16話 聳え立つ者
壁の熱を右手でなぞりながら、四人は下っていた。入口の光はもう届かない。頼れるのは、前を行くトルガの足音と、後ろのマハトの息と、握ったエマの手だけだ。床の傾きは緩む気配がなく、踏み出すたびに靴の裏が半歩ぶん余計に滑って、そのたびに膝で受け止めるので、太腿の奥が重くなってきていた。
「なあ、これ、どこまで下るんだ」
「分からん」
「だよな」
訊いた解人も、答えが返るとは思っていない。壁に手をつくと、入ってからずっと変わらない熱が、手のひらに戻ってきた。
足の下で、脈が止まった。
一歩、二歩、三歩目でも戻ってこない。いつもの一拍とは違う長さだと分かったときには、四人とも足を止めていた。誰も口に出さない。それでも、四人が同じことを考えているのは、息の止まり方で分かった。
「……止まってるよな」
「動くな」
マハトが言い終わるより早く、床が前へ倒れた。踏ん張った足の裏から地面が抜け、身体ごと斜面に貼りつき、握っていたエマの手が指の先から抜けていく。
「エマ!」
「解人兄ちゃ――――」
叫びは途中で途切れ、あとは音だけになった。岩に肩を打ち、誰かの荷が頭の横で跳ね、トルガの悪態が上からも下からも聞こえる。転がっているのか滑っているのかも分からないまま、上下が何度も入れ替わり、そのたびに身体のどこかがぶつかった。
そして、放り出された。ゴロン、と最後にもう一回転して、止まる。目を開ける前から、明るいのが分かった。
――今度は、どこだよ。
*
甘い匂いがした。目を開ける前から、それだけは分かる。背中は柔らかく、頭の後ろで茎の折れる音がしている。目を開けると、青い空が見えた。雲は高いところに一筋、帯のように伸びているだけで、その青の中へ、腰まである花が四方から倒れ込んでいる。赤と白と薄い紫が入り混じり、花弁の縁が日を受けて光っていた。風が吹くたび、甘さが濃くなる。
「……四人、いるか?」
声を出すと肋骨が痛んだ。返事は、少し遅れて三つ返ってきた。
「いる」
「……いるよ」
「いてぇ……いる」
トルガの下から、エマが這い出してくる。頭に花弁がついている。マハトは少し離れた場所で、もう杖を支えに立っていた。
見上げると、山の斜面が遥か上まで続いていて、その途中に黒い穴が小さく開いている。あそこから落ちてきた。俺たちは、とうとう山を越えたのだ。
――越えた。そう思っても、実感はまだ花の匂いに負けている。
身体が動きたがらなかった。花の上は温かく、風は甘く、空は今まで見たどんな空よりも青い。
「……天国ってこんなんかな」
トルガが仰向けのまま、ぼんやりと言った。誰もまだ起き上がろうとしなかった。
風がまた強く吹いて、花の匂いが一段と濃くなる。トルガが大きく息を吸い、そして、笑い出した。
「……ふっ、ふふ……なんで俺、笑ってんだよ」
自分でも分からないらしい。口を押さえても、肩が揺れて止まらない。見ていた解人の口の端も、勝手に上がった。堪えようとするほど、腹の奥から込み上げてくる。笑っている場合じゃないのは分かっている。分かっていて、止まらないのだから性質が悪い。
「やめろ、移る……っ、ははははは」
「知らねぇよ、止まらねぇんだよ。はははは」
笑い上戸の大男ほど、手に負えないものはない。
エマも声を出して笑った。肩を揺らし、口を両手で覆って、それでも無邪気な音は漏れている。解人は笑いながら、その顔を見ていた。この子が声を出して笑うのを初めて見て、なんかホッとした。
「……くだらん」
マハトだけが、いつもの顔で立っている。眉一つ動かない。この花、番人には効かないのか。それとも、効いてこの顔なのか。トルガがマハトを指して、何か言おうとして、また笑った。
笑いながら、トルガが顔を上げた。そこで、笑いが途中で切れた。
「……おい」
もう笑っていない声だった。解人も、まだ肩を揺らしながら、トルガの視線を追った。
最初に気づいたのは、涼しさだった。暖かい花畑にいるのに、自分たちの周りだけ日が当たっていない。真上に雲はない。それなのに、影の中にいる。
影の縁が、花畑の向こうまで真っ直ぐ伸びていた。木や岩の影にしては長すぎる。日を遮っているものは、自分たちの背中側にある。振り返ると、花畑の端が、灰色の壁で終わっていた。落ちたときから視界に入っていたのに、崖だと思って気にもしなかったものだ。
近づくほど、壁の形がおかしい。根元が花の中から丸く盛り上がっていて、岩の角がどこにもない。その丸みの上から、太い筋が一本、真っ直ぐ上へ立ち上がっている。
踵だ。
解人は自分の足を見て、それから壁を見た。同じ形をしている。ただ、その踵の丸みだけで、四人が並んで寝転がってもまだ余る。踵の上に筋が立ち上がり、筋の上にふくらはぎが膨らんで、そのさらに上に――
見上げた。
膝の裏。腿。腰に巻かれた布。その脇に、下ろされた手の指先。その上に、背中。肩から先は、あの帯のような雲の中へ入って見えなかった。
――嘘だろ。
誰も何も言わなかった。トルガの喉が、笑いの続きみたいに鳴った。
「……山じゃ、ねぇのか」
トルガが言った。目の前にあるものが分かっていて、それでも山だと思いたい声だった。
「……人だ」
エマだった。まっすぐ見上げて、怯えていない。
「おっきい、人」
「……立ってる」
「あぁ、立ってる…こんなの見たことねぇ……」
解人の口から出たのは、当たり前のことだった。漫画にしか出てこないような大きさの人間が、立っている。頭が受けつけない。それなのに、ここが異世界だということだけは、これ以上ないほど分かった。
マハトが、最後に口を開いた。
「あれは、息をしている」
その一言で、目の前のものが景色から生き物になった。言われてから見ると、微かに動いていることを確認できた。長い間隔で脚全体がわずかに膨らみ、それより長い時間をかけて、縮む。あの山の脈を思い出す。
花の匂いは、まだ甘い。さっきまで腹を抱えていた同じ匂いの中で、今は誰も笑っていない。花より、あれの方が強いらしい。
解人は右の袖の上から腕を押さえた。何も反応しない。昨日あれだけ反応した腕が、この異様な光景の前では、何も言わなかった。
「解人。腕はどうだ」
「……何もない」
「昨日は、あの岩壁の前で反応した。今は、この生き物の前で何もない」
「……どういうことだよ」
「分からん。だから、覚えておけ」
言われて、解人はもう一度、袖の上から腕を握った。昨日は痛みで、今日は沈黙で、同じ腕が別のことを伝えてくる。
トルガが、自分の手の下の花を見ていた。
「なあ。これ、じいさんたちが言ってたやつ」
声がまだ少し掠れている。
「山の向こう、巨人のそばに、どんな病も治す草があるって。……そばに、って言ってたよな」
「……そばに、って」
解人は足元を見た。花は、踵の根元にいちばん濃く茂っている。そこから離れるほど、疎らになっていく。自分たちが落ちた場所は、ちょうどその濃い場所だった。
「お母さんの、薬」
エマが言った。もう花に手を伸ばしかけている。
「決めるのは早い」
マハトが言う。だが、否定はしなかった。花から目を離さないまま、続けた。
「草がある、というだけなら、この層のどこにでもある。効くかどうかは、別の話だ」
「じゃあ、どうやって確かめるんだよ」
「知らん。だが、探すなら、先にあれを見てからだ」
マハトは巨人を見上げた。
「あれが何か分からんうちに、その足元の草を取る気にはならん」
*
マハトが先に歩き出した。踵に沿って、右へ。
誰も訊かずに、後についていった。花を掻き分けて踵を回り込むと、足の外側が長い壁になって続き、その先に指が五本、並んでいるのが見えた。小指の爪一枚でも、日を受けて鈍く光る板だった。肌は岩に似た色をしているが、近づくと岩ではない。細かい皺が走り、あちこちに花の根が食い込んでいる。
解人は、手を伸ばしかけて、やめた。伸ばした手の先に、トンネルの壁と同じ熱があった。
「触るな」
マハトが振り返らずに言った。
「触ってねぇよ」
「触ろうとしただろう。お前はそういう男だ」
「分かったよ!」
見えていないはずなのに、なんで分かるんだ。背中に目でもついているのか…こいつは、ついていても驚かない。
足に沿って歩いても、景色はなかなか変わらない。指が、まだ遠い。腰に巻かれた布は、見上げれば見える。粗い織りで、裾が風もないのに揺れていた。それが呼吸のたびに揺れているのだと気づいたのは、しばらく歩いてからだった。
花は、脚から離れるほど疎らになる。逆に言えば、この綺麗さは、全部これの足元から出ている。
エマは解人の手を握ったまま、ずっと上を見ていた。何も言わない。声を聞いているのか、聞いていないのか、解人には分からなかった。
指の先を回り込むと、目の前が開けた。
表側だった。腹があり、その上に胸があった。胸の真ん中に、何かが刺さっていた。
腕をいくらか束ねたほど太く、管とも縄とも見えず、黒くも白くもない色をしている。刺さっている周りだけ、肌の色が違っていた。
解人は、それを目で辿った。上へ。上へ。胸から真っ直ぐ、空へ。雲の中へ消えていた。雲から出て、胸に刺さっている。
「……え」




