19.予感
ギルドを飛び出したカイは、路地裏の影を滑るように駆け抜け、隠れ家への階段を一段飛ばしで駆け上がった。胸の奥で早鐘のように打つ心臓の音が、耳の奥でうるさく響いている。
「師匠! エレンさん! 大変っス!」
勢いよく扉を叩き開けると、部屋の中ではセレーネが小さな丸椅子に腰掛け、羊皮紙の古書を静かに繰っていた。暖炉の脇では、エレンが丁寧に淹れた紅茶の湯気が、優雅に立ち上っている。
「騒がしいぞ、小僧。扉は静かに開けろと言っているだろう」
セレーネはページから目を離さず、冷ややかな声で刺した。だが、カイの乱れた息遣いと、普段の無邪気さとは全く異なる切迫した気配を察し、ゆっくりと顔を上げた。オッドアイの瞳が、カイの顔をじっと射抜く。
「……何があった」
「ギルドから、緊急の指名依頼が入ったんス。王都郊外の共同墓地で、大量のアンデッドが暴れてるから討伐隊に参加しろって……」
「ただのアンデッド掃討か。冒険者ギルドの雑務など、私に報告するようなことではないだろう」
「違うんス! 依頼を持ってきたギルドのギルバートさんの『目』が……変だったんスよ!」
カイは駆け寄ると、テーブルに両手を突き、自身の『目』で見えた光景を必死に言葉にした。
「アビスの狂者みたいに真っ黒とか、紫の斑点があるわけじゃないっス。でも、瞳の奥の中心に、光を吸い込むみたいな嫌な『暗がり』が渦巻いてたんス! まるで……意志を奪われて、誰かに操られてるみたいな無機質な目だったっス!」
カイの言葉を聞いた瞬間、エレンが紅茶のカップをソーサーに置くカチャリという音が、静かな部屋に小さく響いた。エレンの柔らかな微笑みから、スッと軽薄さが消え去る。
「……なるほどね。カイ少年のその『目』が捉えたとなると、見過ごせないな」
エレンは眼鏡のツルを指先でクイと押し上げ、思索にふけるように顎に手を当てた。
「アビスの魔力そのものではなく、精神の隙間に潜り込む『支配の呪印』あるいは『 傀儡の術』の類かもしれない。……王都のギルド職員にまで手が伸びているとなると、地下水道のコアを凍らせた程度では、連中の企みを止め切れていなかったということか」
セレーネは黙ってカイの顔を見つめていた。その表情はいつものように冷徹で、感情の波風一つ立っていない。
「墓場、か」
ぽつりと溢れ出たセレーネの声は、氷のように冷たかった。
「アンデッドを大量発生させ、それに乗じて『目ざとい冒険者』を誘い出す。……小僧、お前のその異能に気づいた者が、お前を消すために仕掛けた罠という可能性もあるな」
「俺を……っスか!?」
カイはゴクリと生唾を呑み込んだ。自分が地下水道で見せた「汚染の脈を見抜く力」。あれがアビスに関わる何者かに警戒されたのだとすれば、辻褄が合ってしまう。
「師匠……じゃあ、この依頼は断った方がいいっスか?」
カイの問いに、セレーネは古書をゆっくりと閉じた。パタン、という静かな音が部屋に落ちる。
「断れば、奴らは別の手を使ってお前を狙うだけだ。……それに、街の末端にまで毒が回っているなら、早めに根を断つ必要がある」
セレーネは立ち上がると、カイの前に歩み寄った。彼女の小柄な影が、カイをすっぽりと覆う。自身が彼を守りたいと願っている自覚など、セレーネには一切ない。ただ、せっかく拾い上げ、手元で少しずつ使い物になりかけている「道具」を、得体の知れない影に壊されるのが不愉快なだけだ――彼女の冷徹な自己認識においては、そう結論づけられていた。
「行け、カイ。罠だと分かっているなら、飛び込んで破り捨てればいい」
「師匠……! はいっス!」
力強く頷くカイの姿を見つめながら、セレーネはちらりと横に立つエレンへ目線を送った。
「……ただし、小僧一人では不確定要素が多すぎる」
「おや?」
エレンが意外そうに眉をひさしを動かした。セレーネは不機嫌そうに鼻を鳴らし、そっぽを向く。
「エレン。お前がついて行け」
「僕がかい? 魔女殿。僕は戦いに関しては素人同然の読書家だよ?」
「白々しいことを抜かすな。……小僧の隠蔽魔法では、複数人の罠や精神干渉の術式までは防ぎきれん。お前の『知識』と『目』なら、裏で糸を引く泥鼠どもの尻尾を掴むくらいはできるだろう」
セレーネの口調は相変わらず淡々としており、そこには「カイを心配している」というような甘い響きは一切含まれていない。しかし、わざわざ千年間そばに置いてきた一番信頼の置ける存在を護衛として貼り付けるという判断そのものが、彼女の無意識の深い配慮を物語っていた。
「……フフ、相変わらず手厳しく、そして抜かりがないね」
エレンはフッと温かな笑みをこぼした。彼には分かっていた。セレーネ自身が動けば、その強大な魔力で王都中の「敵」の警戒を跳ね上げてしまう。だからこそ、自分の代わりとしてエレンをカイの影に配置するのだと。
(千年も生きているのに、自分のその『過保護な習性』に全く無自覚なんだから……本当に困った魔女殿だ)
エレンは胸の中で楽しそうに呟きながら、ゆっくりと立ち上がった。その背後に一瞬だけ、人理を超えた「古の妖精」としての神秘的な光の残滓が揺らめく。
「分かったよ、魔女殿の仰せのままに。カイ少年、僕も同行させてもらうとしよう」
「エレンさんが一緒なら、百人力っス! よろしくお願いしますっス!」
カイはパッと顔を輝かせた。セレーネの不器用で冷ややかな気配りが、胸の奥をじんわりと温かくしてくれるのを感じる。
「勘違いするな、小僧」
セレーネは冷徹なオッドアイでカイを睨みつけた。
「エレンを行かせるのは、アビスの残党の情報を収集させるためだ。お前を守るためではない。……足手まといになるなら、その場で捨ててくるようエレンには言い含めてある」
「はいっス! ちゃんと自分の身は自分で守るっス!」
屈託のない笑顔で答えるカイに、セレーネは「……チッ」と小さく舌打ちをして、再び暖炉の火へと視線を戻してしまった。
「さて、カイ少年。準備を整えたら出発しようか。不気味なアンデッドと、その裏に潜む『人形使い』ごっこを散歩がてら見物に行こう」
「はいっス、エレンさん!」
少年と千年の妖精は、静かな決意を胸に、暗雲漂う共同墓地へと足を踏み出す準備を始めるのだった。




