14話 四人で帰る
尾根は、昨日からずっと見えている。
霧の切れ間に、岩と空の境が細く覗く。あと少しだと思って登るうちに日が暮れ、一晩寝て、朝からまた登った。顔を上げると、境目は昨日と同じ高さにあった。それが三度続いたあたりで、解人は顔を上げるのをやめた。
斜面は登るほど立ってきて、途中からは手を使わないと上がれない。掴んだ岩が熱い。日向でも日陰でも同じだけ熱く、手を離してもしばらく熱が残った。足の裏に届く脈は、昨日より速い。
「なあ、おかしくねぇか」
トルガが岩の上で足を止めた。
「朝から千歩は登ってるぞ。なのに、あそこの高さが変わってねぇ」
「気のせいじゃないのか」
「山で気のせいって言うのが、一番危ねぇんだよ」
確かにそうだ。この山でトルガが真顔になるときは、たいてい当たっている。しかも嫌な時に。
昼前に、岩壁へ刻まれた印を見つけた。矢の形に近い浅い切り込みが一本、苔に半分埋もれている。トルガが指でなぞって、短く息を吐いた。
「多分、これダリオだな」
「なんで分かるんだよ」
「彫り方が、岩室の壁と同じなんだよ」
印は、尾根の開けている方ではなく、崖沿いの細い道を指していた。何年も前に、自分のために刻んだ道標なのだろう。
「こっち、遠回りじゃねぇか?」
「あいつがそう彫ってんだから、そっちが正解だろ」
トルガは迷わず細い道へ入っていった。道はすぐに幅を失い、壁と霧に挟まれた。開けた尾根はもう見えず、代わりに、白い壁の中を進んでいるような時間が続いた。
解人は右の袖の上から腕を押さえた。朝から、腕の奥が鳴っている。あの波の音ではなく、霧の中で名を呼ばれたときと同じ震え方だ。あれきり黙っていたものが、今日はずっと俺に気づいて欲しいかのように疼いている。
――近い、ということなんだろうか。
言おうとして、やめた。言えば全員の足がもっと重くなる。
霧の先で、エマが足を止めた。
「……地面が、はやい」
一昨日と同じ言葉だった。解人は壁に手をついた。掌の下で、深い脈の上に、あの速い震えが重なっている。近い。あのときより、ずっと。
「動くな」
マハトの声は、囁きより小さかった。四人は壁に背をつけた。右は霧で、その下は見えない。逃げる場所は、上にも下にもなかった。
白い中から、それが出てきた。
馬ほどの、土色の背中。骨の形を浮かせた皮膚が、霧の水気で濡れて光っている。目のない顔をこちらへ向け、窪みの奥だけが細かく震えていた。足音はしない。一昨日、山を叩いていたあの音は、走るときだけのものらしい。
――見えてない。
それは分かった。分かったところで、息の仕方が分からなくなった。
獣は道の真ん中で止まった。顔の窪みが、ゆっくり左右へ振れる。探している。
右腕が、脈打った。
朝から疼いていたものが、ここで一段強く鳴った。窪みの震えが、ぴたりと解人の方で止まる。
――今かよ。
笑えるわけがなかった。膝が勝手に震え、それが壁越しに伝わらないよう、解人は歯を食いしばった。
獣が一歩、こちらへ来た。
その瞬間、隣で何かが動いた。トルガが荷から鍋を抜いている。音を立てずに両手で抱え、そして――斜面の下へ、思い切り投げた。
ガァン、と鍋が岩に当たり、そのまま転がっていく音が、霧の下で長く続いた。
獣が跳んだ。四本の足が壁を蹴り、土色の塊が音の方へ落ちていく。霧が裂けて、閉じた。
「走れ」
マハトが言い終わる前に、トルガが解人の腕を掴んで引いた。マハトはエマを抱え上げ、細道を、壁に肩を擦りながら走る。後ろで、鍋の音が止まった。底に着いたのだ。次に来るのは――
背後の霧が、鳴った。
足音だ。今度は、走っている。
「保たん!一度だけだ!」
マハトが振り向きざま杖を突き立て、白い輪が細道の幅いっぱいに広がった。突っ込んできた土色の顔が、輪の縁で、泥に踏み込んだように遅れる。
三歩。それだけ稼いで、輪は剥がれた。
「まだだ、止まるな!」
トルガの怒鳴り声を背中で聞きながら、道が右へ折れ、壁が切れ、足元がいきなり広がった。開けた斜面。霧が薄い。誰かが転び、誰かが引き起こし、それが誰だったのかも分からないまま、四人は岩の陰へ転がり込んだ。
息の音だけが、四人分、揃わずに続いた。
霧の奥から、足音は来なかった。細い道から出てこないのか、鍋で満足したのか、分からない。
「……鍋、行っちまったな」
「鍋一つで済んだと思え。俺は斧を投げるかどうか、本気で迷った」
トルガはそう言って、笑おうとして、笑えていなかった。斧を握った手が、まだ開かない。
解人は自分の右腕を見た。もう鳴っていない。あんなに疼いていたくせに、静かなものだ。
――お前が呼んだんだろ。
腕に言ったって、返事はない。
休むたびに順番が入れ替わり、次に登り始めたとき、解人はマハトの隣にいた。
「聞いていいか」
「なんだ」
「上に何かいたとして、お前、どこまでやれるんだ」
マハトはすぐには答えなかった。岩の出っ張りに手をかけ、身体を引き上げてから、ようやく口を開いた。
「杖は使える。剣も使える」
「そうじゃなくて」
「……あぁ、分かっている」
マハトは自分の両手を、開いて閉じた。指先の裂けた手袋は、もう嵌めてすらいない。
「理そのものには触れられん。もし上にあるものが理でできていたら、私にできるのは押さえることまでだ。触るのは、お前になるだろうな」
任せろとは言えなかった。解人は岩の熱を手のひらで確かめながら、一段上へ足をかけた。
午後に入って、霧が濃くなった。
「エマ?」
先に気づいたのはトルガだった。エマは道の途中で止まって、真上を見ていた。
「どうした」
「……上」
「上がどうかしたか」
「なんか……声が、上から聞こえるの」
その一言の意味が分かるまでに、少しかかった。
エマが聞く声は、いつも山の下から聞こえていたはずだ。俺が覚えてる限り、エマが上から聞こえると言ったことは、一度もない。昨日の「上に、いるよ」は、気配の話だと思っていた。声そのものが上から来る、というのは別の話だ。
「本当か?間違えてないか」
「間違えないよ。ちゃんと聞こえるもん」
エマは、ゆっくり首を横に振った。
「ずっと下だったけど。ずっと。……今日から、上なの」
「いつからだ」
「朝。起きたとき」
半日、黙って歩いていたことになる。解人は自分の腕のことを思い出して、それ以上は責められなかった。
言い終わると、エマは膝から力が抜けたように座り込んだ。トルガが慌てて肩を支える。
「おい、エマ!」
「……平気」
「平気なやつは座らねぇんだよ」
マハトが上の斜面から空へ目を移した。
「今日はここまでだ」
「まだ日はあるぞ」
「日はあっても、この子が保たん。それに、お前の腕も何かおかしいんだろう」
解人は思わずマハトを見た。
「なんで分かるんだよ」
「押さえている手を見ていれば分かる」
こいつ、人の腕ばかり見ている。自分の手袋は破れたままなのに。
*
火が、なかなかつかなかった。
「くそっ」
トルガが何度も火口を作り直し、そのたびに細い煙だけが上がって消えた。岩室では、ダリオが同じことをあっさりやってのけていた。手つきを見ていたはずなのに、何が違うのかは分からない。山に二十年いれば火は簡単につくらしい。でも、二十年はいたくないな。
「……よしっ」
指の先ほどの火がようやく残ったとき、トルガがぽつりと言った。
「あいつ、村来るかな……」
誰も答えない。
解人にも分からなかった。それでも、分かったふりだけはしたくなかった。
火が少し大きくなってから、トルガが斧の刃を布で拭き始めた。手元だけを見ている。
「親父さ。何があったか聞いても、なんも言わねぇし。俺はずっと、適当に聞いてたんだけど……」
「今は」
「今は……たぶん、言えなかっただけだな」
布を畳んで荷へ戻し、トルガは火へ手をかざした。
「俺も帰ったら、なんも言えねぇかもしれねぇ」
エマは毛布に包まって火を見ていた。眠ったのかと思ったが、うっすら目は開いていた。
眠れないのだろう。無理もない。
「解人兄ちゃん」
「なんだ、起きてたのか」
「お母さん、待ってるかな」
「待ってるよ。リナも、ちゃんとついてるし、大丈夫だ」
「でも、わたしが遅かったら、待てないかもしれない」
間に合う、と言おうとしたが言えなかった。間に合うという言葉がどれだけ軽いか、昨日のダリオの話で思い知ったばかりだった。
「わたし……がんばる……」
それだけ言うと、エマは小さく頷いて目を閉じた。
マハトは薪を一本足したきり、何も言わない。火ではなく、上の斜面を見ていた。
「解人」
「ん」
「あの子を連れてきたのは、私だ」
薪の位置を直す手が、一度だけ止まった。
「分かれ道で、この子の勘を信用したのは、私だ。私の勘より当たると思ったからだ。それは今も変わらん。だが、当たるからという理由で、あの子を先に立たせた。それは私の判断だ」
「後悔してるのか」
「していない。していないから、困っている」
解人は火を見たまま、普段使わない頭の中で言葉を探したが、気の利く言葉は十七歳の野球少年には見つけられなかった。誰が悪いという話ではない。それでも、俺たちは誰もエマを止めなかった。
「ずっと上見てるけど、何か見えるのか」
「いや、見えん。霧しかない」
「じゃあ何見てんだよ」
「見えないものを見ている」
「……それは番人の役目か」
「ただの見張りだ」
マハトなりに、みんなを守ろうとしているのだろう。
毛布に入っても、しばらく眠れなかった。村を出たときは、四人で行って四人で帰るものだと、疑いもせずに思っていた。この状況だと一人欠けてもおかしくない。
*
地面の脈が、一度止まった。同時に、解人は重い目を開いた。
毛布を跳ねのけると、マハトはもう立っていた。座った形跡がなかった。この男、寝るという機能がついていないのかもしれない。トルガが慌てて荷をまとめ、エマは何も言わずに立ち上がっている。昨日より顔色は良く見える。
霧は夜のあいだにさらに濃くなっていた。数歩先を行くトルガの背中が、輪郭だけになっていく。道は片足を踏み外せば落ちるだけの幅になり、そこからさらに細くなっている。周りの景色はただ白いだけだった。
足の裏に届くものは、もう脈と呼べるほど規則正しくない。速く、浅く、時々止まる。止まるたびに、何か起こるのでは、と四人とも足が止まった。
「解人兄ちゃん」
エマが後ろから、解人の手を握った。
「もう、すぐそこだよ」
「……どういう意味だ」
エマは答える前に、小さく息を吸った。それから、霧の先を指した。
「そこにいるの。わたしが聞こえていた声が」
霧の向こうで、岩の擦れる音がした。
昨日までのような、遠くの音ではなかった。




