11話 山の先客
結局、その日はそれ以上進まなかった。
エマが地面を指してから、マハトは黙って斜面を少し戻り、風の当たらない岩陰へ荷を下ろした。トルガも何も聞かずに火の支度を始めた。
置き苔を敷き、火を挟んで座る。標高が上がったぶん、空気は村より薄く、冷たい。
「痛いって、どういうことだと思う」
「知らねぇよ。俺は山に聞いたことなんざねぇ」
トルガは枝を折りながら荒々しく返した。
エマは布にくるまって火を見ている。担がれている間に眠ったせいか、目だけは冴えていた。
「ねえ、解人兄ちゃん」
「ん」
「痛いって言ってるのに、なんで登るの」
答えに詰まった。
「……登らないと、お前の母ちゃんの薬がない」
「うん」
「納得してねぇだろ」
「してない」
正直な子だ。だいたい、俺だって納得していない。
火が爆ぜた。解人は話を変えることにした。
「トルガ。お前、リナに何か言ってきたのか」
「は?」
「出るとき。あんだけ抱きつかれといて、何も言わなかっただろ」
「……うるせぇな」
「言えよ。帰ったら」
「……帰ったらな」
トルガはそれきり黙って、鍋の湯を見ていた。耳だけが赤い。
マハトは輪から少し離れて、岩に背を預けている。この数日、寝ているところを一度も見ていない。
*
翌朝、霧はなかった。その代わり、森の匂いが変わっていた。
「解人」
マハトの声がいつもより低い。
「走れるか」
「なんで」
「後ろだ」
振り返って、息が止まった。斜面の下、木々の隙間という隙間に、白く鋭い目がこちらを見ていた。
数えるのをやめたくなる数だ。あの匂いは、こいつらか。
「走れ!!」
トルガが荷を掴んで駆け出す。マハトはエマを背へ括り直し、解人の襟を掴んで引いた。
「うわっ」
突然の力に、解人の声が裏返った。
斜面を横切って走る。蔓が足首を掠め、根が地面から跳ね上がる。速くはない。が、数が多すぎる。囲まれれば終わりだ。
視界の端に、赤い丸いものが見えた。太い枝から下がる、桃に似た可愛らしい実だ。あの森で見たものと同じだろうか。
――あれでも、投げてみるか。
解人は走りながら手を伸ばし、もぎ取った。手のひらの中で、何かが千切れる感触があった。
『いたいよ』
幼い声が手の中で泣いた。二回目でも慣れないな。
「悪い!」
振り返りざま、いちばん近い一体へ思いっきり投げつけた。
『うわ〜、やめてよ〜』
縦に裂けた口が、飛んできたものを反射的に咥え、そのまま呑み込む。
その一体だけが、止まった。口を開けたまま動かない。無数の目が、ばらばらに違う方向に向いた。追い越しかけていた仲間たちも、つられたように一体、また一体と動きを止めていく。
そして、喉の奥から聞き慣れた響きが漏れてきた。
「……あ、あかん」
解人は足を止め、もう一度、耳を澄ました。
「え?」
「……アカン。しんど。えらいわぁ…」
膝にあたる関節へ蔓を突いて、その植怪物は肩で息をしている。ように見えた。肩はないが。
「なんで関西弁なんだよ!」
「知らんがな」
「知らんがなって言った!こいつ今、知らんがなって言ったぞ!」
トルガが数歩先で振り返り、斧を下げたまま固まっている。
「……なあ兄ちゃん。あれ、喋ってるか」
「喋ってる。山って、そういうこともあんのか」
「あるわけねぇだろ!っていうか、そのカンサイベンってのは、そもそも何なんだよ!」
マハトだけが足を止めていなかった。
「……くだらん」
言葉はそれだけだった。だが通り過ぎざま、口の端が少しだけ上がっていた。
喋り出した一体は、追ってこなかった。他の個体も、そのまま動かない。仲間の異変に気を取られたのか、別の理由があるのか。どちらにしても、助かった。
エマが、マハトの背で身を起こした。
「……来る」
「植怪物ならもう止ま……」
「ちがう…」
エマの声が固かった。
「地面が、はやい」
解人は膝をついて、地面へ手のひらを当てた。
脈があった。昨日と同じ、深くてゆっくりしたやつだ。だがその上に、別の震えが重なっている。速いし、近い。刻むように、間隔がどんどん詰まってくる。
――足音だ。
斜面の上から、それは来た。
四つ足。馬ほどの大きさ。毛は一本もなく、濡れた土の色をした皮膚が骨の形をそのまま浮かせている。異様なのは顔だった。目も鼻もなく、顔の前面が丸ごと深く窪んで、その奥が細かく震えている。
声を出さない。走る音だけが、山を強く叩いていた。
「散れ!」
マハトが叫んだ。今までで一番大きな声だった。解人は横へ跳ぶ。直後、さっきまで立っていた場所を、土色の塊が薙いでいった。木が一本、根元から折れる。
速い。あの植怪物とは何もかも違う。
「兄ちゃん、こっちだ!」
トルガが左の岩場を指していた。斜面に亀裂が走り、岩と岩が重なって影を作っている。獣が身をひねり、また加速した。
マハトが杖を地面へ突き立てた。白い曼荼羅が広がり、輪が互い違いに回る。落ち葉と小石が宙で止まった。踏み込んだ獣の前脚が、水の中へ入れたように鈍る。一瞬だけだった。
「保たん。走れ」
*
岩と岩の裂け目は、人が横向きになってようやく通れる幅だった。トルガが先に身体をねじ込み、解人が続く。マハトはエマを先に押し込んでから、最後に入った。
背後で、重いものが岩へぶつかる音がした。獣は入ってこなかった。入り口の前で、顔の窪みをこちらへ向けたまま、じっと震わせている。それからしばらくして、興味を失ったように離れていった。
裂け目の奥は、思ったより広かった。四人が座れるほどの空間があり、天井の隙間から光が細く落ちている。
「ふぅー、危なかったなー」
トルガの声だけは軽かった。膝は笑ったまま止まらず、本人だけが気づいていない。笑顔の下半分と上半分が、まるで別人のものだった。
「ん?なんだこれ」
「人の気配……?」
解人が指した先を、トルガが覗き込む。
組まれたままの焚き火の石。乾いた草を編んだ寝床。壁際には、木の皮を剥いで作った容れ物がいくつも並んでいる。どれも古いが、埃はかぶっていない。
「……誰か、住んでるのか」
「住んでるっつーか」
トルガが光の落ちる場所まで進んで、言葉を切った。奥の岩壁に、文字が彫られていた。
縦に、びっしりと。何十行もある。上のほうは風化して読めないが、下へ行くほど新しく、いちばん下の一行は、彫られてまだ日が浅いように見える。
「名前だ」
マハトが言った。
「全部、人の名前だ」
「読めるのか」
「番人は、どの土地の文字でも読める」
解人の目には、ただ引っかき傷が並んでいるようにしか見えなかった。
トルガは、壁を見て動かなくなっていた。
「トルガ」
返事がない。
「トルガ。どうした」
そのとき、奥の暗がりから重くゆったりとした声がした。
「……客か」
暗がりの奥で、何かが動いた。
「人に会うのは、何十年ぶりだ」




