8話 雲の上、山の下
「遠くなったって、どういうことだ?」
揺れる家の中で、解人はエマへ聞き返した。
「分かんないの。でも……深いところへ沈んでいくみたい」
「山の中じゃなくてか?」
「もっと下。声が、どんどん小さくなってる」
耳を澄ませるように目を閉じたが、やがてエマは不安そうに首を振った。
「呼べば、答えてくれるのか?」
「答えてくれたことはないの…エマがいっつも問いかけてるだけなの。だから、悲しいの…」
床板の下から、もう一度低い振動が伝わってきた。エマはびくりと肩を揺らし、表情に浮かぶ不安の色が濃くなる。
マハトは何も言わず、窓の向こうに見える山へ目を向けていた。顔はいつも通り無表情だが、あいつにも答えがないことだけは分かった。この短い期間であいつのことを理解できてきたのだろうか。
しばらくすると、地鳴りは止んだ。
*
二日後。
解人は家の扉を開け、眩しさに目を細めた。雲一つない空から、朝の日差しが強く降り注いでいる。
「うわ……生き返る」
脇腹にはまだ鈍い痛みが残っていたが、歩く分には問題ない。
傷の手当てをしてくれたリナには感謝しかない。よく知らない男に薬草を潰して傷へ塗り、包帯を替え、食事まで用意してくれた。
手当てのたびに「痛かったら言ってくださいね」と声をかけてくれたが、近い距離で顔を覗き込まれる方が落ち着かなかった。あれだけ世話を焼かれれば、最初に会ったときより気になるのも仕方がない。
ただ、リナ自身はほとんど眠っていなかったようだ。解人の世話が終われば母親の寝台へ戻り、合間に家事まで済ませている。それでも疲れた顔を見せようとしなかった。
一方、元気を取り戻したエマは、暇さえあればマハトを外へ連れ出していた。初日は木の実探し。二日目はかくれんぼ。昨夜戻ってきたマハトは、植怪物に追われたときより疲れた顔をしていた。
「マハトーーー!今日は何する〜?」
庭先からエマの元気な声が聞こえた。家の陰にいたマハトの肩がわずかに揺れた。
「……身体を動かさない遊びはないのか」
「あるよ。お昼寝!!!」
「…………それにしよう……」
マハトはしぶしぶ答えた。それがマハトなりの精一杯の優しさなのだろう。
解人は笑いを堪えながら、村の中へ歩き出した。
二日前の揺れで、村にも多少の被害が出ていた。柵を直す男たち、割れた食器を片づける女たち。それでも怒鳴り声や泣き声はなく、皆が手慣れた様子で互いの家を行き来して支え合っていた。
百人ほどしかいない村だからこそ、誰の家に何が足りないかまで分かっているのだろう。
明るい場所で見ると、村人たちの服には共通するものがあった。
肩や胸元、腰帯。場所はそれぞれ違うが、誰もが色のついた石を一つ身につけている。赤、青、黄、紫。どれも宝石のように輝いている。
リナの肩布についていた青い石も、エマの腰に結ばれた紫の石も同じものらしい。
「そういや、なんでみんな宝石みたいなのつけてるんだ?」
近くで籠を編んでいた老人が顔を上げて、答えてくれた。
「光石のことか」
「光石?」
「あの山の入口辺りで、まれに見つかる石じゃ。わしらは空からの恵みと呼んでいる」
「空から落ちてくるのか?」
「落ちるところを見た者はおらん。気づけば転がっておる。数も少ないから、親から子へ受け継ぐんじゃ」
「じゃあ、売ったりはしないのか?」
「値をつけるようなものではないからの。家族が生きてきた証みたいなもんじゃ」
老人の胸元にも、角の欠けた緑色の石が縫いつけられていた。きれいに磨かれてはいない。それでも、何度も布を替えながら大切に残されてきたことは分かった。
解人は空を見上げ、この世界へ来たときの、あの雲の上に浮かんでいた煌びやかな建物を思い出す。
「空からね……あそこかな…」
「なんじゃ、何か知っているのか?」
老人の言葉を、重い音が遮った。
見ると、広場の端で一人の男が、地震で倒れたらしい石碑へ手をかけていた。解人より頭一つ以上大きく、肩幅も倍近くある。日に焼けた太い腕へ力を込めると、数人がかりでも動かせそうにない石碑を、軽く持ち上げる。
「よっ……と!」
男は石碑を元の穴へ戻し、満足そうに腰へ手を当てた。片方の肩を覆う厚い布に縫いつけられた琥珀色の光石が陽光を反射していた。
「相変わらず馬鹿力じゃな、トルガ」
「馬鹿は余計だろ、じいさん」
トルガと呼ばれた男が解人に気づき、大きな口で笑った。
「お前が森から転がってきた兄ちゃんか。もう歩いて平気なのか?」
「まあ、なんとか」
「そりゃよかった。リナがずっと看てたからな。あいつ、今日はどこにいる?」
「怪我人より先にリナの居場所か」
「ち、違うって。ついでに聞いただけだ!」
トルガは分かりやすく視線を逸らした。どうやら、隠し事は下手らしい。
「まあ、山で困ったことがあれば俺に言え。村で一番山を歩いてるからな」
「さっきの石碑を持ち上げられるなら、道より荷物を頼みたいけどな…」
「任せろ。お前くらいなら片手で投げ飛ばせるぞ!ガハハハハ」
「その状況にはなりたくないな…」
明るく、力自慢で、少しだけ調子がいい。石碑を軽々と戻す腕に、腹の底から出る笑い声。暑苦しい男だが、頼りにはなりそうだ。
起こされた石碑の表には、一つの街が彫られていた。山の上。そのさらに高い空へ、いくつもの塔を持つ島が浮かんでいる。
「それって……」
「空中都市グロリアじゃ」
老人が石碑についた土を手で払った。
「あの山の頂よりも高い空に、光が交差するほど眩しく、豪華な街が浮かんでいる。あの山を越えたところには、どんな病も癒やす薬草が生えている――どちらも古くから、この村へ伝わる話じゃ」
「薬草を取りに行った人はいないのか?」
「霧が濃く、道も複雑で迷いやすい。入った者の多くは戻らず、戻った者も入口近くまでしか覚えておらんよ」
「この山、名前はないのか」
「ない。わしらは、あれを呼ばん」
「その街を、本当に見た人はいるのか?」
「わしの知る限りでは、一人だけじゃ。山頂まで登り、生きて戻った者がおる」
老人の目が、トルガへ向く。
「こやつの父親じゃ」
「親父が?いやいや、そんなわけねぇだろ」
先ほどまで笑っていたトルガの顔から、表情が消えた。
「山を越えることはできなんだ。山頂から先へは進めず、傷だらけで戻ってきた。それでも、雲の上に浮かぶ光り輝く街を見たと言っておった」
「そんな話、俺は聞いてないぞ」
「空が近かった、とは言っておったじゃろう」
「子どもの頃の俺に、それだけだ。山には近づくなって、いつも怒ってた」
「お前が後を追うと思ったんじゃろう」
トルガは反論しかけ、口を閉じた。
「他には何か見たのか?」
いつの間にか、マハトが隣に立っている。
「山の向こうに、巨大な人間の背中を見たそうじゃ」
「人間?」
「岩山と見紛うほどの、な」
解人とマハトは顔を見合わせた。
――ノアム。
その名を口にしかけたとき、家の方からエマが走ってきた。
「お母さんが……!」
急いで家へ戻ると、リナの母親は寝台の上で苦しそうに息をしていた。額には汗が滲み、明らかに顔色が悪くなっている。リナは、何度も濡れた布を取り替えながら看病していた。
「母さん、分かる?私よ」
呼びかけに答える代わりに、細い咳が続いた。母親の唇の端に赤いものが滲み、リナは慌てて布で拭う。
「薬が、効かなくなってる……」
震える声でそう言い、リナは目を伏せた。
夕方になっても、母親の熱は下がらなかった。
解人は家の外へ出て、雲に覆われた山を見上げた。
「山へ入る」
「薬草のためか?」
「それだけじゃない。空中都市と巨人もだ。それに、欠片があるかもしれない。すべてがあの山につながっているんだ」
危険は承知の上だ。
森の入口でさえ、何度も死にかけた。けれど、自分を助けてくれたリナが、今度は母親の手を握ることしかできずにいる。
それに、山の下へ沈んだというノアムの声も気になった。巨大な人間を見たという話が本当なら、空中都市だけでなく、この大地そのものに何かが隠されている。
――不謹慎なのは分かっている。
それでも、雲の上の都市と岩山ほどの巨人。その正体を自分の目で確かめられると思うと、少しわくわくしていた。
マハトが横目で解人を見た。
「本気なんだな」
「ああ」
「なら、明日の朝に出る」
夕日が、あの山の稜線へゆっくりと沈んでいく。




