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第1話「明日の飯がかかってる」


挿絵(By みてみん)

「霊長類」


人類は「霊」に特質性を持ち、進化した生命である。


古来より霊は人と共に在り、霊感に長けた人は、人類に影響を与えてきた。


そして、現代の超情報社会においても、人知れず「霊」と共に在る者たちがいる。


Ghost Hackerと呼ばれる者たちが。


*

「あー」


窓際の机で、沼野蓮は椅子の背に体を預けていた。机には端末と本が並び、もう一脚の椅子には誰もいない。


「んー……もう昼かぁ……」


端末には今月の支払いが並んでいた。見ても減らないので、見ないことにした。


「レン、またサボってるの? ご飯、持ってきたんだよっ」


椅子の後ろから、寧が覗き込んだ。黒い襟元の上で、短い髪が揺れた。


蓮は片手で頬を支え、目だけを上げた。


「怠惰が俺の美徳なんだよ……」


寧は机へ片手をつき、顔を近づけた。


「ちゃんと起きて! 来月のご飯代、もうないんだよ!」


「んー……お前の分が、ちょっと多いんだよなぁ……」


寧は気にした様子もなく、机に弁当を二つ置いた。


蓮はようやく背もたれから体を離した。支払いの計算を続ける気はなくなっていた。


「それ、何人分」


「私のは二つ」


「朝も食っただろ」


「朝は朝だもん。これは昼。レンのはこっち」


幼なじみの開發寧は、奥からもう一つ、小ぶりな包みを出した。合計三つだった。


蓮は椅子の背にもたれた。背もたれが後ろの棚に当たった。それ以上は倒れない。二人で机を置くと、この事務所では気持ちよく絶望するための広さも足りなかった。


「あー……何か減らさないとなぁ……。来月、ここで食えなくなる」


「機材費?」


「まず食費」


「そこは削れないもん」


「そこだけ、即答かぁ……」


「昨日買った変換器、何円だった?」


蓮は窓の方を見た。


窓際には、その変換器が届いた箱があった。緩衝材を捨てると部屋が広くなるはずなのに、寧が一つずつ寸法を書いて部品入れにしているので、箱のまま増えていく。


一つには、針金を曲げた小さな台が入っていた。市販の端末台では、机に置く角度が気に入らないらしい。


「それ、まだ捨てないで。あとちょっとなんだよっ」


「また、自分で作ってんのかぁ……」


「うん。ここの曲がり、直したいんだもん」


寧は箸を持ったまま、空いている方の手で台を傾けた。画面を見る時より、目が近かった。


「ここ、押さえてて。手が空くようになるんだよっ」


蓮が針金の根元を押さえると、寧は両手を離した。端末は倒れない。


「ほら!」


蓮は台と、自分の指を見比べた。


「んー……俺は、部品に入ってるのかぁ……」


「完成するまで。もうちょっとだけ」


寧は弁当を引き寄せた。空いた手で、卵焼きを一つつまむ。


「先に空いたの、お前の手なんだよなぁ……」


寧は口を閉じたまま、嬉しそうにうなずいた。


蓮がもう片方の手で弁当を開けようとすると、寧の箸が止まった。


「あ。レンの手、返す」


小さな部品箱を針金の下へ差し込み、寧が台を引き取った。蓮はようやく指を抜く。


「次は、箱が部品かぁ……」


「箱なら、ご飯いらないもん」


蓮の弁当を手の届くところへ押してから、寧も自分の箸を持ち直した。


床の延長コードは、午前中からぬるかった。隣のビルの空調が動き始めると、窓ガラスがかすかに鳴る。路地の向こうでは、大型の広告が今日も同じ靴を回していた。靴の値段で、ここの家賃が二回払える。


受付用の椅子は空いていた。


依頼の通知も、鳴っていない。


「今日の予約」


「ないよ」


「次の予定は」


「学校」


寧が自分の端末をこちらへ向けた。通信制C高等学校の課題締切と、次のスクーリングの日付が並んでいる。蓮の課題にも未提出の印があった。


高卒認定は取った。取ったが、同じ学校に籍を置けば寧と登校の予定を合わせられるし、実習も使える。便利だと思った時の自分に、今の課題をやらせたかった。


「まず一口。話はそれから」


寧は蓋を開け、箸を割った。


蓮も自分の包みを開いた。唐揚げが二つ、卵焼きが一切れ。小さい方でこれなら、隣の二つは相当だ。


机の隅に、先週の作業控えが重なっている。


印刷店の請求先が、直しても古い宛先へ戻る。定食屋の奥の席だけ、注文用の端末がつながらない。家族写真の一部が開かない。


どれも直すのに手間がかかった。写真は戻らないものもあった。戻せた分を渡した帰り、依頼人は「これ、母に送れる」と言った。


蓮は、その母を知らない。


父の事件にも、たぶん関係がない。


画面の奥には、black0awdという文字を含む検索結果が残っていた。同じ攻撃の系統をたどって、行き止まりになるたび別の報告書を開く。父の名が載った古い資料だけ、表示する位置を変えていなかった。


寧が醤油を取ろうとして、その画面の前へ手を伸ばした。


蓮は窓を閉じ、作業控えを一枚引き寄せた。


「奥の席で注文できないって、俺に言われても」


「できるようになったよ」


「四時間かけてな」


寧はうなずいた。


「お昼のお客さんが入った時も測れたから」


「次は、客が入る頃から測るかぁ……。同じ確認、何回もしたしな」


尾崎という店主は、開店前には異常がないと言った。実際、開店前にはなかった。客が入り、店の機械が全部動き、二人が厨房の邪魔にならないよう小さくなってから、ようやく寧の測定値が変わった。


尾崎は何度も謝った。蓮は、謝るより測っている時に設定を変えないでほしい、と言った。


帰りには弁当を持たされた。


あれはうまかった。次の点検も、昼飯の時間がいい。


戸の向こうで足音が止まった。


寧が顔を上げた。


ノックは二回。二回目の方が強かった。


「すみません! 沼野情報調査事務所って、ここですか?」


正直、ダサい名前だと思っている。


もう少し何かあっただろ、と決める時にも思った。母に「ちゃんと仕事にするなら、それっぽい方がいいわよ」と言われ、結局、これにした。


それっぽい名前にしたのに、客は来ない。その件で母へ苦情を入れたら、名前のせいにしないの、と返された。


戸を半分開けた青年が、返事を待ちきれず顔を出した。ネクタイの結び目だけがきちんとしていて、その下のシャツには汗が染みている。


「尾崎さんの店、直したのって――あ、二人いた。よかった……!」


蓮は作業控えを見た。


四時間の仕事が、また増えた。


*


青年は大門翔太と名乗った。


「……あの。沼野さんは?」


「俺です。沼野蓮」


「所長さんとか、そういう人は――」


「あー……所長も、俺なんです」


翔太の目が、蓮の顔と、机の弁当を往復した。


「失礼ですけど、何歳ですか」


「十七」


「十七!? いや、すみません! でも、会社のデータが全部って話なんですけど。学生さんにお願いして、本当に大丈夫なんですか……?」


さっきまでの勢いが、戸口まで戻りかけていた。


「蓮、ゴーストハッカーライセンス、持ってますよ」


寧が自分の端末を立てた。事務所の案内ページから、一枚の電子免許状を開く。


「これです。ゴースト私掠免許状」


その下には、Letters of Marque and Reprisal。


小さな顔写真の蓮は、今より髪が短く、今と同じくらい面倒そうな顔をしていた。


「アメリカと日本が定めた国家資格です。蓮は十五歳で取りました」


「じゅうご……!?」


「今より若いとか言うなよ」


「まだ何も言ってないです!」


寧が免許の有効表示と、取得年齢の欄を指で示した。


「資格はあるので。困っていること、先に聞かせてもらえますか」


取るまでに、あれほど面倒な審査を通った。なのに、免許は一人も客を連れてきてくれなかった。そこまでが国家資格の限界らしい。


翔太は表示をもう一度確かめ、鞄の紐を握り直した。


「佐藤に聞いて来ました。あ、大門建設の。尾崎さんが、あの二人なら見てくれるかもって。それで――これ、見てもらえますか!」


額へ上げかけた手を下ろし、鞄を開く。寧が弁当を寄せ終わるより先に、机へ身を乗り出した。


翔太は鞄から端末を出した。画面の左上が白く欠けていた。右下には、短い英文と、時間が減っていく表示がある。


「何を開いても、これなんです。共有フォルダも、こんな表示に――」


「いつからですか」


「今朝! 朝、会社に着いたら、もう。図面も工程表も、経理まで。昨日は普通に動いてたんですよ?」


蓮は画面を拡大した。


相手が金の送り先を書いている。金額の横で、残り時間だけが動いていた。


「ランサムウェア。で、これがランサムノート」


「ノート?」


「金を払えっていう、脅迫状です」


「やっぱり、そうなんだ……。ゴーストってやつですか? ニュースで見る、ああいうのが、うちに?」


「顔を出さないサイバー犯罪者を、ゴーストって呼ぶんです」


寧が言った。


「顔も名前も隠して、人の仕事には手を出す」


蓮は英文の下まで表示を送った。


「ランサムなら、ノートに名乗りがあるはずだ。ゴーストネーム」


「名前、分かるんですか!?」


「名札。本名じゃない」


末尾に、〈Morrow〉とあった。


「モロウ……。これ、犯人ですか」


「そう名乗ってる」


蓮はその綴りを控えた。同じ名で別の被害が出ていれば、比べられる。ただ、この六文字を打つだけなら誰でもできる。


「じゃあ、ライセンスで、こいつを攻撃して――」


「免許だけじゃ無理。相手も、触っていい範囲も、まだ分かってない」


蓮は端末を返した。まず、この人の会社で何が止まったかだ。


「保守の会社は」


「しました! 警察にも。でも、現場は止めて待ってくれって。来てくれるのは分かってるんですけど、待ってる間にも――」


「来るまで、待てそうですか」


「待ったなしなんですって! 明日、給料日で!」


翔太は返された端末を机に戻した。指が画面の端を押さえている。


「五十人いるんです、社員。誰にいくら払うかも確認できなくて。朝から何度も電話が来て、俺、ずっと確認しますって、それしか……。現場だって、古い図面で動かすわけにいかないし」


蓮は空いた受付の椅子を見た。


五十人。


ここへ全員来られたら、廊下まで埋まる。


翔太が息を吸った。


「報酬、出します。三百万! 今日の初動対応で。会社の仕事として、お願いします。だから、今、来てもらえませんか」


蓮は顔を戻した。


「……いくら?」


「三百万円です。とりあえず止めるところまでで!」


翔太は答えてから、蓮の顔を覗き込んだ。


寧の箸が止まった。


蓮は机の下へ足を下ろし、椅子を引いた。今月の支払いが、頭の中でもう一度並び直された。家賃。回線。寧の食費。交換しないまま騙し騙し使っていた電源。


「初動で、それ?」


「はい! 社長の了解も取ってます。親父なんですけど、ちゃんと会社から払うって」


「止めるのと、元に戻すのは別です。そこは、先に聞いておいてください」


「分かって……いや、分かってないです。何ができるか、教えてください。俺、何すればいいですか?」


「三百万は初動。成功報酬は、別」


「え、別……ですか」


「被害額の三パーセントを目安に。何が終われば成功かも、先に決める」


寧が翔太の端末へ、二つの欄を出した。


「給与を支払って、確認できた仕事を安全に再開する。引継ぎまでですね。全部のデータを戻す約束とは、分けておきたいです」


翔太は一度画面を見て、父へ掛け直した。


「父さん、三百万は初動。成功報酬は別だって。うん、給料と現場。計算のもとになる被害見込みも、会社の資料で――待って、俺、メモする!」


戻ってきた承認には、初動三百万円と別建ての成功報酬、会社が示す被害見込みを基準に三パーセントで計算すること、支払いと業務再開の条件が並んでいた。後から増えた損害まで、勝手に報酬へ足せる契約ではない。


蓮は名義と、承認された範囲を確かめた。少なくとも、あとで父に怒られるから払えないという話ではなさそうだった。


「寧、支度」


「あ、やる気が起きた」


「明日の飯がかかってる」


「私の?」


「俺のも。……寝てたかったけど」


寧は残った弁当の蓋を閉じた。


自分の分がまだ残っていた蓮は、一瞬だけ迷った。寧はそれも袋に入れ、鞄の脇へ収める。


翔太が二人を交互に見た。


「それで、学校は大丈夫なんですか。二人とも、授業抜けてるとかじゃ――」


「今日は登校日じゃないです」


寧が答えた。


「そうなんだ……。いや、ごめん。今さら心配するところじゃないか」


「課題を終わらせれば、大丈夫です」


寧が蓮を見た。


「レンもね」


「んー……課題は、帰ってからやるかぁ……。先に、間に合わせる方から」


蓮は、終わらせれば、という部分を聞かなかったことにした。


翔太はもう戸を押さえていた。


「俺、走ります! 何か、取ってくるものありますか?」


「道、教えてください。そろそろ行けます」


寧が鞄を閉じた。翔太は何度もうなずいた。


*


階段を下りると、路地の空気は事務所より熱かった。


上の階から落ちる空調の排熱と、昼の仕込みの匂いが混じっている。配送の台車が段差を越えるのを待ち、蓮たちは大通りへ出た。


角の店の決済端末には、見慣れたカード会社の印に混じって、地域の店で使う小さな青い印が点いていた。読み取り部が欠けていて、店主は客の端末を少し傾けている。隣の窓では、新しい認証サービスの広告が滑らかに動いていた。


その二つを、同じ電源タップがつないでいる。


翔太の電話が鳴った。


「石渡さん! 今、二人連れて向かってます。もう少し、もう少しだけ――」


足が速くなる。


蓮は寧の機材鞄を持ち替えた。中で何かが鳴った。


「うへぇ……これ、全部いるのかぁ……」


「蓮が持ってる」


「だから言ってる」


寧は少し考え、弁当の袋を引き取った。


「じゃあ、私も持つ」


「軽い方だけな」


「大事な方」


蓮は鞄の中の計測器に、心の中で謝った。


電話の向こうの声が、歩道まで聞こえた。


『搬入の連絡が来てる。でも変更後の図面が見られないんだよ』


「何とか待ってもらえませんか。すぐ着くんで!」


『待たせてる。だから電話してる』


「……ですよね。分かりました。こっちから、すぐ掛け直します」


翔太は通話を終えた。足だけが、先へ行こうとしていた。結び目の下へ指を入れ、ネクタイを緩める。さっき直したばかりらしい形が崩れた。


「協力会社の職長さんです。足場の」


「社員五十人とは別?」


寧が聞いた。


「別です。あの人のところは五人。搬入の人も、次の現場も……。俺、一か所に返事してる間に、別から電話が来て」


蓮は先ほどの廊下を思い浮かべるのをやめた。


五十人で済んでいなかった。


*


大門建設の事務所は、幹線道路から一本入った場所にあった。


入口で、荷役用の補助具を着けた男が板を降ろしていた。肩から肘へ走る人工筋が、本人より半拍遅れて緩む。保護膜を縫い合わせた白い糸が、汗で光っていた。


翔太はその脇をすり抜け、二階へ駆け上がった。


「連れてきました!」


蓮は階段の途中で、もう帰りたくなった。


電話が鳴っている。一台が止まると、別の一台が鳴る。人の声も重なって、誰も返事を聞き終わっていない。


部屋には机が二列あった。窓際の机には紙が積まれ、その向かいでは若い男がケーブルを抱えて立ち尽くしている。奥の壁には、人の背丈ほどの作業腕が折り畳まれていた。工事現場で荷物を持つ機械の、試運転用らしい。肘の関節に「調整待ち」と紙が貼ってある。


「この人たち?」


窓際の女性が、電話を肩で挟んだまま眼鏡を上げた。


「経理の松田さんです。給料、ずっと見てもらってて――」


「明日、間に合う?」


翔太の紹介が終わる前に、松田ヨシ子は蓮を見た。


机の紙には、五十人分の名前があった。金額の欄だけが、途中から空いている。


「まず、見せてもらえますか」


蓮が答えると、松田は一度だけうなずき、受話器へ戻った。


「うん。まだ確認してる。分かったら、こっちからね」


さっきも同じ返事をしたらしかった。切った受話器を置く手だけが、少し遅れた。


「僕の机、使ってください」


ケーブルを抱えた男が、慌てて椅子を引いた。


「佐藤です。尾崎さんから聞いて。すみません、散らかってて」


足元から空の弁当箱が出てきた。寧が見て、佐藤はそれを拾って引き出しへ押し込んだ。


「佐藤さん、ご飯は食べました?」


「え? あ、これは昨日のです」


寧の手が、鞄の弁当袋へ伸びかけた。


「寧、弁当はあとで出そう。先に、何が動いてるか見てもらえる?」


彼女は一度佐藤を見てから、計測器の入った鞄を机へ置いた。


「また、知らないものをつなぐのか」


奥から声がした。


古い端末の横に、年配の男が立っている。佐藤はその男の顔を見てから、ケーブルを机へ下ろした。


「安本です。ここのシステムは、ずっと俺が」


「今回の入替えも、見てもらってます」


翔太が続けると、安本の眉が動いた。


「入替えは、お前が言い出したんだろ」


「今は、その話じゃなくて!」


蓮は二人の間へ、鞄を置いた。これ以上、立ったまま聞くのはだるい。


「社長につないでもらえますか」


翔太が父へ掛け直した。画面に映った大門五郎は現場にいるらしく、背後で車が鳴った。


『まず、止めてくれ』


「会社の端末を見ていいですか」


『いい。松田さん、給料に要る資料を二人に。翔太、連絡はお前が集めろ。確認は俺に回せ』


「分かった! ちゃんと出てよ、電話!」


画面が暗くなると、佐藤が小さなファイルを差し出した。


自分が止めたもの、まだ動いているもの。途中から字が小さくなり、最後には空欄があった。


「分からないところは、空けてます」


「助かる」


佐藤は翔太を見た。


「何でもすぐ答えろって、言われるかと」


「俺、さっきまで言ってた。……分かる人を、一緒に探すから」


翔太は持ち上げたケーブルを置き直し、佐藤の隣に自分の端末を広げた。


蓮は椅子へ座った。分かったふりをされるより、その方が早い。


廊下から、重い靴音が近づいた。


作業着の女性が入ってきて、翔太の前へ折った図面を広げる。


「石渡さん!」


「北の搬入先、また変わった。うちの五人、どこへ行かせればいい?」


歩いてくる間に聞いた、電話の声だった。足場の班を率いている石渡は、図面の端を押さえて待っていた。


翔太が返事を探すより先に、安本が手を伸ばした。


「それは先週の。南の支柱は移った」


棚の下から筒を抜き、別の図面を出す。場所を探す動きに、迷いがない。佐藤が改訂日へ顔を近づけた。


「これ、どこにあったんですか」


「前から、ここだ」


安本の声には、ようやく自分の番が来たような響きがあった。


そこへ、端末を持った男が入ってきた。翔太が施工記録の担当だと紹介する。


「グエン・ミン・アンです。その変更、まだ検査が終わってません。今朝も、止めると伝えました」


石渡は顔を上げた。


「じゃあ、これは何?」


彼女が見せた画面には、緑の印がついていた。


《確認済み》


ミン・アンの顔から、表情が消えた。


「僕は、押してないです」


蓮は椅子を、机の近くへ引き寄せた。


*


開かなくなった図面。


誰も見ていないのに、増えていく「確認済み」。


蓮は二つの画面を並べた。壊れて止まっただけなら、後の方は起きない。


「まだ、誰か動かしてる」


翔太が、奥の作業腕を見た。機械は折り畳まれたままだった。


「誰がですか。ゴースト?」


「まず、外から来る命令を止めたい。佐藤さん、会社の通信は全部、この装置を通る?」


佐藤は机の下の箱を示した。


「新しいのも、古いのも。現場の連絡用も、一緒です」


「じゃあ、一度――」


「待って」


石渡が遮った。


「現場の連絡先も、その画面に入ってる。切る前に出して。まだ、五人に帰る場所も伝えられてない」


「電話は使える」


「掛ける相手の番号が分からなきゃ、使えないよ」


蓮は口を閉じた。


全部落とせば簡単なのに、その先に人がいると、途端に面倒になる。


寧はもう、連絡先の一覧を開いていた。


「翔太さん、これを手元に残してください。班の人には、確認が取れるまで動かないでと伝えてもらえますか?」


「はい! 俺が掛けます」


「じゃあレン、仕事の連絡を残して、変な命令だけ止めよう」


簡単に言う。けれど、寧はもう、残す方の連絡を画面へ並べていた。


「んー……そっちは頼む。切る方は、俺が見る」


蓮は黒いケースから、銀色のキーボードを出した。角の擦れた光り方は、父が使っていた頃と同じだった。


佐藤がそれを見て、何か聞きかけた。


蓮は先に袖をまくった。


寧が右手首へ細い帯を巻く。彼女自身の手には、人工筋を織り込んだ手袋。甲の留め具を閉じると、柔らかな繊維が指に沿って張った。


「SIP、会社の中だけ見るよ」


蓮はうなずいた。


部屋が、二重になった。


松田の机も、窓も、奥の作業腕も、動いてはいない。その上にだけ、蓮には別のものが見える。


端末から端末へ渡る、細い光の線。


電話を取る松田の手元へ一本。現場の連絡先を開いた翔太へ、もう一本。会社の仕事が行き来する道筋だった。


その間に、黒い鉄筋のようなものが食い込んでいる。


緑の《確認済み》が増えるたび、黒い筋が一本、奥へ伸びた。


「寧。あれ、何から来てる」


「外部保守の入口。いまも、更新を受け取ってる」


「朝、止めたはずです」


佐藤が言った。


その時、奥の壁で金属が鳴った。


折り畳まれていた作業腕が、跳ね起きた。


「下がって!」


寧の声と、棚が砕ける音が重なった。


蓮は身を引いた。頬が熱くなる。自分の座っていた場所を、本物の拳が通り過ぎた。後ろの棚からファイルが雪崩れ、紙が足元を滑った。


口の中に、血の味がした。


作業腕の保護膜が裂けていた。人工筋がむき出しになり、外装の可変材が、黒い拳の形に盛り上がっている。SIPの視界では、その関節へ黒い鉄筋が何本も食い込んでいた。


線だけの話では、なくなった。


「うちの腕が、何で……!」


翔太が椅子にぶつかって下がる。


腕は土台に固定されたまま、長い肘を折り返した。今度は、蓮の向こうにいる佐藤まで届く。


寧が間へ入った。


拳を真正面では受けず、手袋で横へ流す。人工筋が肘まで膨らみ、機械の拳が机の角へ落ちた。木片が跳ねた。


寧はすぐに踏み込み、関節を押し返した。腕の肘を机の脚へ噛ませ、手袋のフレームで固定する。


机ごと、数センチ動いた。


床を擦る音が、足の裏まで来た。佐藤の踵の先で、机の脚が止まる。あと少しで足を挟む。


「佐藤さん、足!」


翔太が上着の背をつかみ、椅子ごと引いた。次の瞬間、脚のあった床へ木片が突き刺さった。


寧の腕が、もう一段押し込まれる。肘の人工筋は膨らんだまま、戻らない。


「レン、長くは持たない!」


彼女の靴底が、床に黒い跡を引いた。


蓮は銀色のキーボードへ左手を戻した。


黒い筋をまとめて切れば、腕は止まりそうだった。


けれど、すぐ隣には、翔太の連絡先へ続く細い光がある。


さっき、残すと決めた線だ。


*


「警察の真野です。通路、空けて!」


廊下の戸が開いた。入ってきた真野は、暴れる腕を見て、すぐに松田とミン・アンを棚の陰へ下がらせた。


翔太が状況を話そうとする。


「後で聞く。今、止めるのに何が要る?」


蓮は一度、ゆっくり息を吐いた。


腕を押さえている寧。その後ろで身を縮める佐藤。翔太は連絡先を端末へ残し、石渡は班員へ電話をしている。


残す方の道筋は、もう用意されていた。


蓮は、机の向こうを見たまま、焦点を少し遠くした。


黒いものを全部、切る。それだけなら早い。


けれど、さっき石渡は「番号が分からなきゃ、使えない」と言った。画面の細い光の先には、現場で足を止めた五人がいる。そいつらまで黙らせて、終わった顔で帰るのか。


寧の靴底が、また滑った。


待ってくれる時間は、彼女が作っていた。


蓮は目を細めた。絡んだ線の量を追うのをやめ、残すと決めた一本を、翔太の手元からたどり直す。


全部を片づける必要はない。


今、邪魔しているものだけだ。


「佐藤さん。保守の入口だけ、今から止める」


佐藤は自分の控えと画面を見比べた。


「はい。現場との連絡は、残せます」


寧が汗を拭う暇もなく、計測器へ指を伸ばす。


黒い筋の根元が、彼女の画面にも表示された。外からの命令が来るたび、作業腕の肘が強く引かれる。


「記録、残した。ここが動いてる」


その先を見ようとしても、蓮の視界は白く潰れた。見えるのは、この部屋へ入ってくる命令までだ。向こうの顔は出てこない。


「止めたって、言ってるだろう」


安本が言った。声は、さっきより弱かった。


寧は答える代わりに、ミン・アンへ呼びかけた。


「ミン・アンさん、緑の印が付く前の、現場の記録はありますか?」


彼は端末を差し出しかけ、止めた。


「仕事の写真だけなら。ほかも入ってるから、全部は」


「それだけで大丈夫です。選んで、見せてもらえますか」


ミン・アンが開いた写真には、図面の改訂日が写っていた。彼は指でその場所を示す。


「ここまで、僕が見ました。検査はまだです」


寧は、彼が確かめたところだけを手元の観測図へ重ねた。


蓮の視界でも、黒い鉄筋と、会社が使う連絡の光が、ようやく別々に見えた。


蓮はその隙間へ、右手を伸ばした。


手首の帯から、黒い可変材がせり上がる。骨のような枝が開き、薄い刃になった。


NULL AXE。


「それ、武器ですよね!?」


翔太の声が裏返った。


「ゴーストアームズ。レンは免許があるので、使えます」


寧が、歯を食いしばったまま答えた。


「ゴースト私掠免許法で、こういう被害を止めるための所持と使用が認められています」


「寧、二秒」


「一・五! これ以上は、手袋が焼ける」


「分かった。終わったら、離せよ」


「レンも、戻ってきて」


寧は腕の向こうの隙間を見た。蓮が入って、帰ってくるための幅だった。


蓮はうなずいた。


左手で、保守の接続を閉じる。


黒い筋が、一瞬たるんだ。


寧が腕の肘を押し上げた。


機械の拳が天井へ向く。蓮は邪魔な椅子を足で押し、机と土台の狭い隙間へ身を入れた。裂けた膜が肩をかすめる。熱い。


寧の手袋から、白い湯気が上がった。


「いま!」


声の方を見ず、蓮は右手の刃を振り抜いた。


重い束を断つ手応えが、手首から肩まで突き抜けた。


拳が落ちた。


可変材が形を失い、裂けた保護膜の上へ広がる。むき出しの人工筋が一度だけ震え、それきり動かなくなった。


机の脚から、寧が手を離す。


蓮の視界では、黒い鉄筋がほどけていた。その脇に残した細い光は、まだ翔太の端末へつながっている。


石渡の電話から、班員の声がした。


『分かった。まだ入らない』


「……うん。それでお願い」


石渡が答えた。


佐藤は画面に両手をつき、膝を曲げた。座る椅子があることを、今思い出したようだった。


「止まってます。新しい更新、来てません」


翔太が、息を吐いた。


「よかった……! じゃあ、明日の給料も――」


松田が、黙って画面をこちらへ向けた。


給与のフォルダは、まだ開かない。


蓮は右手を下ろした。刃がほどけ、帯へ戻っていく。頬の傷に汗が入り、遅れて痛んだ。


倒した腕は、金額も名前も返してくれなかった。


さっきまで伏せていた佐藤が、椅子から立とうとして、膝へ手を戻した。無事なのを確かめるように、両足を一度ずつ踏む。


蓮は、その足元から給与の画面へ目を移した。


止める仕事は、した。


ここから帰れるようにする仕事は、まだ残っていた。


「会社の外に、送ってある控えは?」


蓮が尋ねると、松田は少し考えた。


「給与の処理を頼んでる先。現場にも、勤怠の控えがある」


「そこへ聞いて。最後に受け取った分と、足りない分を」


翔太が、閉じかけた手帳を開き直した。


「間に合いますよね。……まだ、分からないですか」


蓮は首を振った。


寧が焼けた手袋を外す。指が赤い。鞄の金具へ触れた途端、彼女は小さく息を吸った。


帰って、この手袋を直す。頬を洗う。残った弁当も食べたい。


それなのに、翔太はまだ、明日の給料を待っている顔をしていた。


「俺、五十人の勤怠は知らないから」


蓮は椅子を引いた。


「誰に聞けば分かるか、会社で決めて」


翔太は松田を見た。


「俺、掛けます。順番、教えてください」


今度は相手が答えるまで、ペンを持って待っていた。


*


一階の外階段の下に、細いベンチがあった。


蓮が腰を下ろすと、寧が弁当袋を置いた。蓋を開ける前に、小さなガーゼを投げてくる。


「頬」


「分かってる。手は?」


「冷やす。手袋は修理」


「うへぇ……こっちも修理かぁ……」


「部品、取り寄せると高いよ」


「要る分は頼めよ。……先に、手を冷やそう」


寧は顔をしかめ、冷却用の袋を指へ当てた。


蓮も傷を拭き、ガーゼを貼る。ようやく口の中から、鉄の味が薄れた。


寧が弁当の留め具へ手をかけ、すぐに離した。蓮は袋を自分の膝へ引き、二つとも開けた。


「今日のは、俺がやる」


「……うん。じゃ、食べる方は任せて」


「そっちは、心配してないなぁ……」


弁当は冷めていた。卵焼きの端が、包み紙の形に潰れている。


寧は自分の分の漬物を、蓮の蓋へ一つ移した。


「唐揚げじゃないのか」


「私も殴られたので」


「殴った方も、お前だろ」


寧は答えず、箸を持った。


植木鉢にやられた水が、コンクリートの窪みに溜まっていた。換気扇が回るたび、水面に映った細い空が揺れる。


上では、誰かが一人ずつ、電話の番号を読み上げていた。


蓮の端末も震えた。


尾崎からだった。奥の席、今日は全部注文が通った、とある。それから、佐藤という子には会えたか、と。


『会った』


返して、蓮は上の階を見た。


四時間かかった、定食屋の注文端末。


あれを直していなければ、今日ここには来なかった。


もう一つ、通知が来た。歩だった。


『寧、飯食ってる?』


『食ってる』


『お前じゃねえ。寧』


すぐに、長い文が続いた。


『は? 飯の時間に既読つかねえんだが? 仕事させっぱなしにしてねえだろうな。お前、放っとくと水も飲まねえし。寧にも飲ませろ。あと――』


蓮は画面を、寧へ向けた。


「俺への心配、途中で終わった」


寧は口のものを飲み込んでから、端末を引き寄せた。


「食べてるよ。……写真、送っとく?」


「俺の飯まで見せるな」


階段から松田が顔を出した。


「お茶いる?」


寧がうなずくと、小さな盆を持って下りてきた。湯呑みは二つ。片方だけ、縁の模様が違う。


「佐藤の、洗ってなかったから」


松田が少し笑った。


「連絡、つきました?」


蓮が聞くと、彼女はうなずいた。


「ついた。あとは一人ずつ合わせる。私は、そういう方が慣れてる」


立ち上がる前に、空いた蓋を見る。


「足りた?」


寧が考えた。


蓮は、その肩を指でつついた。


「俺は、足りました」


先に答えると、寧に手を払われた。


松田が笑って階段を上がる。上で電話が鳴り、今度は誰かがすぐに取った。


*


鞄を閉じようとしたところで、佐藤が呼びに来た。


「すみません。もう一回、見てください」


顔が、さっき椅子へ座った時より白かった。


蓮は箸を置いた。


二階の机には、安本が立っていた。佐藤の端末を覗き込んでいる。


画面には、外から来た命令が時刻順に並んでいた。


蓮たちが接続を止めたところで、列はいったん途切れている。


その下に、新しい一行があった。


「同じ入口?」


寧が尋ねる。


佐藤は首を振った。


「閉じた入口は、そのままです。別の端末から、管理用のアクセスで」


蓮は、新しい一行についた印を見た。


《認証済み》


壊して入った印ではない。


会社の鍵を使って、入ってきた印だった。


「この鍵、誰が使う?」


佐藤が、安本を見た。


安本のポケットで端末が震えた。


彼は画面を見ず、その上から手を置いた。


「前から使ってる。いつもの、保守の――」


「いつものって」


蓮は遮った。


階段の下に、空の弁当袋を忘れてきた。さっきまで、取りに戻れば帰れると思っていた。


画面の新しい一行には、その後の時刻が刻まれていた。


向こうにいる誰かは、まだ仕事を続けている。


蓮は銀色のキーボードへ、左手を戻した。


「誰のこと?」


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