7話 山と少女
最初に感じたのは、鼻の奥に残る苦い草の匂いだった。
解人が目を開けると、木組みの小さな窓から淡い日の光が差し込んでいた。黄土色の壁には藁が混じり、天井では太い木の梁が乾いた草を支えている。
寝床も低い木枠へ布を重ねただけのものだ。それでも身体を包む毛織りの布は暖かく、思っていたほど寝心地は悪くなかった。
「……ここ、どこだ?」
「やっと、起きたか」
壁際の椅子にマハトが座っていた。黒いコートは背もたれへ掛け、足を組んでいる。
安心して身体を起こした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
「いってぇ……!」
「急に動くな。まだ安静にしておく必要があるそうだ」
「あるそう……?」
腕や肩には白っぽい布が巻かれ、緑色の薬草が塗られていた。
「お前こそ無事だったのかよ。何度呼んでも返事しないし……」
「私に問題はない。解人を探して山を下り、この村であの少女に出会った」
「じゃあ、あの子が助けを呼んでくれたのか」
「そうらしい」
森で自分を囲んだ五体の植怪物と、小さな女の子。意識を失う前の記憶が少しずつ戻ってくる。
「俺、どれくらい寝てた?」
「一晩ほどだ」
「結構寝たな…」
マハトから木の杯を受け取り、水を一気に飲み干す。乾いた喉が潤うと、ようやく頭も動き始めた。
杯を返そうとして、マハトの手が目に入った。黒い手袋を、着けていない。
「手袋、どうしたんだよ」
「指先の紋様が、焼き切れている。それだけで、使い物にならんからな」
「大丈夫なのかよ、それで」
「……今のところはな」
軽い口ぶりだったが、手袋のない指を、話しながらずっと握ったり開いたりしていた。
「あの怪物、なんで村まで来なかったんだ?」
「私も確認したが、あの怪物たちは森と草地の境を越えられなかった」
「この村が守られてるってことか?」
「守られているのかは不明だ…」
マハトは図鑑へ視線を戻した。開かれた頁には見知らぬ文字と図が並んでいる。
「その本、何か反応していないのか?」
「何もないな」
「じゃあ、どうやって欠片を探すんだよ」
「欠片は石のように落ちているとは限らない。理が欠けたことで生じた現象の中に留まり、形を持たないこともある」
「先に、この層で何が壊れてるのか見つけるってことなのか」
「ああ。ただし、元に戻すことが正しいとも限らない」
「…なんだよそれ、やってみなきゃわかんねぇってことかよ」
「そうだな。それがお前自身で引き受けた役目だ」
図鑑を閉じて、マハトが例を挙げる。
「川で流された赤子を、下流の夫婦が拾い、我が子として十年育てたとする。ある日、産んだ親が生きていると分かった」
「よかったじゃねぇか。親が見つかったんだろ」
「では、どうする」
「そりゃ、返すだろ。本当の親なんだから」
「それが、元に戻すということだ。育てた夫婦はどうなる」
「……そっか。育てた方は、子どもを取られるのか」
「十年、我が子として育ててきた相手をな」
解人は言葉に詰まった。一緒に暮らした子どもを、ある日いきなり手放せと言われる。自分なら、頷けるとは思えなかった。
「じゃあ、返さなきゃいいのか?」
「産んだ親は、子を失ったままになる。流されたのは、その親のせいではない」
「……本人に決めさせるとか」
「決めさせれば、今度はその子が、どちらかの親を捨てることになる。戻しても、戻さなくても、誰かが失う」
「理も同じってことか?」
「ああ。理が欠けたあとにも時間は流れ、その上に新しい暮らしや命が生まれる。ただ元に戻すだけでは、それらを壊すこともある」
解人は脇腹を押さえ、寝床の上で座り直した。
「……分かんねぇ」
「何がだ」
「元に戻すだけじゃ駄目で、壊れたままでも駄目なんだろ?じゃあ、俺たちは何をすればいいんだよ」
「それを、この層で見つける」
「図鑑に答えは書いてないのか?」
「これは起きたことを記し、欠片を繋ぎ留めるためのものだ。答えを教える本ではない」
「お前にも分からないのか?」
「番人は、世界を作った者ではない」
淡々とした答えだった。異世界での冒険は、思っていたよりずっと厄介なものになりそうだ。
「……ほんと、面倒なこと引き受けたな、俺」
「今さら気づいたのか」
そのとき、木の扉が静かに開いた。
「お話し中でしたか?」
湯気の立つ器を持った若い女性が入ってきた。明るい茶色の髪を緩く束ね、淡い緑色の目をしている。目が合うと、少し困ったように微笑んでくれた。
可愛いというより綺麗だ。正直、かなり好みだった。
「具合はどうですか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
反射的に背筋を伸ばし、脇腹の痛みに顔が引きつる。
「まだ無理に動かないでください」
「だ、大丈夫です。本当に」
女性は器を台へ置き、リナと名乗った。昨夜、解人を見つけた少女の姉で、解人を看病してくれていたのは彼女らしい。
「マハトとは、もう話したんですか?」
「はい。解人さんが眠っている間に」
リナがマハトを見る。マハトも軽く頷いた。自分が寝ている間に、ずいぶん自然に馴染んでいるな。けしからん。
その直後、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
「お兄ちゃーーーーん!」
扉を勢いよく開けた少女が、そのまま解人の腹へ抱きついてくる。
「起きた!ほんとに起きた!」
「痛い痛い!そこ怪我してる!」
「こら、エマ!」
姉に叱られ、エマは慌てて腕を離した。
「ご、ごめんなさい……」
「いや、大丈夫。助けてくれたんだろ?ありがとな」
頭を撫でると、エマは嬉しそうに笑った。十歳くらいだろう。姉と同じ茶色の髪を肩の辺りで切り揃えている。
「でも、なんで夜にあんな危ない場所にいたんだ?」
「山の声を聞きに行ってたの。昨日はずっと泣いてたから」
「エマ。森へ行っては駄目だと、何度も言ったでしょう」
「でも、いつもより悲しそうだったんだもん」
リナの声が厳しくなる。子どもの夢物語として、何度も聞かされてきたのだろう。だが、マハトは山の声という言葉に反応した。
「その声は、以前から聞こえていたのか?」
「うん。耳を塞いでも、もっと中から聞こえるの」
エマは自分の胸へ手を当てた。
「夢の中では、すごく大きな誰かが白い霧の向こうで眠ってる。顔は見えないけど、ずっと苦しそうなの」
「名前は?」
「ノアム。山がそう呼んでるの」
マハトの目がわずかに細くなった。
「最近は、前よりずっと悲しんでるよ。ノアムが弱って、声も小さくなってる」
「そのノアムが、山の向こうにいるのか?」
「たぶん!」
「たぶんかよ」
「だって、行ったことないもん」
そのとき、奥の部屋から苦しそうな咳が聞こえた。息を吸うたび喉の奥で何かが引っかかるような咳が、何度も続く。
リナがすぐに奥へ向かう。残されたエマは、さっきまでの元気をなくして俯いている。
「誰か病気なのか?」
「お母さんなの。ずっと悪いの」
しばらくして咳が収まり、リナが戻ってきた。
「母は半年前から身体を悪くして、今はほとんど起き上がれません。村の薬も、全部試しました」
リナは膝の上で両手を握った。
「昔、あの山を越えて、生きて戻った人がいたそうです。その人が、山の向こうに眠る巨人のそばから、不思議な草を持ち帰ったと。それを飲んだ病人は、数日で歩けるまでに回復したそうです」
「山の向こうに、本当に巨人がいるのか?」
「とても大きな人が眠っていると、昔から伝えられています。でも、確かめることはできません。あの山を越えようとした人の多くは、戻りませんでしたから」
「じゃあ、薬草も本当にあるか分からないのか」
「はい。ただの昔話かもしれません」
「でも、お母さんの病気を治せる薬草があるかもしれないんだよ」
エマが身を乗り出して、解人とリナに訴えかける。
「だから、ノアムに薬草の場所を聞こうとして、夜の森へ行ったのか?」
「……うん。でも、それだけじゃないの。昨日はずっと泣いてたから……」
「エマ!」
強い声に、エマの肩が跳ねた。リナは唇を噛み、妹の肩へそっと手を置いた。
「私も薬草があるなら取りに行きたいです。でも、母を助けるために、ほかの人まで危険には巻き込めません」
解人は窓の外へ目を向けた。村の向こうには、深い森を背負うように巨大な山が横たわっている。山頂は白い霧に隠れ、その先は見えない。これが異世界か。
山を越える危険も、この世界で自分に何ができるのかも、正直よく分からない。それでも、助かるかもしれない人を前にして、何もしないまま待つ方が嫌だった。
「なあ、マハト。あの山の向こうへ行ってみないか」
「欠片がある根拠はないぞ」
「あるかどうかは行ってみなきゃ分からないだろ。それに薬草が見つかれば、あの人の母親が助かる」
「私たちの目的は、知らない人間の病を治すことではない」
「お前、ひどいな……。目の前に助けられるかもしれない人がいるのに、見て見ぬふりするのかよ」
少し言いすぎたかもしれない。けれど、引っ込める気にはなれなかった。
マハトは窓の向こうの山を見つめる。
「謎の声、異常な効能を持つ植物。そして、眠る巨人か…欠片がある保証はないが、調べる価値はありそうだな」
「じゃあ――」
「まず地形と、過去に山を越えた者について調べる。お前の怪我もあるしな」
「分かってるって」
「今すぐ飛び出しそうな顔をしているぞ」
「しねぇよ。たぶんな…」
「信用できんな」
リナが二人を見比べる。
「本当に、山へ行くんですか?」
「ああ」
解人が答えた直後だった。ズズ……ン。地面の奥で、何かがゆっくり身じろぎしたような振動が響いた。棚の木の器が触れ合い、天井から乾いた土がポロポロ落ちる。
「また……」
リナが不安そうに山を見る。解人も窓の外へ目を向けた。
白い霧に隠れた山頂から、岩同士を擦り合わせるような低い音が遅れて届いた。直後、森から黒い鳥の群れが一斉に飛び立つ。
「今の揺れ、あの山からか……?」
エマが胸元を押さえ、山を見つめた。
「……まただ」
「また?」
「ノアムの声が、さっきより遠くなった」




