3.怪しいおにーさん
気配を極限まで消し去り、影を踏むように少女の後を追うカイ。やがて少女が足を止めたのは、街の喧騒から少し離れた路地裏にひっそりと佇む、年季の入った一軒の邸宅の前だった。
(眼鏡のおにーさんと話してるっスね。ここがあの子の家っスかね……?)
物陰から覗き込むと、そこには優美な仕立ての執事服に身を包み、知的な眼鏡を光らせた青年が立っていた。二人は親しげに何かを囁き交わしている。カイが何の話をしているのだろうと身を乗り出した、その瞬間だった。
ポン、と軽やかに背後から肩へ手が置かれた。
「君が尾行られるだなんて、珍しいこともあるもんだね。明日は魔法の氷の槍でも降って帝都が滅びるんじゃないかい。 」
「なっ……!?」
背後から響いた青年の声に、カイは心臓が跳ね上がるほど驚き、跳び上がって振り返った。いつの間にか眼鏡の青年が、カイのすぐ後ろに立っていたのだ。自分の自慢の『隠蔽魔法』が完膚なきまでに破られたことに狼狽しながら、カイは必死に手を振った。
「す、すみませんっス〜! 悪気はないんスよ! ただ、お礼が言いたくて……その!」
「お礼? 一体何をしたんだい、魔女殿?」
面白そうに目を細めた青年――エレンが視線を向けると、玄関の段差に腰掛けていた少女は、気だるそうにそっぽを向いた。
「ふん、何もしておらんわ」
「そんな事無いじゃないっスかぁ! そんな冷たいこと言わないでくださいっスよ!」
すがるような声を上げるカイに、エレンは楽しげに首をかしげる。
「どうしたんだい、少年よ?」
「あっ、あのっスね! さっき助けてもらって――」
「魔女殿が人助け? ははっ、これは面白いね!それに本当に助けたのかい、魔女殿?」
「……そんな事していない。ただ、恩を返しただけだ」
無愛想に言い捨てる少女の横顔を見つめ、カイは食い下がった。
「恩って言っても、こっちは結局助けてもらったっスよ!」
その遣り取りを眺めていたエレンは、クスクスと喉を鳴らすと、扉を大きく押し開けてカイに手招きをした。
「ふむ、これは実に面白そうだね。立ち話もなんだ、一旦家に上がると良いよ。僕の名前はエレン・スペイサー。よろしくね、少年」
「俺の名前はカイっス! こちらこそよろしくっス!」
「では、失礼するっス!」
カイが元気よく足を踏み入れようとすると、少女が不機嫌そうに眉をひそめた。
「おい……本当に入れるのか、お前は」
「良いじゃないですか、魔女殿」
「どうせお前は『面白そうだから』とか何とか言うのだろう?」
「おや、よく分かりましたね。いやぁ、僕たちもすっかり仲良くなったものです」
「……なっていない」
二人の息の合った、しかし妙にチグハグな会話に首を傾げながら、カイは素朴な疑問を口にした。
「お二人は、一体どんな関係なんっスか?」
「恋人」「赤の他人」
間髪いれずに重なった二人の答えは、見事なまでに正反対だった。カイが「ん?」と固まった瞬間、少女の周囲の大気がピキリと凍りつき、凄まじい熱量が収束を始める。
「『業火の炎よ、我に付き従わぬ――』」
「ちょっと待って!? それって僕が本気で死ぬやつなんじゃ!?」
「それが何か?」
「ごめん! ごめんってば! ただの腐れ縁ですよ、腐れ縁!」
エレンが焦って手を叩くと、少女はチッと小さく舌打ちをして詠唱を中断した。その一連の激しいコントのようなやり取りを見て、カイは感心したように頷く。
「そうなんスね。ふたりとも、とっても仲がいいんっスね!」
「……何を聞いていたんだ、お前は?」
「あはは! よく分かっているじゃないか、カイ少年!」
「……ありがとうっス?」
応接室のソファに通されると、少女が湯気の立つカップをカイの前に事もなげに置いた。
「はい、これ紅茶。口に合わなくても残すなよ」
「わ、わかってるっス! ……て言うか、そこのお嬢さんはなんていう名前なんスか? そんなに幼いのに、魔法がすごくて本当にびっくりなんスよ」
カイの純粋な問いかけを聞いた瞬間、隣で優雅に紅茶を味わっていたエレンがブッと吹き出しそうになった。
「あははっ! 『幼い』『お嬢さん』って……あはは、面白い! 君、本当に命がいくつあっても足りないね!」
「な、何スか!? 俺、変なこと言ったっスか!?」
困惑するカイをよそに、少女は目を細め、静かにカップを傾けた。
「……私の名前など、どうでもいいだろう」
「良くないっすよ! 命の恩人の名前くらい、ちゃんと知っておきたいっス!」
引き下がらないカイの真っ直ぐな瞳に根負けしたのか、少女は小さく溜息をつき、深くフードの影から呟いた。
「……セレーネ」
「セレーネさんっスか! いい名前っスね!」
カイがパッと表情を輝かせたその時、エレンが身を乗り出し、鋭い光を眼鏡の奥に宿らせた。
「ところでカイ少年。さっき君が使っていたあの魔法は、一体何なんだい?」
「え? 普通の隠蔽魔法っスよ」
「そんなわけがないだろう! あの『魔女殿』の目を眩まし、ここまで完璧に尾行してみせたんだぞ!?」
「いやぁ、俺は魔力が少ない分、あの魔法だけは昔から得意だったんスよ〜」
照れくさそうに頭を掻くカイを見て、エレンは「そう、なのかい……?」とセレーネへ視線を向けた。セレーネもまた、苦々しい表情で「そうッス、そうッス」とうなずくカイをじっと見つめている。
千年の時を生き、世界の理さえ超越した魔女の知覚を、ただの駆け出し冒険者の少年が「得意だから」という理由だけで潜り抜けて見せたのだ。
「ふむ……魔女殿が出し抜かれたというのは、実に実に興味深い状況だね。……でも」
眼鏡の怪しい執事のような格好をしたエレンは、口元に不気味で深謀遠慮な笑みを浮かべた。
「でも……?」
「いや、なんでもないですよ」
「そうッスか?」
首をかしげるカイの視界の外で、エレンは静かに思考を巡らせていた。
(カイ少年は実に面白い……ふふ、これは少し『使わせてもらおう』か)
最弱の少年が魅せた小さな奇跡。それが、止まっていた伝説の歯車を再び動かす引き金になることを、カイ自身はまだ知る由もなかった。




