影が、ガラスの広告と重なる。疲れた肘を支える装具が、赤い店の灯りを拾っていた。
蓮は、画像をまとめて受け取る窓を閉じた。ペンの蓋も戻す。
翼の肘が机へ出せるよう、自分のカップを寄せた。
待つ用意だけは、先にできた。
「レン。ぼーっとしてる?」
寧が小声で聞いた。
「んー……してる」
「飲み物、冷めるよ」
蓮はカップを持った。少し飲んで、置く。
窓の向こうへ戻りかけた目の前に、寧が砂糖の袋を一本立てた。
「ここ、飲み物の席。あっちは、ぼーっとする席」
「席まで分かれたかぁ……」
「レンが二人分使うんだもん」
蓮は袋を横に寝かせ、カップの横へきちんと置いた。
翼の画面が止まるまで、誰も続きを催促しなかった。
*
最初に預かるものは、三つになった。
翼が開けなくなる前に残した、画面の画像が一つ。悠斗と健へ届いた、部屋への誘いが二つ。
翼の端末そのものは、彼の手元に残した。
蓮は机の端へ置いた端末に、三つの画像を並べた。傍らの紙には、翼が見せたものと、友達へ届いたものを分けて書く。寧は、それぞれ誰が、どこで受け取ったかを本人に聞いていた。
一番早く届いたものが、正しいわけでもない。翼の声らしい文なら、本人の返事になるわけでもない。
蓮は、三つの画面を見たまま言った。
「これをそのまま、みんなに流すのかぁ……?」
翼が首を振った。
「違うやつの名前、まだ入ってる」
「じゃ、外へ出す文は、別に作ろう」
翼が、自分の端末へ指を戻した。
《あの部屋には入っていません。みんなを呼ぶ文も、自分は送っていません》
そこまで打ってから、止まる。
「これ、俺の言葉として、出していい?」
「その言い方で、送りたい?」
寧が聞き返すと、翼は打った文を読んだ。
「……俺、こんなしゃべり方しないな」
自分で少し笑い、文を直した。
《その部屋、俺は入ってない。みんなを呼んだのも俺じゃない》
「これで、返してほしい」
「うん。誰に送る?」
寧が聞く。
「まず、健と話してるやつ。俺が別人だって言ってた。そいつに」
『俺が渡す。そのまま』
健が答えた。
翼が少し考え、最後に一文を足した。
《話せるなら、直接、俺の話も聞いてほしい》
蓮は、言い換えなかった。
誰かへ信じろと命令する文ではない。翼が、もう一度話したい相手を選んだ文だった。
健が読み返し、翼が「それで頼む」と答える。
送った後の画面を、五人で囲むことはしなかった。母親は自分のコップを寄せ、翼の前に空いた場所を残した。
*
返事を待つ間、悠斗が鞄からパンの袋を出した。
端が少し潰れていた。事務所で食べ残した方だった。
「これ、あとで食べよ」
「あとって、いつ」
翼が袋を見る。
「……お前と、普通に話せる時」
翼はコップを持ち直した。
「今、普通の話してもいける?」
悠斗の返事が、一拍遅れた。
「いい。してくれよ。何でも」
「お前、さっき改札の前で止まったろ。俺も止まっちゃったんだけど」
「うん」
「どっちも行かなかったら、一生あそこで会えねえじゃん」
悠斗が笑った。笑ったまま、袋の口をもう一度折った。
「分かってんだけど。いたからさ」
翼は何か返そうとして、やめた。
代わりに、鞄から小さい紙ナプキンを出し、悠斗の袋の下へ敷いた。
「じゃ、次は俺が行くわ」
端末から健が割り込んだ。
『次って、また待ち合わせすんのかよ』
「ゲーム。お前も来るだろ」
『行くよ。今度は、俺が返事してから数えろよな』
翼は口を開けて笑い、すぐに閉じた。
母親が、その顔を見ていた。持ち上げかけたコップを、音を立てずに戻す。
蓮は、自分の紙を少し端へ寄せた。
ここまでの記録は、そのままにする。
今の笑い声まで、証明するために残す気にはならなかった。
*
『来た』
健が言った。
蓮は端末を真ん中へ戻した。翼の指が、コップの縁で止まる。
『話は聞く、って。今までの方に返す前に、こっちにも聞くって』
悠斗が、翼の方を向いた。
「お前に、だって」
翼はすぐにうなずかず、一度、画面を確かめた。
「ああ。……話す。それで頼むわ」
返事がひとつ、向こうの名前を通らずに戻ってきた。
友人一覧はまだ変わらない。使えないアカウントも、机の上の三つの画像も、片づいてはいなかった。
それでも、翼は自分で次の時刻を選び、健に伝えた。
蓮が紙を畳もうとすると、翼が止めた。
「あと、一つ。これも見てもらっていい?」
「んー……どれぇ……?」
「さっきは、ほかの話も見えてたから。今、そこだけにした」
開けなくなる前に撮った、別の画像だった。
《みんなに謝ってから、戻ってきて》
その下にも、短い文が続いていた。
《返事しないなら、もう呼ばない》
翼は、机に置く前に一度、悠斗を見た。
「これで、俺、何かしたのかと思って。何を謝ればいいか、分かんなくて」
悠斗は、画像を覗き込んだまま動かなかった。
蓮は紙を開き直した。
謝罪を求める文の横にあるのは、悠斗の名前と、見慣れたアイコンだった。
「その文、俺は送ってない」
悠斗の声が、机のすぐ隣からした。
彼は自分の端末を開いた。翼へ返事を求めた会話がある。強く聞きすぎた文も、消さずに見せた。
そこに、《謝ってから戻ってきて》はなかった。
「返事してくれよ、とは言った。何回も。……でも」
翼が顔を上げる。
悠斗は、彼の方へ椅子を向け直した。
「俺、謝れなんて言ってない」




