6話 旅立ちの洗礼
この地に、大いなる罪を償おうとする者がいた。
空には黄金と宝石が輝き、その光は地上を華やかに照らしていた。
されど、皮肉なことに。帰りを待ち侘びる者は、目覚める時も知れぬまま、深い眠りについていた。
――天は、いつまでこれをそのままにしておくのであろうか。
*
「うわああああああああっ!?」
猛烈な風が下から吹き上がった。眼下には雲しかない。解人もマハトも、何もない空中を落下していた。
「次の層へつながるって言っただろ!これじゃ落とし穴じゃねえか!」
「こういうのは初めてだな、うん」
「どんだけ冷静なんだよ!」
「大丈夫だ。どうにかなる。信じろ」
「信じられねえよおおおおお!」
風に身体を回されながら、解人はマハトのコートをつかんだ。
雲の切れ間に、太陽の光を受けて輝くものが見えた。
山の一部を切り取ったような陸地が、空に浮かんでいる。その上には、白く輝く都市が築かれていた。
街の至るところで金や宝石のような光が重なり、都市全体が巨大な財宝のように輝いている。陸地の縁は鋭く途切れ、その下では、雲の切れ間から霞んだ大地が覗いていた。
「都市が……空に……?」
都市を見ている間もなく、身体が雲の中へ呑み込まれた。
白い視界を抜けた瞬間、遥か真下に、周囲の景色を押し退けるような巨大な山が横たわっていた。
解人とマハトは、その山の中央へ向かって落ちていた。山肌を覆う森の中央には、背骨に沿うような長い窪みが走り、その両側が緩やかに盛り上がっている。
山のはずなのに、人の背中を見下ろしているような気がした。
確かめようとした瞬間、風に煽られて身体が大きく回転する。
「このままじゃ、地面に激突して即死だぞ!」
「杖をつかめ!」
解人は差し出された木杖へ手を伸ばす。
マハトが杖の先端を真下へ向けると、空中に白い曼荼羅が広がった。幾重もの輪から伸びた白い糸が、二人の真下に何層もの巨大な網を編み上げる。
一枚目の網が破れた。
二枚目も破れる。
「おいぃぃ、本当に止まるのか!?」
「黙ってつかまっていろ!」
三枚目の網へ身体が沈み込み、落下の勢いがようやく弱まった。それでも止まりきれず、二人は森に覆われた斜面へ叩きつけられた。
土と草の匂いが鼻へ入り、肺に残っていた空気が全部押し出される。
「いっ……てぇ……」
解人は身体を起こし、泥のついた顔を上げた。見たことのない植物が、目の前に生えていた。
解人の背丈ほどもある赤黒い葉が、風もないのにゆっくりと開いていく。
葉だと思っていたものの内側には、幾つもの閉じた瞼が並んでいた。
一つ。二つ。三つ。
すべての目が開き、解人を見た。
「マハト……」
「動くな」
地面がひび割れる。
植物の根が土の中から抜け出し、獣の脚のように斜面へ突き立った。
開いた葉の中心が、口のように縦へ裂ける。
その奥には、何重にも並んだ牙が生えていた。
「うぎゃぁーーーーーー!」
植怪物が唾液を飛ばし、大きな口を開けた。ガサ……ガサ……。右の木陰、背後の藪。暗がりのあちこちで、白い目が開いていく。
「ヤベぇ!異世界来て速攻で死の危険感じるって、どうなのよ!?」
怪物の蔓が、鞭のように空気を裂いた。
「伏せろ!」
解人が咄嗟に身を屈める。頭上を蔓が通り過ぎた。
同時に、マハトは木杖を地面へ突き立てた。黒いコートを捲り、腰の鞘から鈍い銀色の剣を抜く。迫る蔓を斬り払い、そのまま幹の正面へ潜り込んだ。
無数の目と、牙の並んだ口が一斉にマハトへ向く。その直前、刃が横一文字に走った。
幹の上半分がずれ落ち、植怪物は地面へ崩れた。
「……剣持ってたんなら、早く使えよ……」
「今そこか?」
残った植怪物たちが後ずさる。
「ぎゃ……ぎゃぎゃ……!」
「ビビってんじゃん」
「いや」
マハトが森の奥を見る。遠くの茂みが大きく揺れ、葉の隙間に白い目がいくつも浮かんだ。
「呼んでいるな」
「……誰を?」
「仲間だろうな」
「先に言えよ!」
「走るぞ!」
二人は同時に駆け出した。枝を掻き分け、木の根を飛び越え、斜面を駆け下りる。背後から複数の叫び声が迫り、何度か蔓が足元を叩いた。
「ちょっ……待て、速すぎるって!」
「捕まりたいならゆっくり走れ」
「そういう意味じゃねぇよ!」
肺が痛み、服が汗で背中へ張りつく。やがて怪物の声が聞こえなくなると、解人は太い木へ手をついた。
「はぁ……もう、来てないよな……?」
「追ってきてはいない」
「マジで死ぬかと思った……」
まだ明るさの残る空を、橙色が染め始めていた。浮かぶ宝石の街を見たときは、なんかすごい旅が始まる気がしていた。けれど、この森では一歩間違えば本当に食われるらしい。
「とりあえず、暗くなる前に山を下りようぜ」
「ああ」
二人は斜面に沿って歩き始めた。しばらくすると、倒木の向こうに人間の足が見えた。
「……マハト」
三十代くらいの男が倒れている。服は裂け、腹の辺りが黒く染まり、目は開いたままだった。
「……死んでる?」
マハトが首元へ指を当てる。
「死んで、だいぶ経っているな」
解人の胃の奥が縮んだ。怪物も浮かぶ街も、どこか現実離れしていた。だが、乾いた血と何も映していない目は、嫌になるほど現実だった。
――甘かったな。
自分も死ぬかもしれない。それを今さら、本気で思った。
「行くぞ」
「……ああ」
そのまま、解人は男へ手を合わせ、マハトのあとを追った。
さらに山を下ると、木々の間を白い霧が流れ始めた。数分もしないうちに腰の高さまで濃くなり、湿った冷気が肌へまとわりつく。
「急に出すぎじゃね?」
「私から離れるな」
「分かってる」
ズズン――。
地面の奥から、低い振動が響いた。解人は近くの木へ手をつく。
「……地震?」
「先へ進むぞ」
「そこはちょっと気にしろよ……」
霧はさらに濃くなり、数歩先のマハトさえ白く滲んでいる。解人が見失うまいと歩調を速めた、そのときだった。
ズンッ!
足元の土が崩れた。
「解人!」
伸ばされた手に指先は届かず、身体が斜面へ投げ出される。
「うわぁぁぁぁ!」
湿った土を滑り落ち、枝で腕を擦り、木の根へ背中をぶつけた。何度も身体を跳ねさせ、大きな岩の手前でようやく止まる。
「いってぇ……マハトー!」
返事はない。叫び声も白い霧へ吸い込まれていく。斜面へ手をかけても、湿った土が崩れるだけだった。何度か試した末、解人は泥だらけの手を下ろす。
「……あいつなら大丈夫だろ」
自分へ言い聞かせ、一人で山を下り始めた。
森の夜は早かった。気づけば辺りは真っ暗で、月明かりさえ枝葉に遮られている。虫の声もなく、聞こえるのは枯れ葉を踏む自分の足音だけだ。
「見えねぇ……」
マハトがいないだけで、森はさっきよりずっと広く感じる。正直、かなり心細い。それでも立ち止まる方が怖くて、解人は足を動かした。
『……けて』
足が止まる。
「……え?」
『たすけて……』
幼い子どものような声だった。
「誰かいるのか?」
返事はない。だが少し離れた木々の向こうから、もう一度聞こえた。
『たすけて……』
罠かもしれない。そう思いながらも無視できず、声を頼りに枝を掻き分ける。その先には、大きな木が一本立っていた。人影はない。
「……何だよ、木か……」
枝には桃に似た赤い果実がぶら下がっている。
ぐぅぅぅ……。
「……最悪のタイミングで鳴るなよ」
ここへ来てから何も食べていない。解人は果実へ手を伸ばしかけ、止めた。さっき植物に食われかけたばかりだ。
「……これ、食えるのか?」
指先で軽くつつく。何も起きない。もう一度つついても同じだった。
「たぶん、普通のやつだよな」
果実をもぎ取る。
『……いたい』
「え?」
『いたいよぉ……』
「うわぁっ!」
反射的に放り投げた。地面へ落ちた果実から、涙のような透明な液体が零れていく。
『いたい……たすけてぇ……』
「なんで喋ってんだよ……分かった!悪かったから泣くなって!」
ガサッ。
背後の茂みが揺れた。暗闇の中で、無数の白い目がこちらを見ている。
「……嘘だろ」
「うぎゃぁ……」
木々の間から植怪物が現れた。左右の茂みでも太い根が地面を這い、気づけば五体が解人を囲んでいる。
マハトはいない。武器もない。
「今、来ちゃダメだよ君たち……」
五つの大口が一斉に開いた。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
「無理無理無理無理!」
解人は地面を蹴った。直後、背後で地面が弾ける。木々の間を縫い、枝を払いながら斜面を駆け下りた。
「来んなって!」
右から飛んできた蔓を頭を下げてかわす。目の前の幹を身体を傾けて抜けた瞬間、木の根に靴が引っかかった。
「っ!」
倒れかけた身体を無理やり立て直す。
止まれば食われる。
「マハトォォォ!どこ行ったんだよ!」
「うぎゃぁぁぁ!」
「お前じゃねぇんだよ!」
足が重い。喉も肺も痛み、もう止まりたくて仕方がない。こんなの無理だ。本当に最後まで走れるのか?
さっきの男も、こうして足を止めたのかもしれない。それでも、何もできないまま終わるのだけは嫌だった。解人は歯を食いしばり、もう一度地面を蹴る。
いつの間にか霧は薄れ、木々の間から月明かりが差していた。その先に、橙色の灯りがいくつも揺れている。
「……村?」
人がいる。それだけで、残っていた力をかき集められた。
「うぎゃぁぁぁぁ!」
背後の声は近づいている。
「もうちょっと……!」
木々が疎らになり、正面が一気に開けた。
「よっしゃ――!」
森を抜けた瞬間、足先が石へ引っかかった。
「うわっ!」
肩から地面へ落ち、そのまま草の上を何度も転がった。途中で脇腹を固い石へ強く打ちつけ、息が詰まる。
「いってぇ……」
口の中に土の味が広がる。脇腹には鋭い痛みが走り、起き上がろうとしても腕に力が入らなかった。
「……もう、無理……」
怖い。だが、逃げる力はもう残っていなかった。解人は地面へ伏したまま、身体を強張らせる。
けれど――何も来ない。
「……?」
恐る恐る顔を上げると植怪物たちは、ほんの数メートル先にいた。牙を剥き、蔓を伸ばしているのに、森と草地の境目から前へ出てこない。まるで、そこから先には入れないかのようだった。
「なん……で……?」
助かった。
そう分かった途端、全身から力が抜けた。視界の端が暗くなる中、小さな影が村の方から走ってくる。
「――大丈夫!?」
十歳くらいの少女だった。解人の傍らへ膝をつき、心配そうに顔を覗き込む。
「お兄ちゃん、大丈夫?大丈夫だよ。ここまでは、あいつら来られないからね」
柔らかな声だった。聞きたいことはいくつもあった。けれど、もう言葉が出なかった。解人は細く息を吐く。
少女の顔を最後に、意識は暗闇へ落ちた。




