6.蝕心
朝食を終え、買い出しのために王都の中央大通りへと繰り出した二人。
「師匠、荷物は全部俺が持つっスからね!」
カイは両手に大きなパンの袋や野菜の籠を抱えながら、セレーネの半歩後ろを元気に歩いていた。セレーネは相変わらず無言で前を見据え、通り過ぎる街の人々との間に目に見えない壁を作っている。
王都は今日も活気に溢れている……ように見えた。
露店からは威勢のいい声が響き、子どもたちが石畳の上を駆け回っている。しかし、カイの持ち前の「他人の瞳の色(心の波長)を見る能力」は、街全体に満ち始めた異様な違和感を鋭く察知していた。
(……変だ。何だかみんな、目が……)
擦れ違う人々を観察するカイの表情が、次第に曇っていく。
八百屋のおじさん。露店の客。巡回中の兵士。 一見すると普通の笑顔を浮かべているが、カイの視界には、彼らの瞳の奥底にドロリとした小さな「黒い濁り」が点々と浮かび上がっているのが見えたのだ。
まるで見えない墨を、少しずつ心の中に垂らされているかのように。
「師匠……なんか、街の人たちの雰囲気がおかしくないっスか?」
カイが不安を口にすると、前を行くセレーネの足がピタリと止まった。
「……気づいたか」
セレーネは周囲に悟られないよう低く静かな声で呟いた。その声には、千年前の大災害を知る者特有の、深い警戒が籠もっていた。
「『蝕心』だ。世界の中心で眠る『黒崩』の暴走魔力が、地下の地脈を通じて地表へと漏れ出し始めている」
「えっ……アビスの魔力が……!?」
「アビスの魔力は、人間の内に秘められた負の感情――恐怖、嫉妬、怒り、欲望を養分にして肥大化する。心が弱い者ほど、簡単にその闇に呑まれ、理性を失った怪物……『狂者』へと変貌するのだ」
カイはゴクリと唾を呑み込んだ。
「じゃあ……あの目の中の黒い濁りは、心が闇に喰われかけてる証拠っスか!?」
「そうだ。そして一度完全に黒く染まり切れば……二度と元の人間には戻らん」
セレーネの言葉が終わるか終わらないかの、その瞬間だった。
「――ウアァァァァアアアッ!?」
大通りの真っ只中で、凄まじい悲鳴が上がった。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う中心で、一人の若い男――先ほどまで穏やかに花を売っていた青年が、自分の頭を抱きしめながら石畳の上に転がり回っていた。
「目……目が、黒いっス……!」
カイが叫ぶ。青年の両目はすでに白目までが漆黒の闇に染まり切っていた。彼の皮膚からはどす黒いモヤのような魔力が噴出し、その顔容は苦悶と狂気によって恐ろしい怪物のように歪んでいく。
「アァガアアッ! 壊してやる……全部、破壊してやるぁぁあっ!」
『蝕心』の完全発症。 理性を完全に失った青年は、近くにいた幼い少女に向かって、研ぎ澄まされた剪定用の大きな鋏を振り上げた!
「危ないっス―――!?」
考えるより先に、カイの身体は弾かれたように動き出していた――!
「助けて……!」
少女の悲鳴が石畳の通りに響き渡る。狂気と化悪意に飲み込まれた青年が振り下ろした刃の直下、少女は恐怖で身をすくめ、動くことすらできずにいた。
「させるかあっ――!」
カイの全身を激しい緊張が駆け巡る。体内の微量な魔力を一気に脚部へ集中させ、息を限界まで殺した。
――『隠蔽魔法』の応用、影走り。
存在の輪郭を空気の中に溶け込ませることで摩擦を殺し、一瞬だけ視認不可能な速度で踏み込む。カイの体はまるで影のように石畳を滑り、間一髪のところで少女の前に割り込んだ。
ガキィィンッ!
鈍い衝撃がカイの両腕を襲う。背中に背負っていた短剣を咄嗟に鞘ごと掲げ、振り下ろされたハサミの刃を
受け止めたのだ。凄まじい筋力と負の魔力に押され、カイの膝ががくぐりと折れかける。
「くっ……! なんて馬力っスか……!」
「カイ、退け!」
背後から放たれたセレーネの冷徹な声と同時に、凄まじい冷気が大気を満たした。
カイが即座に身体を横へ転がして回避すると同時に、セレーネの掌から放たれた白銀の輝き――氷結魔法が青年の足元から一瞬で駆け上がった。氷は青年の全身を瞬く間に包み込み、凶行を完璧に封じ込める。
「……ハッ、ハッ……助かったっス……!」
荒い息を吐きながら、カイは急いで少女の肩を抱き寄せ、近くの建物の陰へと避難させた。
「もう大丈夫っスよ」と優しく声をかけると、泣きジャクリながら感謝する少女を親の元へと引き渡す。
「見事な反応速度だったな、カイ少年」
いつの間にか、事もなげな足取りで近づいてきたエレンが、眼鏡の枠を指で押し上げながら呟いた。
「ただの隠蔽魔法を、気配を殺した超加速の踏み込みに応用するとは。君の持つ能力は、単なる『気配消し』の枠に収まらない潜在性を秘めているようだね」
「へへ……城の……じゃなくて、家を抜け出す時に見張りの目を盗むため、死ぬ気で練習した技っスから!」
カイは冷や汗を拭いながら頭を掻いた。だが、セレーネの表情は苛立ちと強い懸念に満ちていた。彼女は凍りついた青年を見つめ、その瞳の奥の「黒い濁り」がすでに根深く心根まで侵食しているのを確認する。
「……喜んでいる場合ではないぞ、小僧」
セレーネは深くフードを被り直すと、冷ややかな視線を街の奥へと向けた。
「今のはただの序章に過ぎん。王都の地下を流れる地脈の奥深くで、千年前の『黒崩』のコアが本格的に目覚めようとしている。この程度の『蝕心』は、これから訪れる絶望のほんの欠片に過ぎない」
「そんな……じゃあ、これからどうなっちゃうんスか!?」
「どうもこうもない。私たちが原因を叩き潰すだけだ」




