13話 泣き鳥の強襲
最初の一羽が、崖から剥がれた。
「来るぞ!」
ダリオの声より、羽音の方が早く動いた。
薄い膜が音を立てて張り、灰色の身体が空気を掴んで、まっすぐこちらへ突っ込んでくる。長い首が伸び、開いた嘴の奥から、細く高い声が引き伸ばされた。泣きながら、あの奇妙な鳥は飛んできた。
「伏せろ!」
マハトの剣が下から斜めに走った。首の付け根で骨の折れる音がして、灰色の塊が解人の頭上を越え、崖の下へ消えていく。落ちていく間も、声だけがずっと続いていた。斬られてまだ泣くのか。しつこい。
「ちょ、待て待て待て」
「待たん、死ぬぞ」
崖の一面が、いっせいに剥がれた。
視界が灰色で埋まる。膜を張った翼が空気を叩き、泣き声が重なって、耳の奥が痛くなるほどの音の壁になった。
「エマ、俺の後ろだ!」
「うん!」
「トルガ、右!」
「わかってる!」
トルガの斧が横に薙いだ。骨と膜が同時に潰れる、湿った音。一羽が岩肌へ叩きつけられ、痙攣したまま動かなくなる。
「うわ、きったねぇ!なんだこいつら、毛が一本もねぇぞ!」
「文句は後にしろ!」
解人はエマを岩壁側へ押し込みながら、足元を確かめた。道幅は人が二人並べるかどうか。左は壁、右は何もない。下がどれくらい深いのか、霧で見えない。それがかえって気味悪かった。
「マハト、下がれるか」
「無理だ。後ろにも回られている」
振り返った先の道にも、もう灰色が降りていた。挟まれている。
「――マジかよ」
一羽が真横から突っ込んできた。避けきれず、肩で受ける。骨ばった身体は見た目より軽く、しかし嘴の先が上着を裂いた。熱い線が左腕に走る。
「解人兄ちゃん!」
「…っつ、かすっただけだ!」
強がった。かすってなんかない。深くやられた。
マハトが一歩前へ出て、杖を岩へ突き立てた。白い曼荼羅が岩の上に薄く広がる。踏み込んできた三羽が、輪の上で空気が粘ったように失速した。その隙にトルガの斧が二つ落とし、ダリオが手斧で一つ落とす。
「保たん。二十を数えるうちに走れ」
「二十!?」
「十九」
「早ぇよ!」
ダリオが前を指した。
「岩が張り出してるところまで走れ!あそこは上から降りてこられん!」
「トルガ、エマを抱えろ!」
「言われなくても!」
トルガがエマを片腕で抱え上げ、斧を振り回しながら走り出す。解人はその後ろにつき、マハトが最後尾で下がった。
泣き声が追ってくる。何度も、耳のすぐ後ろで。気が狂いそうだ。
「十!」
「数えなくていいから!行くぞ!」
岩の張り出しへ滑り込んだ瞬間、背後で白い輪が消えた。追いすがっていた数羽が、勢いのまま岩へぶつかる。硬い音が続けざまに鳴り、それきり静かになった。
張り出しの下で、四人と一人が息を切らしていた。
「……あれ、なんで泣いてんだよ」
「知らん」
「ほんと…泣きたいのはこっちだっての」
崖を見上げると、灰色はまだ半分も減っていなかった。ただ、こちらへ来る気配はない。突き出た岩の下には、降りてこられないらしい。理由は知らない。今はこの岩が、マハトより頼もしい。
「あいつら、飛べるくせに、あの岩の下には入らねぇのか」
「そういう決まりなんだろう」
ダリオは肩で息をしながら、手斧の血を岩で拭った。
「泣き鳥はな、思ったより素直なんだ。落ちてこられん場所には落ちてこん」
*
崖沿いを抜けると、道は開けた斜面に変わった。
泣き声はもう聞こえない。解人の腕には、リナが持たせてくれた包帯が巻かれている。血は止まっていた。トルガは何度も後ろを振り返り、そのたびに何もいないことを確かめては、大きく息を吐いていた。
「なあ、ダリオ」
登りながら、解人は前を行く背中に声をかけた。
「向こうには、何があるんだ」
「言ったろう。空の街と、大きな人の背中だ」
「そうじゃなくて」
解人は言葉を探した。
「あんたは、それを実際に見たんだろ。どんな風に見えたんだ」
ダリオの足が、少しだけ遅くなった。
「……そうだな。尾根に立った日は、よく晴れてた」
声の調子が変わった。二十年前へ戻るときの、あの喋り方だ。
「まず、光が見えたんだ。太陽じゃない。雲の上に、太陽とは別に、もう一つ明るいところがあるんだ。近づくにつれて、それが街の形をしてるのが分かってくる。塔みたいなのが何本も立ってて、そのてっぺんが全部、金色に光ってる」
「街が、浮いてるのか」
「浮いてるとしか言いようがない。下は雲でな。たまに切れると、街の底が見える。あれは岩だ。山を一つ、根っこごと引っこ抜いて、そのまま空へ持ち上げたみたいな形をしてた」
解人は、落ちながら見たものを思い出していた。あのときは何が何だか分からず、すぐ雲に呑まれた。ダリオの言葉が、その断片を埋めていく。
「それで、人の背中は」
「街の下だ。ずっと下、地面のほうにある」
ダリオは足を止め、一度だけこちらを見た。
「最初は、岩山だと思った。細い山が一本、雲まで突き上がってるんだと。だが、真ん中に縦の溝があってな。背骨だ。山に背骨なんぞ、あるわけがない。なのに、何度見直しても背骨にしか見えなくてな」
「動いてたのか」
答えるまでに、少し間があった。
「……分からん。見てるうちに、あの背中が二回か三回、ゆっくり持ち上がって、また沈んだ気がした。息をしてるみたいに。ただ、そのときは俺も気が張ってたから、目の錯覚だったのかもしれん」
トルガが、抱えていたエマをそっと地面へ立たせた。
「あと、一つだけ妙なものを見たな」
「なんだ」
「街から、何かが落ちたのを見たんだ」
ダリオは空へ手をやり、ゆっくりと下ろした。
「小さくてな。星が一つ、ぽろっとこぼれたみたいに見えた。落ちる途中で光って、雲の中へ消えた。あれが何だったのかは、今も分からん」
解人の胸元には、リナに託された光石が紐で下がっている。無意識にそこへ手が伸びて、自分でも意味が分からず、そのまま引いた。
「なあ」
今度はトルガが口を開いた。
「なんで、行こうとしたんだ。二十年前に」
「……薬草だ。お前らもそうだろう」
拍子抜けするほど、あっさりした口調だった。
「村に、寝込んだやつがいてな。何を飲ませても駄目で、山の向こうの草なら効くって、じいさんたちの話にあった。それで、十人以上集まって行ったんだ。今思えば軽い気持ちだったな・・・」
解人の足が、一瞬止まりかけた。
「間に合ったのか、それは」
「間に合うも何も、俺たちは越えられなかった」
答えは短く、それ以上は聞けなかった。
*
「マハト」
斜面が緩んだところで、解人は隣に並んだ。
「この山、どう思う」
「どうとは、なんだ。はっきり言え」
「外れてるのか?理が」
マハトはしばらく黙って歩いていた。この男の沈黙は、考えているのか、答える気がないのか、いまだに区別がつかない。
「外れている、とは言いにくい」
「なんでだ」
「外れた理は、大抵うるさい。町の壺がそうだった。無理に押さえつけられたものは、必ずどこかで軋む」
マハトは足元の岩へ目を落とした。
「ここは軋んでいない。脈も、熱も、乱れてはいるが、続いている。外れているというより――」
「?」
「凪いでいる、が近いな」
解人は歩きながら、凪、と口の中で言ってみた。
正直、俺にはよく分からない。
「前に言ったよな。元に戻すことが、正解とは限らないって」
「あぁ」
「じゃあ、この凪を壊すのは、正解なのか」
「それは、知らん」
強気の即答だ。こいつは本当に理の番人なのかとたまに疑ってしまう。
「分からないことだらけじゃないか」
「私には、まだ何も分からん。分からんものを分かったふりで動かすほうが、危ない」
解人は、思わず笑った。
「あんたのそういうとこ、けっこう好きだよ」
「褒めているのか」
「もちろん、褒めてる」
後ろでエマが、トルガに何か話しかけていた。断片だけが風に乗って届く。リナがどうとか、帰ったらどうとか、そういう話だった。トルガの返事はいつもより短かったが、声そのものは柔らかかった。
*
斜面が最後の登りに変わったところで、ダリオが立ち止まった。
「ここまでだ」
前を見れば、尾根の縁はもう見えている。あと少し。息を切らしながらでも、届く距離だった。
「なんでだよ」
「決めてるんだ。俺は……ここから先は行かん」
トルガが二歩、前へ出た。
「なあ、あんた」
「……」
「村、来いよ」
ダリオは答えない。
「親父、生きてんだぞ。会えよ。何十年も勘違いしてたって、笑い話にすりゃいいだろ。うちのお袋の飯も食わせてやるし、酒だってあるぞ」
一息で言い切った。返事を聞くのが怖いんだろう。
「……気が向いたらな」
ダリオはそれだけ言った。行くとも、行かないとも言わなかった。
「上には、何がいるんだ」
解人が最後にもう一度訊いた。ダリオは尾根の方を見上げ、口を開き、そして閉じた。
「うまく、説明できない。ただ、気をつけろとしか言えない」
それ以上は、出てこないようだった。
ダリオは背を向けて、来た道を下り始めた。何歩か行ったところで、足が止まる。
そして、振り返った。
二十年前にしなかったことを、今やっている。ダリオは何も言わず、一度だけ手を上げて、それから今度こそ下っていった。
*
――俺たちは、四人になった。
風の音が変わっている。霧が薄く、速く流れて、尾根の向こうから吹き上げてきていた。地面の脈は、もう手を当てなくても足の裏に届く。どこか遠くで、岩が擦れるような低い音がしていた。
「……解人兄ちゃん」
エマが袖を引いた。顔は青いのに、目だけがまっすぐ上を向いている。
「上に、いるよ」
「何が」
「わかんない。でも、すごく――」
言葉が続かなかった。
解人は息を吸い、最後の斜面へ足をかけた。




