第5話「俺、まだ入ってない」
悠斗が、口の端についた補給食の粉を手の甲でぬぐった。
画面には、赤いコントローラーの絵がある。
《ごめん。今、ちょっといい?》
翼の名前で届いた、その一行を、寧も机の横から見ていた。
「よかった」
悠斗の親指が動く。
さっきまで膝の上で丸まっていた背中が、少し伸びていた。寧の前には、彼が飲み残した水がある。
「待って」
声が先に出た。
親指が止まる。
悠斗は画面を引き寄せた。寧から隠すほどではない。でも、さっきより見えにくくなった。
「何で」
「その名前、一覧にはまだない」
「でも、来たじゃん」
寧は自分の端末を見た。翼のいた場所は空いたままだった。
分からないことが、一つ減ったわけではない。
ただ、悠斗の顔は明るくなった。
「返事くらい、させてくれよ」
低い声だった。
寧は、彼の画面へ伸ばしかけた手を引いた。
返信を止めてほしかったのか。何か押す前に、一緒に見たかったのか。
自分でも、言い分けていなかった。
「うん。何て返したい?」
悠斗はすぐには打たなかった。寧の顔を見てから、画面へ目を戻す。
《うん。どうした?》
彼が自分で送った。
窓際の机では、蓮が課題の最後の欄を埋めていた。椅子だけをこちらへ半分向けている。
「俺が来たってことは、まだ言わないでな」
悠斗が念を押す。
「まだ、言ってないよ」
蓮の返事の後に、短い送信音がした。課題の窓が閉じる。
悠斗の端末は、まだ静かだった。
寧は自分の端末を伏せた。画面を二つ並べて、ほら同じ状態でしょう、と言いたくなった手を止める。
「ごめんね。止めたいこと、ちゃんと言ってなかった」
悠斗は顔を上げなかった。
「今の返事が駄目だったってこと?」
「違う。私も、翼と話したい。でも、来たのが翼の言葉なのか、まだ分からない。何か頼まれたら、先に一緒に考えたかった」
「じゃあ、ここで待つのは?」
「一緒に待ちたい」
「来たら、また止める?」
「何が気になったかは、先に言う。レンにも、分からないとこは聞く」
寧は机へ両手を置いた。悠斗の端末には、伸ばさなかった。
「一人で決めない。……悠斗にも、勝手に決めさせたくないんだよ」
言ってから、首を振る。
「違う。勝手に決める、じゃなくて。一人で困らせたくない」
悠斗の肩が少し下がった。端末は、彼の手に残っていた。
寧はさっき、自分の見つけた異常から話してしまった。悠斗が見ていたのは、返事をくれた友達だった。
隣の蓮は口を挟まず、提出済みの表示を閉じた。
*
寧は、机の端にあった袋を少し奥へ寄せた。
中で、修理待ちの手袋の留め具が鳴る。赤みの残る指が袋の縁に当たり、彼女は持ち方を変えた。
その間に、悠斗の画面が光った。
《こっちの部屋に来て》
下に、小さな招待のカードが付いていた。
翼の部屋。
赤いコントローラー。
見覚えのある組み合わせだった。寧も、あの絵を何度か押して通話へ入ったことがある。
「ほら」
悠斗の声が弾む。
「話せるって」
椅子を引き寄せた拍子に、スポーツバッグが机の脚へ倒れた。水筒が中で鈍い音を立てる。
寧はカードの下を見た。
細い灰色の文字が、途中で切れていた。
「悠斗。その招待、昨日も使った?」
「部屋?」
「このカード」
彼は画面と寧を見比べた。
「似てるやつなら、前から来るけど」
「前に入った時の、残ってる?」
悠斗の指が、カードの上を通り過ぎた。
「何日前くらい」
「分かるところでいい」
寧は自分の椅子を寄せ、悠斗の隣ではなく、机の角を挟んだ席へ座った。端末は彼の手の中にある。
悠斗が履歴を戻す。
しばらくして、同じ赤い絵の付いたカードが現れた。
「先週。これで、みんなとやった」
「それと、今日のだけ見せて」
「その前、変なスタンプしかないぞ」
「そこはいい」
「見たら蓮がうるさいやつ」
窓際から、声が飛んできた。
「んー……俺が落ちた動画、まだ使ってんのかぁ……」
悠斗が、一瞬だけ笑った。
「使いやすいから」
笑いながら、先週の招待を開き直す。
寧も笑いかけたが、二つのカードを並べたところで、口を閉じた。
灰色の文字が違った。
寧は先週のカードの下を指した。
「この日は、翼もいた?」
「いたよ。途中で俺が抜けて、その後は、寧もやってたろ」
覚えていた。
寧が補給食の袋を開けると、通話の向こうで翼が、また食ってる、と笑った夜だった。食べていたものまで当てようとするので、寧はわざと音のしないものへ替えた。
「米粉パンの日」
「そう、それ。蓮が落ちたの、その前」
あの部屋へ入った時は、ちゃんと顔見知りの声が返ってきた。
今日も、そうならいい。
寧は二つのカードの、切れていた文字を最後まで表示させた。いつもの絵を見ていた時より、悠斗の指がゆっくりになった。
*
蓮が机から紙を一枚引っ張ってきた。
折れ目のある校正紙だった。端に細かい赤字が並んでいる。
寧が水のコップをずらそうとすると、蓮は紙を持ち上げた。
「コップ、そっち置くな」
「お母さんの赤字、増えてる」
「俺のじゃない」
蓮は赤字のある部分を内側へ折った。母親の原稿を隠し、余白だけを上へ出す。
「捨てるなって、言われてるんだよなぁ……」
「じゃあ、何で机に置いてるの」
「捨ててないだろ」
蓮は折った紙の端を押さえた。
「片づけてない、とは言われるんだけどなぁ……」
「お母さんには、その返事、した?」
「そこまで元気じゃなかった」
「それ、今度お母さん来たら、俺が言っとく?」
悠斗が言うと、蓮の手が紙の上で止まった。
「んー……そこは、黙っててくれると助かるなぁ……」
「俺が来たこと、黙っててって頼んだの、こういう顔だった?」
「そこまでじゃない」
蓮が答え、寧は笑いをこらえてコップを流しの横へ持っていった。蓮は余白の向きを、几帳面に机の辺へ合わせていた。
戻ると、蓮は紙の端の「訂正日」の横へ、別の時刻を書いていた。
上には、先週の招待。
下には、今、悠斗の端末へ届いた招待。
二つを区切る線を引く。
寧は作りかけの台から端末を外した。まだ傾く。曲げ直したい針金の先を部品皿へ伏せ、白いキーボードを自分の方へ寄せた。
悠斗が見せてよいと言った二件だけを、手元の画面へ写す。
古い招待は、皆で使っていた通話サービスへ向いている。
今日のカードに書かれた移動先は、別のサイトだった。
「同じ部屋に見えるけど」
寧が二つを指で示す。
「リンクに書いてある行き先が、違うんだよ。ほら、ここ」
悠斗が顔を近づけた。
「どこが?」
寧は文字を大きくした。
カードの表には、どちらも「翼の部屋」とある。その下へ行き先の文字を出すと、前半から違っていた。
悠斗の口が、少し開いた。
「名前、変えたとか?」
「部屋に付けた名前と、行き先は別なんだよ。看板だけなら、同じにできる」
「じゃ、偽物?」
寧は一拍、待った。
そう言えば、彼を止める理由にはなる。
けれど、寧が見たのは二つの文字列だった。送った人の顔ではない。
「今日のは、いつもの部屋への招待じゃない」
そこまでを、指で示した。
「翼が別の場所へ誘ったのか、誰かが翼の名前を使ったのかは、これだけじゃ分からない」
悠斗は大きくした文字を見たまま、指先で自分の膝を押した。
蓮がペンを置く。
紙の上では、同じ赤い絵から、別々の行き先へ線が伸びていた。
悠斗が、今日のカードへ手を伸ばす。
「入れば、分かるんじゃないの」
寧は顔を上げた。
「一回、俺が見てくる。翼だったら、変なこと疑って悪かったって言えばいいし」
「そうじゃなかったら?」
「すぐ出る」
寧の口に、試せば、と出かかった。
分からないものは、測る。自分なら、普段そう言う。
でも、今、行こうとしているのは悠斗だった。何が起こるかも知らないところへ、寧が試験用の機械をつなぐのとは違う。
机の端で、手袋の袋が横たわっていた。
昨日は自分の手で腕を受け、熱と出力を測りながら、蓮が切るのを待った。それでも指はまだ痛む。
悠斗は、ここを押した後に何を求められるのかも、知らない。
「私、まだ大丈夫って言えない」
「じゃあ、蓮なら?」
悠斗が窓際を見る。
蓮は、紙の上の二本の線を見ていた。
「俺も、その部屋を見てない」
「調べられるんだろ。そういう仕事じゃん」
「調べるために、お前を先に入れる仕事じゃない」
悠斗は口を閉じた。
蓮は、二本の線の間へペンを置いた。
「お前がここまで来たんだろ。帰ってきた方も、ここで会いたいんだよ」
「……翼が?」
「お前も」
悠斗の指が、招待から離れた。
寧は赤みの残る指を、机の下へ隠しかけた。やめて、端末の横へ置く。引き留めるために、手をつかむ必要はなかった。
「入る以外にも、聞けることがあると思う」
彼女は今日の招待から、その上の短い返事へ目を戻した。
*
「部屋変えただけなら、俺、何してんだろ」
悠斗がつぶやいた。
寧は画面から顔を上げた。
「ここ来て、見せて、勝手に変なこと疑って」
彼は言いながら、翼の名前を見た。
「向こう、待ってるかもしれないのに」
寧には、さっきの自分の「待って」が、少し違う音で聞こえた。
悠斗は、見知らぬ相手と話したくて急いだのではない。
返ってきた友達を、もう一度待たせるのが怖かった。
寧は自分の方の補給食を一口かじった。甘さが口の中に残る。悠斗の分は、半分以上が机の上にあった。
「悠斗」
彼が、こちらを見る。
「私も、話したいよ」
赤いコントローラーは寧にも見慣れた絵だった。昼の休憩に、翼が作った短い動画を見たこともある。
「翼が新しい部屋を作ったなら、どうして一覧からいなくなったか、聞きたい」
「うん」
「悠斗がさっき、元気かどうか聞きたいって言ったのも」
悠斗は、自分が言ったことを思い出したように瞬きをした。
新しい部屋へ行けるかどうかの話に、いつの間にかなっていた。翼がどこへ消えたのかを、まだ誰も聞けていない。
「だから、その部屋に入る前に、今のところで聞いてみない?」
悠斗は画面を持ち直した。
入力欄へ、短い文を打つ。
《今、ここで話せる?》
送る前に、寧へ向けた。
「これでいい?」
「悠斗が聞きたいこと?」
彼は一度、文を読み直した。
それから、うなずいて送った。
*
階下の店から、揚げ物の匂いが上がってきた。
寧の腹が小さく鳴る。
蓮は、聞こえた方へ目だけを動かした。
「半分じゃ、足りないかぁ……」
「足りないのと、おいしい匂いがするのは、別」
「結局、食うのは同じだろ」
「その違い、大事なんだもん」
寧が言うと、悠斗は机に置いていた補給食をつまんだ。
今度は、少し大きくかじった。
蓮が紙を指で押さえる。送信した文の時刻を一つ足した。
寧は、古い招待と今日の通知を見直した。
いつ、誰の端末へ届いたものか。先週の部屋は、悠斗自身が入ったと覚えている。今日のは、目の前で届いた。
それぞれの下に、その二つを残した。
彼女が開いたのは、悠斗から受け取った表示だけだった。今日のリンク先へは、まだ移っていない。
画面の上へ、新しい返事が重なった。
《部屋、もう作ったよ》
寧は椅子へ背を付けずに、その文を読んだ。
質問には、まだ答えていない。
「部屋の話しか、してないな」
悠斗が言った。
寧はすぐに、だから偽物だ、とは続けなかった。
翼だって、いつも質問に順番通り答えるわけではない。途中で別のゲームの話を始めることもあった。
それでも、悠斗がここで話したいと書いた返事を、見なかったことにはできない。
「俺、また急かしてるかな」
「今、急いでるのは、どっち?」
寧が聞くと、彼は招待を見た。
昨日、翼へ早く来いと送った二行を、寧も見た。
今は悠斗が、行かなければ悪いような顔をしている。彼は招待のカードを見つめ、それから首を小さく振った。
隣で悠斗が息を吸う。
蓮が口を開きかけたが、彼の指が動く方を見て、黙った。
《少し待って》
今度は、悠斗が自分で打った。
「……待ってもらう」
寧に言ったのか、画面の向こうへ言ったのか、分からなかった。
それでも、招待のカードを押す指は止まった。
悠斗は端末を伏せた。
「返事が来たら、教えて」
「悠斗の端末だから、悠斗に来るよ」
「あ、そうか」
小さく笑って、また表へ戻す。今度は机へ置いたまま、両手を膝へ下ろした。
寧も自分の画面から手を離した。知らない場所へ入らなくても、話したいとは返せた。待ってほしいとも、自分で言えた。
悠斗が補給食をもう一口食べた。口元の粉を指で取ってから、空のコップに気づく。
寧は、そのコップを持ってこようと立ち上がった。
待つ間に水を飲むくらいなら、できる。
*
コップを持って戻る途中で、呼び出し音が鳴った。
悠斗の端末だった。
画面の上には、健の名前が出ている。
彼が通話を取ると、耳へ当てる前に声が漏れた。
『今、翼と話してんの?』
悠斗は寧を見た。
「文字では。何で?」
『俺にも来た。部屋作ったから来いって』
寧は水を机へ置いた。
コップの底が当たった音で、悠斗が端末を少し離す。
「今?」
『今。退会したんじゃなかったのかよ。お前、先に入った?』
「入ってない」
蓮が椅子を寄せた。
悠斗は端末を見ながら、健の声が皆に聞こえるよう切り替えた。
『招待、送る。ちょっと待って』
「全部じゃなくて、その招待のとこだけでいい」
寧が言うと、少し間が空いた。
『寧もいんの?』
「うん。今、悠斗と見てる」
『じゃ、これ』
一枚の画像が届く。
赤いコントローラー。
翼の部屋。
さっきの招待と、同じ見た目だった。
蓮が書きかけの紙へ、もう一本、線を引いた。健が受け取った時刻を、その横へ記す。
寧は画像の文字を大きくした。
招待のすぐ上に、悠斗の画面にはなかった一行がある。
《悠斗も待ってるから》
電話の向こうで、健が言った。
『お前がいるなら、いいかなって』
悠斗の口が動いた。
声は、すぐには出なかった。
「俺、まだ入ってない」
寧は彼の横顔を見た。
さっきまで、返事を待つ側だった。
今は、その名前が、誰かを呼ぶために使われていた。




