第4話「嫌われたなら、そう言ってくれよ」
蓮は検索欄の名前を消し、もう一度、同じ名前を打った。
鈴木翼。
出てこない。
隣では、寧が弁当の蓋を閉じていた。箸はまだ手に持っている。
「こっちもない」
彼女が端末をこちらへ向ける。赤いコントローラーの絵が、並びから一つ抜けていた。
翼はゲームの動画を作る。勝った場面より、味方が変な転び方をした場面の方を長く残すので、蓮はたまに文句を言っていた。
つい先日も、見覚えのある自分の背中が、建物の縁から落ちていった。
あの時、何と返しただろう。
蓮は覚えていなかった。
通知の欄にも、退会したという知らせはない。
「サービスが落ちた?」
「他の名前はある。翼だけ」
寧は画面を上下させた。壊れた手袋は机の端の袋に入ったままだ。赤みの残る指で、いつもよりゆっくり操作している。
「私たち、外されたのかな」
言われて初めて、蓮はその可能性を考えた。
画面からいなくなる理由は、機械の故障だけではない。
「二人まとめて?」
「それは、翼に聞かないと」
窓の外で、配送車の小さな警告音が鳴った。店先の荷物を避け、狭い道を曲がっていく。
蓮は翼の名前の上へ指を戻した。
何もない場所を押しても、当然、何も起きなかった。
*
仲間の部屋へ、短い文を送った。
《翼、退会した?》
最初に返ってきたのは、健だった。
《したんじゃね。最近あんま来なかったし》
続いて、別の一人。
《受験とか?》
誰も、本人から聞いたとは書いていない。
《じゃ、次の対戦どうする》
誰かが書くと、健が空いている時間を返した。予定の話は、そのまま続いた。
蓮も、空いた一人分に別の名前を入れればいいと思った。
翼がまた来たら、その時に呼べばいい。
入力しかけた文の向こうで、赤いコントローラーの絵だけが出てこなかった。いつもなら、翼が先に「何時?」と聞いていた。
蓮は文を消し、椅子の背へ体を預けた。
「まあ……やめることも、あるかぁ……」
寧は返事をせず、箸を流しへ持っていった。
洗い終わった弁当箱が、三つ並んでいる。さっきより、ずいぶん乾いていた。
「寧」
「うん」
「何か、言ってた?」
「翼が?」
「やめるとか」
蛇口が止まった。
「聞いてない。でも、私に言わなかっただけかも」
寧が濡れた手を拭く。指の赤いところを、布で強くこすらないようにしていた。
蓮は目を端末へ戻した。
そういう返事は、苦手だった。
違うとも、同じだとも、まだ言えない。
父のことを調べる窓なら、どの記録が足りないのかを書いておける。友達が自分に何を言わなかったかは、空いた欄を作っても埋まらない。
課題の締切を知らせる表示が、画面の上で点いた。
蓮はそれを横へ送った。
その直後、階段で靴底の擦れる音がした。
いつもの配達より軽い。最後の二段だけ、急いでいる。
扉が二度、短く鳴った。
「蓮、いる?」
悠斗の声だった。
*
扉を開けると、悠斗が制服の上着を腕へ引っかけて立っていた。
肩には大きなスポーツバッグ。片方の紐がねじれ、首の横へ食い込んでいる。
「んー……どうした、その顔」
蓮が言うと、悠斗は口を閉じた。
「別に」
「ああ。とりあえず、座るかぁ……」
事務所の奥を見て、悠斗が少しだけ眉を上げた。
「ほんとに事務所なんだな」
「今、何だと思って来た」
「寧の飯食うとこ」
「だいたい合ってる」
「ちょっと。今、二人とも、何を調査するところか忘れてない?」
寧が弁当箱を持ち上げた。悠斗の目が、そちらへ動く。
「飯?」
蓮も箱を見た。寧は一度それを下ろし、代わりに端末を持ち上げた。
「……こっち!」
寧が、空いた椅子を足で引いた。作りかけの端末台と部品皿を、机の奥へ寄せる。昨日から何度も角度を直していた針金が、一か所だけ白く擦れていた。
「お昼、終わっちゃったんだよ。……でも、座って」
「食いに来たんじゃないって」
悠斗は笑おうとした。口の端だけ上がり、すぐに戻った。
蓮は扉を閉めた。
悠斗のバッグから、水筒の金属の縁が見えていた。蓋は少し浮いている。
「それ、閉まってない」
「あ、やば」
悠斗はバッグを下ろし、蓋を回した。そこだけは、いつもの手つきだった。
寧が紙コップへ水を注いで置く。
椅子へ腰を下ろしても、悠斗は上着を膝から動かさなかった。
「翼のことなんだけど」
蓮と寧が顔を見合わせた。
それを見て、悠斗の肩がわずかに落ちた。
「やっぱり、そっちも?」
「一覧から消えた。お前も?」
悠斗はうなずき、自分の端末を机へ置いた。
画面には、見つからないという表示が出ていた。
「昼、見た時はいたんだよ。今、何回やってもこれ」
「健には聞いた?」
「退会したんだろ、って」
先ほどと同じ答えだった。
悠斗は水を飲まず、紙コップの縁を親指で押した。
「みんな、そう言う」
蓮は自分の端末を引き寄せた。
「本人がやめたなら、俺が勝手に戻すわけにはいかないなぁ……」
悠斗の指が止まった。
紙コップの縁だけが、少しへこんだまま残った。
「……そっか」
彼は上着をつかみ、膝から持ち上げた。スポーツバッグの紐も肩へ掛ける。
寧が椅子を引くより先に、蓮は口を開いていた。
「帰んの?」
「勝手には戻せないんだろ」
正しかった。
蓮が言った通りのことを、悠斗が繰り返しただけだった。
戸口でバッグが棚へ当たり、寧の部品箱が鳴った。悠斗は慌てて押さえ、すみません、と頭を下げる。蓮たちにそんな言い方をするのは、ずいぶん久しぶりだった。
蓮は空いた画面を見た。
「何を話したかったか、まだ聞けてない」
悠斗の手が、戸の取っ手から離れた。
「翼のことだよ」
「うん。そこから先」
返事を待つ間、蓮は端末を机の端へ退けた。
悠斗は立ったまま迷い、バッグを床へ置き直した。椅子へ座り直してから、端末を持った。
*
「……昨日さ」
悠斗が言った。
「翼、部屋に来たんだよ」
「ゲームの?」
「うん。でも途中で落ちた。音も何か変で」
寧が、自分の椅子を半歩だけ寄せた。
「そのあと、話した?」
「文字では。今日は無理、って」
悠斗は膝の上着を畳み直した。袖を内側へ入れてから、また外へ出す。
「俺、みんな待ってるから早く来いって送った」
蓮は、返事を待った。
「別に、怒ってたんじゃなくて。あと一人いれば、って思って」
「うん」
「翼、そういうの、すぐ来てくれたから」
机の下で、悠斗の靴が一度、椅子の脚へ当たった。
「で、今日これだろ」
蓮は、画面に出た文を見た。
見つかりません。
それ以上は、何も書かれていない。
「ブロックされたのかもしれない。みんなまとめて」
悠斗の声が、少し速くなった。
「俺、何かしたのかなって。昨日の、嫌だったのかなって。でも、俺だけじゃないし。だったら、違うかもしれないし」
「悠斗」
寧が呼ぶと、彼はようやく顔を上げた。
「昨日のやり取り、ここで見せたいところだけ、見せられる?」
悠斗は画面を触り、途中で手を止めた。
「ほかの話も入ってる」
「じゃあ、端末は悠斗が持ってて。そこだけでいい」
寧は、差し出しかけていた自分の手を机へ戻した。
悠斗が端末を持ち上げる。
翼の《ごめん、今日は無理》に、悠斗が二つ続けて返していた。
《あと一人なんだって》
《すぐ終わるから》
その先に、翼の返事はなかった。
「それで、退会したって決まるわけじゃない」
蓮は言った。
悠斗がこちらを見る。
「今ここで見えてるのは、このやり取りと、一覧からいないってこと。それだけ」
「……じゃあ」
「何があったかは、まだ知らない」
何とも、頼りにならない返事だった。
蓮自身、言いながらそう思った。
けれど、嫌われたのではないと請け合ってから、本人の言葉でひっくり返される方が、きっと嫌だった。
悠斗は、端末を自分の方へ向け直した。
少し戻った履歴に、短い動画があった。
「これ、見てもいい?」
蓮が聞くと、悠斗はその一つを開いた。
画面の中で、蓮のキャラクターが建物の縁から落ちる。少し遅れて、もう一人も落ちてきた。
翼だった。
助けようとして落ちたのか、ただ足を滑らせたのか、今見ても分からない。通話の向こうで、悠斗が大笑いしている。蓮の「お前も来んなよ」が、その笑いへ重なった。
悠斗は途中で動画を止めた。
「昨日も、こんくらいで済むと思ってた」
机にはもう、笑い声はなかった。
蓮は自分が、昨夜の誘いには返事をせず、父の報告書を読んでいたことを思い出した。返すつもりで、そのまま忘れていた。
自分への返事がなくても、悠斗はここへ来る。
翼には、どう聞けばいいか分からなくなっている。
「普通に、やめただけならいいんだよ」
寧の視線が、少し下がった。
悠斗はそれに気づき、片手で目元をこすった。
「……よくないか」
誰も、笑わなかった。
*
一階で、シャッターが上がる音がした。
巻き取りの途中だけ、いつも音が細くなる。店の人が横の柱を叩くと、人工筋の束が一度膨らみ、残りを持ち上げた。
悠斗は、音の方を見ていた。
「前の時みたいに、何かされてるんじゃないかって思った」
蓮はうなずいた。
中学の頃、悠斗の知らないところで、悠斗の言葉が人へ届いたことがある。
本人が何もしていなくても、友達が先に怒る。
あれを知っているから、ここへ来たのだろう。
「でも、今は同じことが起きたか、分からない」
「分かってる。俺が、勝手に怖くなっただけかもしれない」
悠斗はようやく水を飲んだ。紙コップから口を離しても、両手で包んだままだった。
「直接、電話は?」
蓮が聞く。
「一回かけた。出なかった。授業かもしれないし、寝てるかもしれないから、その後は、してない」
「番号は前から知ってる方?」
「うん」
寧が、小さくうなずいた。
新しく現れた連絡先へ飛びついたわけではない。そのことが、少しだけ分かった。
「何を頼みたい?」
蓮は聞いた。
悠斗が目を上げる。
「何って」
「一覧に戻すのか、アカウントを調べるのか、話がしたいのか」
一つ言うたび、悠斗の顔が変わった。
最後に、視線が机へ落ちた。
蓮は、自分の聞き方が少し急だったと気づいた。
普段なら、できる仕事だけに絞って帰したかった。
今日は、悠斗の指が紙コップをつぶしかけているのが、気になった。
「……全部、今決めろってことじゃない」
付け足すと、悠斗は息を吐いた。
「分かんない」
「うん」
「でも、勝手に、終わったことにしたくない」
窓の外で、先ほどの配送車が戻ってきた。荷台が空いている。
「俺がうざかったのかもしれないだろ」
悠斗が言った。
「だったら、そう言えばいいのにって思う。でも、言うのも嫌だったのかもしれないし。何かあったんだったら、今、放っといたら駄目かもしれないし」
言葉が一度、途切れた。
悠斗は紙コップを机へ置いた。
「嫌われたなら、そう言ってくれよ」
蓮ではなく、自分の画面へ言った。
その声は、思ったより小さかった。
悠斗は入力欄へ、何か打った。
《何で消したんだよ》
親指が送信の手前で止まる。
「消したかどうかも、知らないんだよな」
自分で言って、一文字ずつ消した。
「分かってるのに、こうなる」
蓮は画面を覗くのをやめた。
悠斗は怒っていた。心配もしていた。早く答えが欲しいのに、来た答えが怖いのだろう。
帰ってこい、と怒っているだけだと思っていた。
自分の知らないところで、友達でなくなってしまったのが怖いのかもしれない。
蓮は、無刻印のHHKBから手を離した。
課題の通知は、まだ画面の端にあった。
*
「俺から、連絡してもいい?」
蓮が聞くと、悠斗はすぐにうなずきかけた。
「お前が来たって話もする?」
そこで、止まった。
「……待って」
蓮は待った。
寧も、自分の画面を閉じずに、手だけを膝へ下ろした。
階段で、誰かの足音が近づいた。今度は扉の前を通り過ぎ、上の階へ上がっていく。
「今は、俺が来たことは、言わないでほしい」
悠斗が言った。
「でも、元気かどうかは、聞きたい。俺たちのとこ戻るかは、その後で」
蓮は聞いた順にうなずいた。一覧を戻す、という仕事なら手を出す場所を探したはずだ。今は、翼が返したいと思える聞き方からだった。
「何て聞くか、先に教えて。俺の話、全部するんじゃなくて」
「……分かった。聞く前に、悠斗に見せる」
蓮は端末を伏せた。
自分が連絡すれば、早いと思っていた。
けれど、その一回で悠斗が何を相手へ知らせることになるのか、まだ聞いていなかった。
「今は、話を聞くだけでいい。仕事にするなら、着手の分も、成功した後の分も先に決める」
「金か」
「事務所だからな」
悠斗は、初めて少しだけ笑った。
その笑いを見て、寧が立ち上がる。
棚から小さな袋を取り出した。自分の補給食だった。
「半分、食べる?」
「いいの?」
「今、私が半分食べたいんだもん。残り」
「結局、食うのかよ」
袋の上を切り、寧が二つに折った。
割れ目が少し斜めになったので、大きい方を見てから、悠斗の側へ置く。
悠斗は受け取ったが、まだ袋の端しか持てなかった。
「翼が戻りたくないって言ったら?」
彼が聞いた。
蓮は、翼の名前のない一覧を見た。
「そしたら、勝手には戻せない」
悠斗の顔が、また曇った。
「でも、今は、まだ聞いてない」
蓮は続けた。
「やめたって決めるのも、何かされたって決めるのも。その前に、どこまで聞いていいか決めよう」
悠斗は、大きい方の補給食を一口かじった。
ほとんど音を立てずに噛み、飲み込んだ。
「……うん」
少なくとも、帰ってもらう話ではなくなった。
蓮は課題の通知を閉じた。
提出する窓まで閉じたわけではない。食べ終わるまでに、先に片づける。
そう思って椅子を寄せた時、机の上で端末が震えた。
悠斗のものだった。
画面を見た彼の眉が、上がる。
「来た」
蓮の手が止まった。
赤いコントローラーの絵。
さっきまで見つからなかった名前。
その下に、短い文が出ていた。
《ごめん。今、ちょっといい?》
悠斗の顔に、ぱっと色が戻る。
蓮は、自分の端末を表へ返した。
友人一覧には、まだ、翼の名前がなかった。




