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理の果て ― 欠けた世界の最終解  作者: 夜明け前のじゆうちょう。
第一章 栄光都市と償われぬ罪
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15話 泣く岩壁と、開いた道

 エマの指の先には、霧しかなかった。岩の擦れる音は、もう聞こえない。それでも誰も引き返そうとは言わず、トルガが先に足を出し、残りの三人が後ろについた。

 足は、朝から一度も軽くなっていない。岩の熱が靴底を抜けて足の裏に溜まり、一歩ごとに膝が遅れる。後ろのマハトの息は、聞こえないふりをするには近すぎた。右腕の奥は、昨日から疼きっぱなしだ。


 道は壁に沿って細く折れ、その角を曲がると足元が棚のように広がった。霧の奥から、別の音が降りてきた。


 声は、最初ただの泣き声だった。登るにつれて、しゃくり上げる息の合間に、言葉が混じり始めた。


「お前だ……お前が悪いんだ……」


 トルガの足が止まり、つられて全員が止まった。四人とも同じ場所で立ち尽くして、一点を見ている。


「殺してやる。殺してやる。殺してやる。必ずだ……あの子を苦しめた、あいつを」


 声だけで、背中が冷えた。


「なあ、あれ……」

「静かにしろ。刺激するな」


 マハトが短く遮った。剣の柄へ手がかかっている。


 そのとき、下から風が吹き上げ、霧を一息で一掃した。道の正面を塞いでいたのは、最初はただの岩壁に見えた――切り立った灰色の壁が、見上げても端の知れない高さまで続いている。表面を這う亀裂のような線に、解人は目を止めた。線が、動いた。瞼だった。


 壁が、顔だった。

 斜めに傾いだ女の顔が、岩壁へ貼りついたまま埋め込まれていた。眉から上は岩に呑まれ、顎の先は地面の奥へ消えている。頬一つの高さだけで、村の家を三軒縦に積んでも届かない。閉じた瞼の縁から水が滲み出し、頬の窪みを抉りながら、細い川となって壁を伝い落ちていった。

 その足元、地面のあちこちから腕が突き出していた。何本も。肘から先だけが土を裂いて伸び上がり、開いた指のまま峠の道をまたいでいる。人の腕そのものの形をしているのに、色も肌理も、纏う岩と見分けがつかなかった。


 誰も何も言わなかった。トルガの手から荷が滑って落ち、解人は自分が息を止めていたことに、しばらくしてから気づいた。エマだけが、まっすぐそれを見上げている。怯えている顔ではなかった。


「なあ、マハト」

「なんだ。声を落とせ、あいつに聞こえるぞ」

「理の旅ってのは、いつもこういうのに出くわすのか」


 あの壺のあとでこんな軽口を叩くのは馬鹿かもしれないが、聞かずにいられなかった。


「番人の旅なら、珍しくもない」


 泣き声が止まった。閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がり、溜まっていた水が一気に溢れて、滝になって斜面を流れ落ちていく。


「ばん、に……ん?」


 声の湿り気が消え、代わりに、乾いた高い音になった。


「番人だと?いま、番人と言ったか?言ったな?言ったよなあ?」

「そうだ」


 マハトが一歩前へ出た。


「私が理の番人だ」

「おい、なんで答えてんだよ!バレないようにしてただろう」


 こいつは、本当に読めない。何かムキになる性格なのか、番人という者に誇りを持っているのか分からない。とにかくトルガと俺の額からは、冷や汗が落ちてくる。


「また、お前かーーーー!何しに来た!また私から大事なものを持っていくのか!」


 その瞬間、右腕が裂けた。


 ――いや、裂けてはいない。袖をまくるまでもなく分かる。皮膚は無事だ。だが、今までの引っかくような痛みとは、質が違った。腕の奥へ直接手を突っ込まれ、内側から広げられている。壺に触れたときも、霧の中で名を呼ばれたときも、こんなものではなかった。

 ――外れてる場所の近くだけ鳴る。ずっとそう思っていた。

 だがこの山は、外れているとは言いにくい。マハトがそう言った。凪いでいる、と。


「解人!」


 考える時間は、そこまでだった。地面から生えた腕の一本が、大きく振り上がる。指が空を覆った瞬間、視界がその一本だけで塗り潰された。


「全員、散れ!!」


 マハトの声と同時に、解人は横へ跳んだ。腕が落ち、道ごと消える。さっきまで立っていた場所には、指が三本突き刺さっていた。砕けた岩が粉になって舞い上がる。

 二度、三度と、石の掌が道を端から叩き潰していく。一度ごとに足の裏が浮いた。


「トルガ、エマ!」

「任せろ!」


 トルガがエマを岩陰へ抱え込み、すぐに斧を抜いて立ち上がった。


「おい待て、行く気か!」

「当たり前だろ!このためにいるもんだ」

「その斧で、あれのどこ削るんだよ!」


 トルガの手が静かに止まった。

 指の一本が、この男の背丈の何倍もある。爪の縁だけで、両手を広げても届かない幅がある。斧の届く高さに、削って意味のあるものが何一つなかった。


「……くそっ」

「腹立つのは後だ!」


 石の掌がまた落ちた。岩陰の上を、削れた土が音を立てて流れ落ちていく。トルガがエマの頭を抱え込んで伏せさせた。

 それでもエマは、すぐに顔を上げた。降ってくる石の中で、壁を見上げている。


「返せ」


 岩壁の顔が言った。


「返せ、返せ、返せ!あの子を返せ!ノアムを返せ」

「ノアム?」


 解人の口から、勝手に出ていた。


「エマが言ってたやつじゃねぇか!」

「知るかよ、俺に聞くな!」


 岩陰で、エマが目を見開いていた。唇が動きかけて、言葉にならないまま閉じる。


 二本目が横から薙いでくる。解人は伏せた。頭上を風が抜け、背中へ小石が降り注ぐ。


「マハト!あれ止められるか!」

「止めるだけならな」


 マハトが杖を岩へ突き立てた。白い曼荼羅が広がり、輪が互い違いに回る。振り下ろされた腕が、輪の中で急に重くなったように遅れた。

 遅れただけで、腕はそのままゆっくり押し込んでくる。輪が軋み、外側から一枚ずつ剥がれていく。


「このままでは、保たん!」

「あと、どれぐらいだ」

「五秒」


 顔は、喋るのをやめなかった。誰に向けた言葉でもないのに、一語ごとに空気が重くなる。返事を求めていないから、遮る隙もない。


「うるさい。うるさいうるさいうるさい。またそうやって、優しい顔で近づいてくるんでしょう。話を聞くふりをして、頷いて、それで、それで——」


 語尾が途中で裏返り、また泣き声へ戻る。泣きながら、腕だけは正確にこちらを狙っていた。


 三本目が地面を掃う。マハトは跳んだが、一拍遅れた。


「マハト!大丈夫か!?」


 黒いコートが宙で一回転して、岩の斜面へ落ちる。曼荼羅が消えた。押さえていた腕が、勢いを取り戻して岩を叩き割る。


「おい、立てるか!」

「……問題ない」


 問題ないと言う人間の起き上がり方ではなかった。明らかに左腕をかばっている。


 顔の向こう側から、もう一本が持ち上がる。今度は真上からだ。開いた手のひらが空を覆い、影が勢いをつけて落ちてきた。


「上だ!!!」


 トルガがエマを抱えたまま、それぞれ別の方向へ散る。掌が地面を叩き、音より先に身体が浮いた。解人は斜面を三度跳ね、岩へ背中から叩きつけられて、ようやく止まる。


「……っ、げほ」


 顔を上げた先に、穴があった。顎の下、土と顔の境目が黒く口を開けている。人が四人並んで通れるほどの幅で、奥へ向かって下へ傾いていた。


「マハト!あそこ!」

「あぁ、分かっている!」

「行けるか!」

「腕が三本、間にある」


 それでも、他に道はなかった。


「トルガ、エマを連れて先に行け。俺とマハトで——」

「このままでは、無理だ」


 マハトが言い切った。


「一本でも掴まれれば、そこで終わる。走らせる前に、あれの気を逸らす必要がある」

「どうやって!」

「それを今考えている」


 考えている、と言い終わるより早く、腕の一本が膝の高さを横に滑ってきた。倒れた塔がそのまま走ってくるような速さだった。解人は跳び、着地した岩ごと次の一撃に吹き飛ばされかける。転がった先に、上から影。掌が背中のすぐ後ろへ落ち、跳ねた石が肩甲骨を強く打った。肺の空気がまとめて押し出される。

 叩く、掃う、また叩く。腕が一本沈むと、別の土から新しい指が生えてくる。こっちは肩で息をしているのに、石は呼吸すらしていなかった。穴までの距離は、さっきから一歩も縮まっていない。


「私は言ったのに。何度も言ったのに。あの子を助けてって、それだけだったのに。どうして。どうして誰も聞かないの」


 その言葉に、エマが動いた。トルガの腕から降りようとする。


「おい、待て!」

「おろして」

「馬鹿言うな!」

「おろして!」


 エマが叫ぶ。その声で、トルガの手が緩んだ。岩陰から出て、腕の届く範囲へ、自分から歩いていく。


「エマ!」


 解人は走った。走りながら、間に合わないことが分かっていた。距離ではない。あの子はもう、こちらを見ていなかった。トルガが追い越していく。マハトの声が後ろで何か叫んでいるが、全部遠かった。


 ――止まってくれ。そう願っていたのに、エマは止まらなかった。顔の真下まで歩いて、そこで足を揃えた。腕の一本が、その頭上でゆっくりと振り上がっていく。


 エマは顔を見上げて、小さな声で言った。


「苦しいんだね。聞こえてたよ……」


 あの大きさの相手に、届く声量ではなかった。それなのに、腕はそこで止まった。


「……なに」


 目が、初めて一点に据わった。エマを見ている。


「なに、いま」


 エマが息を吸う。今度は、腹の底から声を出した。


「ずっと呼んでたの、知ってるよ!だから今度は、わたしが応える番だから!!」


 水の流れる音だけが、さっきまでうるさかった岩場に広がっていた。目が、ゆっくりと細くなった。力が抜けている。


「あなたが……きこえて、いたの……?」


 高さのない声だった。


「だれも、こたえてくれなかった。ずっと。ずっと、だれも」

「うん、聞こえてたよ」

「……ずっと?」

「ずっと」


 エマは、そこで少しだけ言い方を変えた。


「でもね。名前、間違えてたかも」

「……なまえ」

「ごめんね」


 解人には、その会話の意味が半分も分からなかった。分からないまま、エマの背中が震えているのが見えた。溢れた水は、もう滝ではなかった。人が泣くときと同じ、静かな流れ方をしていた。


「あの子が」


 顔が、言葉を探すように止まった。


「ノアムが、こたえないの。なんど、よんでも。ほかのだれより、あの子だけは……」

「うん、知ってる」


 エマは即答した。何を知っているというのか、解人には分からない。ただ、その声だけは、はっきりしていた。


「ずっと、それで泣いてたんでしょ。だから、わたしが助けてあげるね」


 瞼の縁に溜まっていたものが、落ちずにそこで震えている。目が、これ以上ないほど開き、映っているのは、エマだけだった。


「……ほんとうに?」

「うん、もちろん!」

「ほんとうに、ほんとうに?」

「ほんとうだよ、わたし嘘つかないもん!」


 しばらく、何の音もしなかった。それから、聞き取れるかどうかの、力の抜けた声が落ちてきた。


「……ありがとう」


 地面から生えていた腕が、一本ずつ、順に土へ沈んでいく。道を空けている。最後の一本が消えると、顎の下の穴まで、遮るものが何もなくなった。


 誰も走らなかった。息を整えながら、歩いて向かった。マハトが先に立ち、解人はエマの手を引いた。トルガは最後まで顔を見上げたまま、後ろ向きに数歩下がってから、ようやく背を向けた。


 穴の中は、入口から見たより奥が広かった。天井も壁も岩ではない。触れると、外の岩と同じ熱を持っていた。奥へ行くほど下へ傾き、足が勝手に速くなる。


「マハト、腕は大丈夫か」

「今日は使えん」

「……そういう言い方するなよ」

「明日は使える、と言っている」


 息が上がっているのに、返す口だけはいつも通りだった。それで少しだけ安心した自分に、解人は呆れた。

 背後から、もう何も聞こえてこなかった。エマが一度だけ振り返る。解人は手を離さなかった。


 入口の光が背中で細くなり、やがて届かなくなった。前も後ろも、同じ暗さになる。壁の熱を辿るしか、道の続きは分からなかった。

 解人はエマの手を握り直した。足の下で、道が静かに傾きを深めていく。山の中へ、というより、山だったものの中へ。


 四人は、その暗がりの底へ降りていった。


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