12話 振り返るな
乾いて掠れているのに、はっきりと届く声だった。
「人に会うのは、何十年ぶりだ」
暗がりから出てきたのは、痩せた男だった。歳は分からない。白いものの交じった髪は肩の下まで伸び、山の獣の皮を縫い合わせた衣を着ている。骨ばった身体つきのわりに、足取りはしっかりしていた。目だけが、思っていたより静かだった。
「動くな」
マハトが解人たちの前へ出て、剣の柄に手を掛けた。
「そう構えるな。ここまで転がり込んできたやつを、殺しはしない」
男は、両手を軽く上げてみせた。
「下ろせ、マハト」
解人が言うと、マハトは剣から手をそっと離した。それでも、柄からは指を完全には放さない。
「油断しているわけじゃない」
「分かってる」
エマだけは、まだ何も言わずに男を見ていた。探るような目だった。トルガは荷を抱えたまま、じりじりと壁際まで下がっている。
「俺の名はダリオだ。この山に、長く住んでる者だ」
「長くって、どれくらいだ」
「……ん?数えるのはやめた。数えると、余計に長く感じるんだ」
短い答えに、諦めが混じっていた。トルガが何か言いかけて、口を閉じた。
*
ダリオは慣れた手つきで焚き火を熾し、干した山の実と湯を分けてくれた。木の実を煮出した茶は渋いが、身体の芯まで温まる。四人が座ると、岩室はちょうど埋まった。
「壁の名前、誰が彫ったんだ」
解人が訊くと、ダリオの手がわずかに止まった。
「上の方は、俺じゃない」
「え」
「俺がここに転がり込んだときには、もう彫ってあった。誰が始めたのかも、いつからなのかも知らん。上へ行くほど風化して、今はもう読めん」
ダリオは炎の向こうの壁へ目をやった。
「それで、あんたも彫るようになったのか」
「そういうことだ。俺が見つけた分だけ、下へ足していった。……そうしないと、拾ってきたものを置く場所がなくてな」
「弔ってるのか」
「弔いって言えるほど、立派なもんじゃない。ただ、忘れないようにしてるだけだ。忘れたら、それこそ本当にいなかったことになる気がしてな」
解人は改めて壁を見上げた。火の明かりに照らされた無数の刻み目は、遠目には模様のようにも見える。だが近づくほど、一本一本が違う筆致で、違う深さで彫られているのが分かった。ダリオより前の誰かがいて、そのまた前にも誰かがいた。
トルガが立ち上がり、壁へ近づいた。いちばん下の新しい一行から、指で上へなぞっていく。風化して読めなくなる高さまで、何十行もある。その途中で、指がぴたりと止まった。
「……これは」
声が硬い。
「これ、どっかで見た並びだ……いや、見たことあるとかじゃなくて」
トルガは彫られた一つの名を、何度も指でなぞり返している。
「オルド。これ、親父の名前だ。なんでここに……」
ダリオの顔から、表情がすっと抜け落ちた。
「見間違いじゃないのか?」
「本当だ、親父の名前を間違えるわけない」
トルガの声が裏返った。
「なんで、親父の名前がここに彫られてんだよ。しかも、もう何年も前みたいに古い彫り方で」
「……お前、まさか」
ダリオの唇が震えた。声を出す前に、何度も息を吸い直しているのが分かる。
「お前、オルドの・・・息子なのか?」
「親父は、生きて村にいる。今も元気だ。酒は相変わらずだけどな」
トルガが言い切った瞬間、ダリオはその場に膝から崩れた。両手で顔を覆い、しばらく声にならない音だけを漏らしていた。肩が、抑えきれずに震えている。
「……生きて、たのか」
「当たり前だろ、何言って――」
「俺は、ずっと!!・・・てっきり、死んだと……」
ダリオの目から焦点が抜けた。こっちを見ていない。
「あの日、俺たち十人以上いた探索隊は、村が出した初めての一団だった」
「霧の中で、足元の岩が急に熱くなった。何かが軋んで、誰かが叫んで、隣にいたやつが引きずり込まれた。何にやられたのか、誰にも見えなかった。見えたのは、人が減っていくことだけだ。音も、姿も、うまく思い出せない。ただ、地面ごと持っていかれるみたいだった」
言葉がそこで一度、途切れる。
「今、いくつなんだ」
解人が訊いた。このまま喋らせておくと、戻ってこない気がした。
「あの日、俺たちは二十歳そこそこだった。今はもう、数えたくもない」
「オルドは」
「あいつの方が五つほど上だった。若い者が多い一団だったんだ」
短く答えると、ダリオはまた目を伏せた。誰も急かさなかった。
「オルドが俺の腕を掴んで、怒鳴った。走れ、振り返るな、って……」
「……」
「一番歳が近くて、いちばん可愛がってくれたのがオルドだった。弟みたいに扱われて、俺も甘えてた。だから、あいつの言うことだけは、迷わず聞いたんだ」
その一言で、トルガの顔つきが変わった。
「……聞いたことあるぞ」
掠れた声だった。
「親父が、酔ったときだけよく言ってたんだ。昔、弟みたいに可愛がってたやつがいたって。名前までは一度も言わなかったけど、その話をするときだけ、いつもすぐ黙るから覚えてる」
ダリオは答えない。
「あの日、俺だけ先に行かされた……。振り返るなって言われて、俺は本当に振り返らなかったんだ」
ダリオは自分の両手を見つめた。何年も山で使い込んだ、傷だらけの手だった。
「戻ったときには、誰もいなかった。血の跡と、荷物だけが散らばってた」
「それで、みんな死んだと思いこんでたのか」
「違う!俺は、事実だと思ってたんだ。二十年、ずっとそう思って生きてきた」
解人は黙った。トルガも、今度は口を挟まない。
「俺だけが、逃げたんだ。仲間を置いて……一人で生き延びて・・・それを抱えたまま村へ帰る資格なんて、俺にはなかったんだ」
ダリオの二十年と、自分の右腕にある町の時間。長さは比べものにならない。それでも、止まったままという一点だけは同じだと思った。
「――違うだろ」
気づいたら、口が開いていた。
「振り返るなって言ったの、トルガの親父なんだろ。それ、あんたを思って逃がしたってことじゃないのか」
「……分からない。あのときは、そんな余裕、誰にもなかったはずだ」
ダリオは首を振った。その先は考えたくない、という顔だった。
*
「山頂まで行くんだろう」
落ち着いてから、ダリオは低く訊いた。
「頂の向こう側に、何があるか知ってるのか」
「落ちてくるときに、ちらっと見た。空の街と、大きな人の背中みたいなやつだ」
「・・・落ちてきた??まぁ、いい。そこまで知ってるなら、止めても無駄か」
ダリオは短く息を吐き、山の情報を語り始めた。話し方は淡々としていたが、細部まで正確だった。二十年、歩いて覚えた道順だった。
「頂に、何がいるんだ」
それまで黙っていたマハトが、初めて口を挟んだ。ダリオの目が、一瞬だけ泳いだ。
「……分からん。分かってたら、二十年、ここで足踏みなんてしてない」
「知ってて言わないのと、本当に知らないの、目つきが違うぞ」
「どうとでも想像してくれ」
ダリオはそれ以上答えなかった。マハトも、それ以上は追わなかった。
「頂の少し手前まで、案内する」
「いいのか」
「どうせ、他にすることもない」
*
翌朝、四人はダリオと共に岩室を出た。トルガが先に顔を出し、しばらく外を窺った。あの獣の気配はない。空気が変わっている。地面の脈は、これまでより明らかに速い。触れた岩は、日陰でも人肌よりわずかに熱い。
「……近い」
エマが呟いた。声だけでなく、身体全体で何かを感じ取っているようだった。マハトが無言でエマの手を握った。
尾根沿いの道を、ダリオが先導する。斜面はさらに急になり、霧が濃くなってきた。会話は自然と減っていく。
「この先、崖沿いだ。落ちたら――」
ダリオが言いかけて、口をつぐんだ。
前方の崖一面に、灰色のものが無数に張りついていた。羽毛のない翼。剥き出しの骨に張られた、薄く濡れた膜。長い首を折り曲げ、身を寄せ合うようにして、びっしりと岩肌を埋めている。嫌になるほどの数だった。
風に乗って、細く高い声が聞こえてくる。遠くで誰かが泣いているような音だった。
「あれは……まずい、んじゃないか」
解人の問いに、ダリオの声が低くなった。
「泣き鳥だ。泣きながら、いきなり飛びかかってくる」
ダリオは慣れた口調で、その名を口にした。その瞬間、崖の一角がわずかに動いた。




