10話 山の脈
目を覚ますと、背中がまだ温かかった。
昨日トルガが集めた置き苔が、寝ている間中熱を返し続けていたらしい。解人は身体を起こし、脇腹の包帯を押さえた。痛みは、村を出たときよりいくらか引いている。木々の間から差す光は薄く、村で見ていたものより青白かった。
「起きたか。今日中に尾根の下までは行けるぞ」
トルガはもう荷をまとめ終えていた。焚き火の跡を土で埋め、鍋を布で拭いている。昨日の震えた声とは、別人の手際だった。
エマは少し離れた岩に座り、膝を抱えていた。
「エマ、眠れたか」
「うん…」
返事は元気がなく、それきりだった。昨日、霧の中で名前を呼ばれてから、この子はほとんど喋っていない。
マハトは立ったまま、自分の両手を眺めていた。指を開き、閉じ、また開く。手袋のない指先だった。
「まだ使えないのか」
「紋様が焼けている。これでは触れても、理は掴めん」
「治るのか?」
「知らん」
それだけ言って、マハトは裾を払って歩き出した。聞くな、ということらしい。
*
登り始めてしばらくして、解人は妙なことに気づいた。
斜面がきつくなり、手をついて登る場面が増えた。その岩が、どれも温かい。最初は日が当たっているからだと思ったが、木の影に入った岩も、北を向いた岩肌も、同じように温い。置き苔に似た、人肌へ近い熱だった。
「なあ、この岩、あったかくないか」
「そりゃ、朝日が……」
トルガが言いかけて、日陰の岩へ手をついた。そのまま、しばらく黙る。
「……なんだこれ」
マハトが屈み込んだ。手袋のない手を、地面へ押し当てる。目を閉じたまま、長く動かなかった。
「脈がある」
「……は?」
「一定の間隔で、下から上がってくる。岩が動いているのではない。中を通っているものがある」
解人は自分の手のひらを見た。言われてみれば、温かさだけではなかった。ごく弱く、押し返されるような感触が、たしかにあった。
「山ってのは、そういうもんだ。山は、生きてるって聞かないか」
トルガはそう言って、先に歩き出す。本気でそう思っている顔だった。
――生まれたときから、こいつはこの山の隣で暮らしてる。
温かい岩も、置き苔も、村の人間には当たり前なのだ。おかしいと思えるのは、よそ者の俺だけか。
道の脇、木の根が地面から浮いていた。太い根の一本が、ゆっくりと位置を変える。まるで寝返りを打つように。
「うわっ」
エマが解人の袖を掴んだ。
「動いてる……木なのに」
「気持ち悪ぃな……」
解人も半歩、後ろへ下がる。気持ち悪いものは気持ち悪い。
トルガはちらりと見ただけで、気にする素振りもなく通り過ぎていく。マハトは、根の上から無造作に踏みつけた。
「ふん」
根は短く痙攣し、それきり動かなくなる。踏まれた形のまま、静かに凹んでいるだけだった。
*
昼を過ぎて、道の傾きがさらに増した。
エマの足取りが落ちたのは、誰の目にも明らかだった。歩幅は崩さないのに、一歩ごとの間が長くなる。前を行くトルガとの距離が、じわじわと開いていく。
「エマ、休むか」
「平気」
「顔、白いぞ」
「平気だってば、解人兄ちゃんも、汗すごいよ」
トルガが荷を下ろして振り返った。
「よし、俺が担ぐ。ほら来い」
「やだ」
「遠慮すんな」
「子ども扱いしないで!」
声が跳ねた。トルガが分かりやすく固まる。
――俺が担いでもらいたいぐらいだ。
自分から言い出して付いてきた以上、運ばれるわけにはいかない。荷物になった時点で負けだ。子どもにも、そういう意地がある。
解人はしゃがんで、背中をエマへ向けた。
「じゃあ荷物な」
「……え?」
「トルガの荷が重すぎるから、俺が代わりに何か持つ。ちょうどそこに荷物がある」
「わたし、荷物じゃない」
「言い張るなら歩け。日が暮れる」
エマは動かなかった。解人の背中ではなく、その脇腹に巻かれた布を見ている。
「解人兄ちゃん、怪我してる」
「もう治った」
「嘘」
言い返せなかった。
そのとき、横から伸びた手が、エマの襟首を摘まみ上げた。子猫でも持ち上げるような手つきで、そのまま自分の背へ回す。
「マ、マハト?」
マハトは答えない。膝の裏へ腕を通し、位置を直し、そのまま歩き出した。
「ちょっと、下ろして!」
「落ちるぞ」
「下ろしてって言ってるの!」
「私は子ども扱いをしていない。荷が重いのは事実だ。運ぶだけだ」
エマは口をつぐんだ。
トルガが口を半分開けたまま、解人と顔を見合わせた。
「……なあ。あの人、ああいうことすんのか」
「知らねぇよ。俺も初めて見た。まぁ、まだ付き合いは短いけどな…」
黒いコートの背に、小さな身体がしがみついている。
斜面がきつくなっても、背中の重みなど最初からなかったような足取りだった。そのうち、エマの手から力が抜けた。眠ったらしい。
解人は岩へ手をついて、その後を追った。手のひらに、あの脈が伝わってくる。ゆっくりで、深い。
顔を上げると、少し先にマハトの背中があった。そこへ預けられたエマの背が、呼吸に合わせて小さく上下している。
速さも強さも比べものにならない。それでも、同じ種類のものだという気がした。
――生きてるやつの音だ、これ。
*
道が二つに分かれた。右は緩やかで、左は岩がむき出しになっている。トルガは足を止めもせず、右へ入った。
十分ほど進んで、道は崖で終わった。
「……嘘だろ」
引き返して、左を選ぶ。今度は少し長く歩けたが、辿り着いたのは苔むした岩壁で、越えられそうな高さではない。
「おかしいな。ここは通ったことがあるはずだ」
トルガの声から、余裕が抜けていた。斧を担いでいたときの大きさが、急に半分になったように見える。
マハトは崖の縁まで行って下を覗き、それから来た道を振り返った。
「道は変わっていない」
「なら、俺が忘れてるってことか」
「それも違う」
マハトはそこで言葉を切った。
「……なんだよ、はっきり言えよ」
「はっきり言えることがない。だから言わない」
番人ってのは、みんなこうなのか。道が消えたなら消えたまま、押し返そうともしない。こんなに適当で番人が務まるなら、名前負けだ。他の番人に会ってみたい。
……いや、こいつだけが適当なんだろうな、たぶん。
*
来た道を戻り、最初の分かれ道よりも手前で、見落としていた枝道へ入った。そこからは分かれるたびに立ち止まることになり、三つ目の分かれ道に出たときには、日が傾き始めていた。トルガは道の前で足を止めたまま、汗を顔中から垂らしている。どちらを選んでも外す気がする、という顔だった。
「……こっちかな…」
声は、マハトの背中からした。いつの間にか目を覚ましていたらしい。エマが顔を上げ、腕を伸ばして左を指している。
「エマ?」
「そっちじゃなくて。こっち」
「山の声でも聞こえたのか?」
「ううん。声じゃない」
「じゃあ何だよ」
「わかんない。……引っ張られる感じ」
当てにならない答えだが、エマ自身も困った顔をしている。思いつきで言っている顔ではなかった。
「おい、こんな……」
トルガが言いかけたのを、マハトが遮った。
「従え」
「は?」
「この子の言うとおりに進め」
「なんでだよ!根拠は?」
「私の勘より、当たる見込みが高い」
「――……」
マハトの抑揚は、いつもと変わらなかった。
トルガが黙り込む。解人も少し驚いていた。この男が自分より他人を上へ置く言い方をするのを、初めて聞いた気がする。
*
左の道は、細く、暗かった。
だが半刻も行かないうちに木々が切れ、尾根の下へ回り込む斜面が真っ直ぐ上へ伸びていた。トルガが「ここだ」と呟く。探していた道だった。
誰も、なぜエマに分かったのかを聞かなかった。答えを聞くのが、少し怖かった。
斜面を登り出して間もなく、前を行くマハトが足を止めた。理由が分からず、解人も止まる。
その背で、エマの腕に力がこもっていた。爪が黒い布へ食い込み、小さな身体が強張っている。
「エマ?」
返事がない。
「どうした。降りるか」
「……ここ、痛い」
解人はマハトの横へ回り込んだ。
「どこが痛いんだ。頭か、腹か」
「わたしじゃない」
エマの手が、マハトの肩の上から下を指した。
足元。踏みしめている地面。温かく、ゆっくりと脈打っている場所。
「ここが、痛いって言ってる」




