庭園
十月八日。
自宅待機のまま……。
読めていなかった本を、次々と開き、どんどんと読み進めていくことができてしまう!
でも、気になるのは仕事のことだ。
護衛の任……解かれるんだろうか?
左遷、だろうか?
こんな形で地方の倉庫係に異動と言われても、納得いかない……。
お昼過ぎに、その人が訪ねてきた。
パトリックの声が、ドア越しに聞こえた。
「アリシア、出かける準備をするように」
「は? 出かける準備?」
「宿舎の外で、殿下がお待ちだ。支度を急いでくれ」
殿下が!?
あわわわわわわわわわ……支度、支度、支度……化粧箱はえっと……ああ、本の下敷きに……あああああああああ!
化粧箱を開き、鏡を見た。
「きゅああああああ!」
「おい、なんだ!?」
「なんでもないです!」
悲鳴をあげたことで、パトリックが声をかけてくれたけど……寝ぐせのすごさに悲鳴をあげたなんて言えない。
水、水、水……シャワー室へと駆け込み、急げ! お湯……は待てない! 寒い! 冷たい……ううううう……どうだ? 鏡を見る……直った!
化粧……急げ、急げ!
服……ええい、しわ取りをした服……これしかない。
上下を白でそろえて、グリーンの薄いコートを羽織る。
ドアを勢いよく、開けた。
「お待たせしました……」
「殿下がお待ちだ。急ごう」
足早に移動し、宿舎から出たところで馬車の前に立つ殿下と目があう。
一礼し、片膝をつく。
「お待たせいたしました。申し訳ございません」
「いや、急ですまない。出かけよう。乗ってくれないか?」
「……はい、承知しました」
殿下の馬車に、乗る……。
王女でも、貴族のご令嬢でもない、護衛騎士をクビになりそうなわたしが……。
殿下は、当然のようにわたしを先に乗せようとする。
「殿下、さすがにそれは……どうか」
「そうか……わかった」
殿下が乗り込み、わたしも乗った。
扉が閉じられ、空間に二人だけ。
馬車が、ゆっくりと加速する。
「アリシア、俺の軽挙のせいで迷惑をかけて申し訳ない」
そんな!
頭を下げたりしないでください!
「とんでもございません。どうか――」
頭をあげて、と慌てて腰を浮かした時、馬車が揺れて、わたしは前のめりになる。
殿下が腕で、わたしを支えてくれた。
しっかりと、抱きしめられて……殿下の顔が目の前にある。
思わず、見入ってしまった……。
殿下も、わたしから目を逸らさない。
……だめだ。
いけない。
わたしは、視線を落とした。
「殿下……その」
「……すまない」
「……」
馬車が、進む。
どこに、向かっているんだろう?
車内は、静かになった。
殿下は、少し緊張した面持ちで、わたしと目があうと、窓を見る。
避けられているのではなく、恥ずかしがっているように感じて、微笑ましかった。
この御方でも、こういうことがあるのかと、新鮮に感じる。
馬車の速度が、ゆっくりと落ちる。
車窓を眺めて、どうやら皇室が所有する庭園のひとつに入ったのだとわかった。
馬車の扉が開かれ、わたしは先に降りて頭を垂れる。
殿下は降りると、わたしの手を取った。
護衛連隊の騎士たちを前に、殿下が歩き出す。
わたしは、戸惑いながらも振り払うわけにもいかず、ただ殿下について歩く。
湖畔で、殿下が立ち止まった。
透明度が、恐ろしく高い湖は、水面で世界を反転させて映し出している。
遠くの山々と、湖を囲む木々と花々。
殿下と、わたし。
「先生が、訪ねてきた」
殿下が、先生と呼ぶのは一人しかいない。
ジグルド先生で、間違いないだろう。
「先生から、弟子を泣かしたら許さんと、叱られたよ」
わたしは、心が軽くなったような感覚で、微笑むことができていた。
殿下が、その場で片膝をつく。
わたしが慌てて、さらに低く伏せようとしたけど、殿下に止められた。
殿下が、わたしの前で片膝をついている。
そして、わたしの手をとって、わたしを見上げた。
「アリシア。許してください。君の気持ちを考えず、勝手なことを言っていた俺が悪かった。許してほしい」
「殿下……謝らないでください。わたしは殿下の臣下ですから……」
この時、湖面に映る風景のせいで、護衛連隊の騎士たちがいないことに気づく。
周囲をうかがうと、離れた木の陰で、イゴールがこちらを見守っていた。
目が合うと、彼は胸元に拳を当てた。
帝国騎士同士の合図だった。
――お前と共にある。
わたしは、励ましてくれる仲間への感謝で、目を閉じていた。
「アリシア……許してくれるか?」
「はい、もちろんです。殿下……どうか、お直り下さい」
「ここに、座ろう」
わたしは、殿下に誘われて、彼の隣に腰を落とす。
二人で、湖を前に並んだ。
「皆から、訊かれた。それで、君にもちゃんと話していないと思ったんだ」
「……何を、ですか?」
「俺が、君を好きになった時のことを」
「……」
「一年前の……五ヵ国半島の時……撤退戦を、今でも覚えている」
「……殿下がご無事で、ようございました」
「アリシアが、いてくれたからだ」
殿下は、あの時に……。
わたしは、当時のことを思いだした。
一年前、五ヵ国半島での撤退戦。
悪天候と敵の奇襲によって、帝国軍は分断された。本営まで襲われ、わたしは殿下を守りながら、味方のもとへ撤退した。
あの戦いでは、多くの人が傷ついた。
わたしが記憶を脳裏に描いていると、隣の殿下が、わたしの髪に指で触れた。
それでわたしは、殿下を見る。
殿下の顔が、すぐそこにあった。
「君は、撤退戦が終わった後……怪我をした人たちを治療しようと……疲れていたのに医療班を手伝っていたね?」
え?
「腕を失った兵士を、君は励ましながら、血で顔がよごれても、医師を手伝っていた」
「……」
「他にも、重傷を負った者たちを励まして、治療を手伝い……死んでしまった兵たちを見送っていた」
わたしは、殿下から目をそらせない。
「俺は、ただ己の無策ぶりを呪い、挽回することだけを考えていた……そんな時に、傷ついた仲間を助けようとする君をみて……思ったんだ」
殿下は、わたしの頬に触れる。
わたしは、いつの間にか、涙を流していたと、殿下の指で拭われて、気づいた。
「傷ついた仲間を、助ける君は……美しかった。誰よりも、美しかった。あの日から、俺は君に、心を奪われたんだ、アリシア」
わたしは、目を閉じて、俯く。
怖くて、殿下の顔を見ることができない。
わたしは、怖いのだ。
美しいと言ってくれた殿下に、嫌われることが。
殿下に、魅かれていることを自覚した今、より強く、怖いと思った。
「アリシア……君を困らせることはわかっているんだ。だけど、無理なんだ……君を諦めることは、無理だ」
殿下が、わたしを抱きしめる。
わたしは、目を閉じたまま、動けなかった。
いや……動かなかった。




