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第2話「一度、困ればいいと思った」

「誰のこと?」


安本は、ポケットから手を離した。


「保守だよ。前から頼んでる」


「会社の契約先?」


「そういう仕事をしてる人間だ」


蓮は、画面の《認証済み》を見た。


さっき閉じた入口とは、別だった。外から鍵を壊して入ったのではない。会社が持っていた鍵を使って、誰かがまた入ってきている。


寧が計測器を、佐藤の端末へ寄せた。


「まだ、つながってる。今は設定を読んで――」


行の右端が赤く光った。


《更新要求》


翔太が息をのんだ。


「また、あの腕が動くんですか!?」


壁際の作業腕は、床に崩れたままだった。裂けた保護膜も、棚に散った紙も、動かない。


それでも蓮は、右手を浮かせていた。


「佐藤さん。今度の入口を閉じたら、何が止まる」


「古い保守の遠隔接続です。現場の連絡は、さっき分けた方に。古い方の設定は、安本さんが――」


「今の現場には、つながってない」


安本が言った。


寧は機械の出力も確かめ、蓮へうなずいた。


翔太が父へ掛けた。今度は、何を止めるかを先に伝えた。


「もう一つ、入口が残ってた。古い保守の方。現場の連絡は残すって」


『止めろ。俺も戻る』


寧が画面を残し、真野が時刻を読み上げた。


蓮は、古い保守の接続を閉じた。


《更新要求》の横に、《未完了》と出る。


新しい行は、もう増えなかった。


蓮は右手を膝へ戻した。頬の傷がつれた。さっきの一撃は終わったのに、体だけが、まだ次を待っている。


真野が安本へ向き直った。


「今の連絡、見せてもらえますか。どういう相手なのかも聞かせてください」


安本はポケットの端末を出した。


差し出す前に一度だけ、画面を伏せた。


*


瀬戸玲司は、壁と腕時計を見比べ、手帳へ時刻を書いた。


「都警の解析室から来ました。記録を取ったのは?」


寧が手を上げる。瀬戸は壊れた腕より先に、彼女の計測器を覗いた。袖口の補助骨格は、手首の継ぎ目だけ新品だった。


「時計は、いつ合わせました?」


「出る前に、事務所で合わせました」


寧の返事が速くなる。瀬戸は壁の時計との差も書いた。別の機械の記録を並べる時に要るのだという。


「時間、かかりますか」


「順番を飛ばすと、聞き直す分だけ」


「あー……じゃあ、最初からお願いします」


蓮は背もたれから体を起こした。寧が揃えた記録を、机の真ん中へ寄せる。


計測器の上に、さっきの腕の像が出る。黒い筋の一本は切れ、別の一本は、今閉じた入口へ続いていた。


「同じ相手だと思います。つながり方が――」


「その『たぶん』、預かります。機械で測れたのは、どこまで?」


寧の指が止まった。


蓮も同じ筋を見た。戦っている間なら、そこへ刃を入れていた。けれど、線の向こうから人の顔が見えたわけではない。


寧は像の隣へ、通信の記録を並べた。


「……人が同じかは、まだ言えません。調べる場所は、ここだと思います」


「そこから、一緒にたどりましょう」


瀬戸が椅子を寄せた。


「測ったものと、考えたこと。両方、聞かせてください」


寧は、引き戻しかけた計測器を机へ置き直した。


「はい。順番に話します。途中で違ったら、止めてください」


蓮も隣の椅子へ座り直した。寧一人が答える机には、しなかった。


翔太の視線は、安本から動かなかった。


「会社の鍵で入ったなら、使ったのは――」


「誰が、その鍵を持っていたかですね」


瀬戸の言葉に、安本は椅子の背を握り直した。


*


古い端末の鍵は、黄色い封筒に入っていた。


佐藤が引き出しを探す間、安本が「もう一つ下」とだけ言った。そこには、小さな金属の鍵が二つあった。


「ここにあったんですね」


「前からだよ」


安本が、端末の覆いを自分で取った。


本体の埃は少なかった。欠けた角は透明な補修材で埋めてある。さっきまで誰も触ろうとしなかった機械を扱う時だけ、彼の手は迷わなかった。


「この端末、今も仕事に使ってるんですね」


寧が隣へしゃがむ。欠けた角を、横から覗いた。


「この補修、ご自分で?」


「割れただけで、捨てられんだろ」


「私も、小さい部品一つで捨てるのは、嫌です」


寧は持ち上げかけた指を引っ込めた。触る許可は、まだもらっていない。


「夜の集計がある。新しい方には、全部は移してない」


翔太は自分の端末を開いた。


「会議では、もう使わないって――」


「会議ではな。代わりを、誰が作った」


佐藤が小さく手を上げた。


「移す依頼は来てました。でも、試すための機材が、まだ。動いてる方で試すと、現場も止まるんで」


翔太は口を閉じた。


「先に切り替えてから詰めようって、俺が言いました」


蓮は、安本の直した端末の角を見た。


捨てられなかったのか。


捨てられるのが、嫌だったのか。


廊下で、道具箱を引く音が止まった。


ミン・アンが、仕事の写真と作業表を選んで持ってきていた。端末の隅には、木を描いた小さな絵が並んでいる。


「仕事の分だけです。これで、足りますか」


寧は全部コピーしようとして、手を止めた。


「まず、これをください。ない日は、あとで聞かせてください」


ミン・アンが自分で一覧を閉じ、作業表を開いた。


道具箱の蓋には、曲がった定規が置いてあった。寧が伸ばしかけると、彼が笑った。


「それは、僕の失敗。次、同じ曲げ方をしないように残してます」


寧は定規をそっと戻した。


受け取った表に、夜の集計が終わった時刻があった。


瀬戸が、その日の端末の記録を横へ出す。時計の差を揃えると、集計の後にも、外から命令が届いていた。


今日だけではない。


新しい仕組みへ切り替え始めた夜にも、同じ鍵が使われていた。


佐藤が手帳を開いた。


「その日、僕、外から入れないようにしたんです。翔太さんに言われて」


安本は記録を見ていた。


「新しい方は、止まってる」


佐藤の手から、ペンが落ちた。


古い方には、入口が残っていた。


真野の前に置かれた安本の端末は、もう震えていなかった。


瀬戸が尋ねた。


「その外部の方へ、何を渡しましたか」


*


「一度、困ればいいと思った」


安本は椅子へ座ってから、言った。


翔太の足が止まった。机の下で、ずっと小刻みに動いていた足だった。


「……え」


「新しい方で、全部できるって言うから」


安本は顔を上げなかった。


「あっちで止まったら、俺に聞きに来る。移してない仕事があるって、分かるだろうと」


「だから、外の人間を入れたんですか」


翔太の声が、部屋の奥まで届いた。


「俺たちの会社ですよ。社員の、明日の給料も――」


真野が手を上げた。


「翔太さん。先に、何をしたか聞きます」


翔太は息を吸い、むせた。謝ろうとして、やめた。


刷新の話が進んだ後、安本は保守に詳しいという相手と連絡を取るようになった。会社の契約先ではなかった。


その相手は、古い仕組みを分かると言った。


安本の話を、長く聞いた。


「小さい不具合を、一つだけ。困ったら、元に戻せるって」


「それで、鍵を?」


蓮が聞くと、安本はうなずいた。古い端末へ入るための情報を渡した日を言う。


佐藤は、手帳を開いたままだった。


「その日、僕、相談しましたよね。移行が終わってないって」


安本の口が動いた。声にはならなかった。


「相談して、よかったって思ってたんですけど」


佐藤はそれ以上、続けなかった。


落としたペンを拾い、机の端へ置く。いつもならすぐ何かを書いていた手が、膝へ戻った。


「夜の集計だけは、残してあるからって。昨日も、教えてくれましたよね」


佐藤は手帳を閉じかけ、やめた。


開いた頁の端に、黄色い付箋がある。誰かに教わった手順が、小さな字で詰まっていた。


「それで、僕、ほっとして」


安本は付箋を見た。佐藤の目は見なかった。


「困ってたら、また聞けばいいって思ったんです」


佐藤は付箋を剥がさなかった。ただ、安本へ寄せていた椅子を、自分の机の方へ戻した。


蓮が、その椅子の横で足を止めた。


「佐藤さんの控えは、助かったよ」


「……でも、僕、気づかなかったです」


「分からないとこ、分からないって書いてくれたから、聞けた」


佐藤は手帳へ指を挟んだ。安本へ向き直りはせず、付箋を折らないように、頁を閉じた。


寧が冷却用の袋を取り出した。


もう、ぬるくなっていた。赤い指を押し当ててから、効かないと分かったらしく、脇へ置く。


安本がその手を見た。


「そこまで、やるとは」


「腕が来ました」


寧は、自分の肩の横を指した。


「ここへ。後ろには、佐藤さんもいた」


安本は初めて、机の向こうを見た。


削れた机。散ったファイル。寧の手袋が、口を開けた鞄に入っている。


彼の目は、どこにも長く留まらなかった。


「壊すつもりじゃなかった、とは言えない」


安本は言った。


「困ればいいと、思った」


蓮は、頬のガーゼを押さえた。


父の名を検索すると、今でも、事情を一行に畳んだ言葉が出てくる。


犯人。失敗。責任。


今この部屋でも、一人を指せば、全員が同じ方を向けそうだった。


だが、安本の向こうにいる相手は、まだ見えていない。


蓮は机の脅迫状を、自分の方へ向けた。


〈Morrow〉。


「暗号化が始まった後、相手は?」


「何度も戻せと言った。追加の金が要る、と」


「払った?」


「払ってない。そんな金は……」


安本は黙った。


真野が本人に確かめながら、端末の連絡を記録していった。瀬戸は、会社の機械に残った時刻と比べ始める。


同じ相手かどうかは、これから調べる。


安本が、小さく息を吐いた。


「俺が犯人ってことで、いいでしょう」


「よくない」


蓮はすぐに答えた。


安本が顔を上げる。


「それで終わると、向こうが残る」


蓮は六文字の名乗りを指した。


「渡した先を、話して」


*


五郎が戻ってきた時、階段に靴底の音が響いた。


上着は腕へ掛け、靴の泥は落としてあった。縁にだけ、白い粉が残っている。


「父さん、安本さんが」


「聞く」


五郎は安本の向かいへ座った。


安本が説明を繰り返す間、誰も新しい仕事を頼まなかった。佐藤の席にも、いつもの呼び声は来ない。


最後に安本が頭を下げた。


「止めたかったなら、俺のところへ来い」


五郎が言った。


「言いました」


安本は顔を上げた。


「二人じゃ回らない。止めないと移せない。社長も翔太も、止まってから言えって」


翔太が立ちかけた。


「でも、だからって!」


「座れ。今の話は、俺が聞く」


五郎は、黄色い封筒の鍵を見た。


「人を増やさなかったのは、俺だ」


安本の肩が、かすかに動く。


「それで、お前が渡していいことにはならん」


安本は、顔を上げたまま何も言わなかった。


真野が、安本へ水を勧めた。話の続きは別室で聞くという。立ち上がった男を、佐藤は見送らなかった。


五郎が蓮へ頭を下げた。


「ここまで、ありがとう。あとは――」


「給料、まだ出てない」


蓮は言った。


「終わった話にするのは、まだ早いです」


翔太も松田の机へ顔を戻した。紙には、五十人分の名前が残っている。


「給与と再開、それから引継ぎですよね。俺が頼んだんだから、途中で終わりにしません」


寧が蓮の袖を引いた。


「引継ぎの確認と、請求書もまだ。レン、帰る前に整理しよ」


「んー……忘れないうちに、やっとくかぁ……」


「課題も、忘れないで」


「一個ずつなぁ……」


五郎は、小さく息を吐いた。


「請求は俺に回せ。まず、給料の方を頼む」


「その『頼む』、誰に?」


窓際から、松田が声をかけた。


五郎が振り向いた。


「松田さんと、俺だな」


「じゃ、座って。締切は延びないよ」


*


窓際の机には、紙が三つの山に分かれていた。


松田が電卓を叩く。数字が出ない。もう一度、少し強く叩いた。


「松田さん、ちょっと借りてもいいですか」


寧は小さな工具を出した。松田がうなずくと裏蓋を開け、浮いた接点を押し直す。数字が戻ると、翔太が思わず声を上げた。


「おお、直った!」


「接点を戻しただけです。ほら、数字」


蓮へ向けると、寧の声が少し弾んだ。


「こういう小さいの、直ると嬉しいんだよね」


「んー……また開けたくなる顔、してるなぁ……」


「元から、こうなってるんだもん」


寧は電卓を返しかけ、裏へ回しかけた。


松田の手が、上から受け取る。


「電卓は、表から見るとよく働くよ」


「裏も、見たいんですけど」


「今は、私が表を使う番」


「じゃ、終わったら、裏を見てもいいですか」


「終わったら、持主にもう一回聞いて」


「予約は、まだかぁ……」


蓮の小声に、松田は電卓を自分の方へ寄せた。


「これは働いてるからね。順番待ち」


寧の指が名残惜しそうに離れた。松田は自分の方へ数字を向け、机へ置く。


「はいはい、続きはあと! その数字、今すぐ要るから」


先月の給与は紙に残っていた。だが、今月は人も残業も違う。古い数字をそのまま送れば、誰かの暮らしが足りなくなる。


五郎が外注先の控えを集め、翔太は現場へ電話を掛けた。松田が一人ずつ金額を合わせ、寧が足りない欄を空けていく。


蓮は近道を探したが、なかった。


ミン・アンが選んだ写真でも、全員の一日は写っていない。


「この一時間、僕はもう現場を出てます。機械の点検で残った人がいるので、監督へ聞いてください」


翔太は書きかけた数字を消した。


「俺が掛けます。……今度は、答えを聞いてから書く」


佐藤は同じ紙を、二度読んでいた。


寧が椅子を寄せる。


「佐藤さん、私も一緒に見ていいですか」


「僕が分かってないと、また」


佐藤は、安本の空いた席を見た。


その先を言わずに、紙を少し横へずらす。


寧は自分の分の机を空け、二人の間へ置いた。


「番号、読んでもらっていいですか。私は、こっちを追うので」


佐藤は紙を自分へ戻しかけた。指をほどき、寧にも見える角度へ向け直す。


「……お願いします。一人だと、同じ行を何回も見ちゃって」


「うん。戻ったら、私も言います」


手袋から、小さな警告音がした。


《冷却待機》


蓮が見ると、寧はもう袋へしまっていた。


「使わない。分かってる」


「まだ何も言ってない」


「言う顔」


赤い指で、新しい紙を引き寄せた。


窓の外では、配送車の放熱膜が開いていた。雨の予報を映す広告の下で、人はいつも通り荷物を受け取っている。


この部屋だけ、明日へ進むための数字が揃わなかった。


*


石渡から、また電話が来た。


『明日の朝、何人で行けばいい』


翔太は答えかけた。ミン・アンが、未確認の欄を指した。


「……まだ、再開できるか分かりません」


『じゃあ、行かせない。五人、待ってるから』


翔太の背中が丸くなった。


『何時に分かる?』


「六時。俺から掛けます。分からなくても、連絡します」


『うちの支払いも見といて。そっちの社員とは別でね』


五郎が電話へ顔を寄せた。


「そっちは、俺が確認する」


『金額が決まったら連絡して。約束だけ増えても困るから』


翔太は通話を終え、通知を入れた。十七時五十九分と打ちかけ、十八時に直す。


蓮は席を立った。


「弁当の袋、取ってくる」


「あ、私のも」


「何個」


「一つの袋に入ってる」


「数をごまかすな」


外階段の下へ出ると、汗を吸った服が冷えた。


袋はベンチの脇に残っていた。蓮は結び目を持ち、手すりへ背を預ける。


今朝は、客が来ないと文句を言っていた。


客が来たら、帰れない。


ちょうどいい仕事がない、と考えていると、寧が紙コップを二つ持って下りてきた。


「佐藤さん、休憩。瀬戸さんが代わってくれた」


「お前も休めよ」


「うん。これ、お水」


寧は自分で一口飲み、濡れたコップを指へ当てた。もう一つの茶を、蓮へ渡す。


「今度は飲める温度」


「今度は、先に温度、見たんだろうなぁ……」


彼女は笑ったが、すぐに手元へ目を落とした。


「像なら、ぱっと分かるのに」


「何が」


「変なところ。腕が動いた時も、ここを切ればって思った。でも、同じ人なのかって聞かれたら、分からなかった」


蓮は階段の上を見た。


「切る場所は、合ってた」


「うん。次は、後から分かるように残したい」


上の扉が開き、佐藤の声が漏れた。電話の相手へ、帰る時間がまだ分からないと言っている。


それから、少しだけ声が柔らかくなった。


『先に炊いといて。うん。食べる』


寧も、階段を見た。


蓮は茶を飲んだ。コップの底に、葉が一枚張りついていた。


あの人にも、帰った先に飯がある。


「んー……戻るかぁ……」


「飲んでから」


寧が言ったので、蓮もそうした。


*


戻ると、紙の山が二つに減っていた。


翔太が一枚を持ち上げる。


「できた! ……じゃない、まだ父さんの確認待ち」


「見てる」


五郎は松田の隣に座っていた。


佐藤が別の送金用端末を運び、寧が接続を確かめた。入力は、松田へ渡す。


蓮はようやく、出口の扉を見た。


その前に、佐藤が一枚の紙を抜いた。


「松田さん。この振込、給与とは別ですよね」


銀行の取引明細だった。


給料日ではない日に、金が出ている。


《保守調整費》


「それは、こっちで見るから」


松田が手を伸ばした。


佐藤は紙を離しかけ、宛先をもう一度見た。


「契約してる保守会社と、名前が違ってて。僕、知らなくて」


「会社の支払先、全部を知ってるわけじゃないでしょ」


松田の声が硬くなった。


五郎が明細を受け取る。ほかの日にも、同じ名目で出金していた。今日、暗号化が始まるより前からだった。


翔太が声を落とした。


「安本さんの相手に、払ってたんですか」


蓮は首を振った。


「まだ、つながってない」


「保守」の二文字で、相手まで同じにしてはいけない。


蓮は真野を呼び、明細を見せた。五郎も、調べてほしいとうなずいた。


松田は、机の横から帳簿を引き寄せた。


長く使って、表紙の角が丸くなっている。


開いた頁には細かな数字が並び、その間に小さな修正があった。


蓮が顔を上げると、松田は給与の一覧を差し出した。


「先に、こっち。間に合わせなきゃ」


まだ、五十人分の名前が待っていた。


*


窓の光が、机の下まで届かなくなった。


残った手当は明朝に確認する。送金の準備まで、ようやく進んだ。


給料は、まだ一円も送られていない。


それでも翔太の声は、昼より少し明るかった。


「これなら、間に合う。あとは――」


松田が電卓を止めた。


五郎も、隣の画面から動かなくなった。


蓮は体を起こした。


左の画面には、払う給料。


右には、会社が今使える金。


右の方が、小さかった。


翔太が二つの数字へ顔を近づけた。


「待って。ここ、入る予定の分が」


「予定だ。まだ入ってない」


五郎が言った。


その声を聞いて、翔太の指が止まった。


蓮は、床に崩れた黒い腕を見た。機械はもう、誰も殴らない。


金額の画面にも、暗号はかかっていない。


どちらも、直して済む壊れ方ではなかった。


松田が帳簿を閉じた。


薄い表紙が、机の上で乾いた音を立てる。


「父さん」


翔太の声が、急に若くなった。


「足りないってこと? ……明日、五十人に払う金が?」


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