9話 名なし
解人は家の前で荷を背負い直した。リナが用意してくれた干し肉と、水を入れた革袋。包帯を巻いた脇腹は、深く息を吸うとまだ鈍く痛む。
「わたしも、行く」
戸口をふさぐように、エマが立っていた。
「……は?」
「山、わたしも行く」
リナの手から布巾が滑り落ち、表情が強張った。
「エマ、何を言い出すの!」
「お母さんの薬草、探しに行くんでしょ。だったらわたしも探す」
「だめに決まってるでしょう。危ないのは、あなたも分かってるはずよ」
「分かってる…分かってるけど」
エマは一歩も引かない。すでに決意を固めた顔だった。
「それでも、行く」
リナが膝をついて、エマの両肩を掴んだ。叱るほど、声が静かになる怒り方だった。
「お母さんが、あなたまでいなくなったらって心配するだけよ」
「お母さんのために行くのに…」
「エマ……」
リナは一瞬、言葉に詰まった。
「前にも、一人で入口まで行こうとしたでしょう」
「……見てたの」
「見てたわよ、当然」
リナは深く息を吐いた。怒りの色が、顔から抜けていくのが分かった。
――割って入れる言葉を、俺は持っていなかった。マハトも黙って成り行きを見ている。
しばらくして、解人が口を開いた。
「――待てよ。俺に、考えがある」
*
解人が向かったのは、村の外れの薪割り場だった。
トルガは案の定そこにいた。斧を振り下ろすたび、丸太が乾いた音を立てて割れる。
「トルガ!」
「おう、どうした兄ちゃん」
「頼みがある。俺たちと山へ一緒に来てくれないか」
「は?」
トルガは斧を下ろし、怪訝な顔をした。
「俺は麓の様子見ぐらいしかしたことねぇぞ」
「エマが、どうしても行くって聞かなくて」
「エマが?」
「大人が一人でも多く一緒じゃないと危なすぎる。リナも、それなら少しは安心するはずだからさ」
リナの名前を出した瞬間、トルガの顔に、見て分かるほどの動揺が走った。
「……リナが、心配してるのか」
「してるだろうな、間違いなく…」
トルガはしばらく丸太を見下ろし、それから斧を担ぎ直した。
「……仕方ねぇな。俺が付いてりゃ、心配もいくらか減るだろ」
「頼めるか」
「言っとくが、リナのためじゃねぇぞ」
「一言も言ってないよ」
「思っただろ、今」
「……」
面白い男だ。そして、単純だ。
*
家の前に戻ると、装備を担いだトルガを見て、リナが目を丸くした。
「トルガ……どうして」
「解人の兄ちゃんに頼まれてな。一緒に山に行くことになったんだ。エマも心配だしさ」
リナは一瞬固まり、それからトルガへ駆け寄ってハグをした。
「ありがとう、トルガ。エマのこと、お願いね」
「お、おう。……別に、大したことじゃねぇよ」
トルガの声が急に上ずった。当然、顔は朝焼けより赤かった。
「そ、それより早く行くぞ!日が高くなる前にな!」
誤魔化すように大股で歩き出すトルガを見て、エマが小さく笑った。今朝、初めて見せた表情だった。
「行くぞーー!!」
「……騒がしい男だな」
マハトが小さくつぶやいた。
「お前とは正反対だな。静かすぎるのも考えものだぞ、番人さんよ」
解人が最後に戸口を離れようとしたとき、後ろから小さく名を呼ばれた。リナだった。
それきり何も言わずに、肩布から青い石を外している。解いた紐ごと、解人の手のひらへ載せた。
「……これ、リナさんの」
「お願いします」
それだけだった。リナは頭を下げて、家の中へ戻っていく。解人は石を握ったまま、しばらく戸口に立っていた。何を託されたのかは、分からなかった。石は、見た目より重かった。
*
森へ入って半日、道はまだ道の形をしていた。
トルガは迷いなく進む。倒木を跨ぐ場所、岩を巻く場所、どれも身体が覚えていて、見ていて頼りになる。
「こんなに険しかったか」
「こっちの方が近道だ。じき慣れる」
「エマ、疲れてないか」
「平気」
言葉とは裏腹に、エマの足取りは少しずつ重くなっていた。それでも誰にも気づかれないよう、歩幅だけは崩さなかった。
途中、トルガが斜面の岩陰へ屈み込み、灰緑色の苔を手のひらでこそげ取って荷へ詰めた。
「それ、なんで集めてるんだ?」
「敷くんだ。寝るときに」
トルガは苔をエマの手へ押しつけた。
「わ、あったかい」
解人も指先で触れた。驚くほど温かい。日の当たらない岩陰にあったのに、人が今どいたばかりの毛布のような熱を持っている。
「村じゃ置き苔って呼ぶ。人が乗ると、その熱をしばらく預かるんだ」
「しばらくって、どんくらい」
「三日は持つな」
エマは手のひらの苔を見下ろした。
温かさは放っておけば冷めるものだと、解人は思っていた。この山では、そうではないらしい。
*
前方の空気が、不意に白く濁った。何もなかった場所に湧き、数十歩先の木が、輪郭から順に溶けていく。
「霧だ」
トルガが足を止め、荷を下ろした。声から、さっきまでの軽さが消えていた。
「座れ。動くなよ。理由は聞くな、いいから従え」
解人もエマも、黙って腰を下ろした。
霧が四度目に濃くなったとき――いや、数えていたわけではない。だが解人の右腕の奥が、久しぶりに疼いた。
波ではない。もっと短い、何かを引っかくような震え方だった。
「解人」
誰の声でもなかった。強いて言えば、聞き覚えのある響きを寄せ集めて、いちばん近い形へ組み直したような声だった。反射的に振り向きかけて、身体が止まる。
――待て。
この感覚を、解人は知っていた。壊れた町の商店街で、高瀬美波が最後に言った言葉。私の声で呼ばれても、振り向かないで。
「トルガ、動くな」
「言われなくても動かねぇ」
トルガの声が震えていた。石碑を軽々と持ち上げた男と、同じ人間とは思えない。
「返事しちゃならねぇ。絶対にだ」
「なんで」
「知らねぇ。ただ、返事したやつは帰ってこねぇ」
霧の向こうに、輪郭が現れた。
人の形をしているが、膝をついたまま動かない。腕は細く、垂れたきり揺れもしない。顔にあたる部分には、目も鼻も口もない。ただ、喉だけがあった。
首から胸にかけての部分だけが、不釣り合いに太い。皮膚の下で何かが上下し、そこから声が出ていた。
「解人」
名前を呼ぶたび、それはわずかに首を傾ける。返事を待っている。
解人は歯を食いしばった。返事をしたら終わりだ。考えるより先に、身体が分かっていた。
だが、しばらくすると、声の質が変わった。
「エマ」
息を呑む音が、隣から聞こえた。
「エマ」
同じ高さ、同じ間隔。名前が変わっただけで、何もかもが先ほどと同じだった。
解人が横を見ると、エマの唇が薄く開きかけていた。返事をする形に。
解人はとっさにエマの手を強く握った。
「答えるな」
「でも」
エマの声は掠れていた。
「いつも、そうしてるから。呼ばれたら、返事しなさいって」
その一言で、解人は理解した。エマが毎日、山へ向かって何をしてきたのか。返事のない山へ、それでも呼び続けてきたこと。今、初めて逆の立場に立って、身体が覚えたとおりに応えようとしたこと。
「エマ、それは駄目だ。それだけは」
エマは唇を噛み、握られた手を握り返した。答えなかった。
霧の中の影は、なおも同じ調子で名を呼び続けた。「解人」「エマ」「解人」――返事のないまま、声は少しずつ細くなっていく。膝をついた影は、地面へ沈むように輪郭を失っていった。
最後の声が消えたとき、右腕の震えも止まった。
解人は袖をまくったが、腕には何もない。――こいつが鳴るのは、壊れてる場所の近くだけだ。
だとしたら、さっきのあれは。
*
霧が完全に引いたあと、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に立ち上がったのはトルガだった。荷を担ぎ直す手が、まだ小刻みに震えている。
「行くぞ。次の霧まで、そう長くねぇ」
「トルガ。あれ、何なんだ」
「知らねぇって言っただろ」
トルガは前を向いたまま答えた。
「村じゃ、名なしって呼んでる」
エマはまだ、自分の手のひらを見下ろしていた。
「わたし、いつも同じことしてた」
ほとんど、独り言に近い。
「山に向かって、毎日、名前呼んで。一回も、返事なかったのに」
解人は何も言えなかった。答えの返らない相手へ、同じ調子で、何度も名前を呼ぶ。エマがずっとやってきたことと、霧の中のあれは、同じだった。
「呼ばれてる方は、何なんだ」
解人はつぶやいた。霧の切れ間から、まだ遥かに高い山頂が見えている。エマの声が届いていると信じている場所は、あの向こうだ。
「解人。エマ。遅れるぞ」
マハトの声に、二人は歩き出した。




