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5話 欠けた世界と旅の始まり

 次の瞬間、壺の隙間から黒紫の煙が噴き出した。煙は無数の指へ形を変え、蓋の縁へ食い込む。人間のものに似ているが、どれも関節が一つ多く、濡れた枝のように絡み合っていた。


「開くぞ!」


 マハトが木杖を道路へ突き立てる。カンッ、と乾いた音が交差点へ響いた。

 杖を中心に白い曼荼羅が広がる。幾重もの輪が互い違いに回転し、その縁に並んだ文字がほどけ、細い糸へ変わっていく。

 白い糸は壺へ殺到し、蓋と縁の隙間を次々と縫い留めた。持ち上がっていた蓋が、わずかに戻る。

 壺の奥から甲高い泣き声が上がった。黒い指の隙間を押し分け、煙でできた白い顔が一つ、また一つと現れる。目も鼻もない。大きく開いた口だけが、誰かの声を吐き出していた。


『ずっと待っていた』

『ごめんなさいね』

『これがお前と私の契約だ』

『あなたしかいないの』


 最後の声に、右腕が強く脈打った。白い顔が一斉にこちらを向く。


「あいつら、俺を見てるぞ」

「欠片に残った記憶が、お前に反応している。近づくな!」

「だったら、どうやって止めるんだよ!」


 マハトは肩の革鞄から、辞書よりも分厚い本を取り出した。


 理の図鑑だ。


 表紙には大きさの異なる目が不規則に並び、中央には閉じた裂け目のような口がある。鞄から出された途端、目が一つずつ開いていった。

 マハトが図鑑を開く。風もないのに、黄ばんだ一ページ目だけが激しくはためいた。その下に重なるページは、固く閉ざされたまま動かない。


 黒い手袋で一ページ目を押さえると、紙の内側を何本もの細長いものが這い始めた。次の瞬間、白い触手がページを突き破る。

 触手は黒い海の上を蛇のように走り、白い顔へ絡みついた。顔は口を開いたまま、黒紫の煙へ引き戻されていく。


 爪。羽根。獣のような顎。


 煙は次々と形を変え、狭い壺の口から溢れ出した。別々の生き物が出口を奪い合うように絡みつき、互いを引き裂きながら蓋を押し広げていく。


 白い触手が怪物を一つずつ締め上げても、後から現れる数の方が多い。

 黒い腕が触手の隙間を抜け、信号機の柱をつかんだ。金属が大きく軋み、柱が根元から傾く。


「まずい。封じが耐えられない」

「封じ?」

「あの壺だ。中にある理の欠片を、町の理から切り離している」

「もっと分かりやすく言えよ!俺は補習期間中なんだぞ!」

「完全に開けば、封じられていた欠片がすべて町へ溢れ出す!」

「そっか!最悪なのだけは分かった!」


 蓋がさらに持ち上がった。その隙間には暗闇しか見えない。


 だが、黒紫の煙の奥に、巨大な金色の目が幻影のように浮かんでいた。


「閉めるぞ!」


 マハトは開いたままの図鑑を道路へ放り出すと、黒い海へ踏み込み、蓋へ両手をかけた。

 煙が両手の手袋へまとわりつき、焼ける音とともに焦げた臭いが広がった。マハトが全体重をかけても、蓋はほとんど動かない。


 壺の中で膨れ上がった欠片が、想像もできない力で押し返している。


 俺も黒い海へ飛び込み、マハトの隣から蓋を押さえた。


「解人、離れろ!」

「二人で押した方が早いだろ!」

「素手で触れば、また理とつながるぞ!」

「全部漏れたら、もっとやばいんだろ!」


 黒紫の煙は氷水のように冷たい。それなのに、壺へ触れた右手には冷たさも硬さも感じなかった。

 指先が壺の表面へ沈み込む。次の瞬間、視界を無数の黒い線が埋め尽くした。

 線は壺から町中へ伸び、信号機も、車も、街路樹も、蝉も、町にあるすべてのものが細い糸によって壺へ縫い留められていた。

 何百本もの黒い糸が壺の中心で絡み合い、一つの巨大な結び目を作っている。


「マハト……見える」

「何がだ」

「町中の理だ。全部、ここで絡まってる」


 俺の右腕へつながる糸もあった。ほかの糸より太く、腕が脈打つたびに結び目を強く締めつけている。

 結び目の中心では、幾つもの欠片が絡み合った黒い塊が心臓のように脈打ち、町中の糸を少しずつ引き寄せていた。


「町が奪われてる。止めないと……」

「その結び目に触るな!どの理につながっているか分からない!」


 考えるより先に、身体が動いていた。

 俺は壺の中へ右手を入れ、巨大な結び目をつかんだ。


「解人!」


 黒い海が大きく波打った。右腕が肩まで壺の中へ沈み込む。


「お前まで欠片に呑まれるぞ!」

「じゃあ、俺が引き戻すしかねえだろ!」


 道路の上で両足を踏ん張り、結び目をこちら側へ引いた。無数の糸が張り詰め、今にも切れそうな音を立てる。

 壺から泣き声や笑い声、獣の咆哮、鎖を引きずる音が一度に溢れ出した。

 結び目がわずかに動く。同時に、壺の表面へ細い亀裂が走った。それを見たマハトの表情が変わる。


「待て!壺が耐えられない!」

「先に言えよ!」


 黒紫の煙が膨れ上がった。煙は、手の甲から太い指先まで、濡れた獣毛のような黒い毛に覆われた巨大な手へ形を変える。その手が交差点を覆い尽くしながら、壺ごと俺たちをつかもうとした。

 マハトは道路へ落ちた図鑑を引き寄せ、焼けた手袋でページを押さえた。飛び出した白い触手が、巨大な手へ殺到する。


「解人、その結び目を離すな!」

「さっきと言ってることが違うぞ!」

「中途半端に壊せば、町の理まで巻き込まれる!やるなら、その結び目ごと欠片を引き抜け!」

「簡単に言うな!」


 巨大な指が目前まで迫った。

 道路へ広がる曼荼羅から白い糸が立ち上がり、その手へ幾重にも巻きつく。黒い毛の隙間から煙が上がり、巨大な手の動きが止まった。


 だが、白い糸は一本ずつ引きちぎられている。すべてが切れるまで、あと数秒もない。

 こんな得体の知れないものに、町を持っていかせるわけにはいかない。

 俺は右腕に残った力をすべて込めた。


「返せええええええええっ!」


 ぶつり、と何かが切れた。

 巨大な手が空をつかむ。煙の奥で金色の目が大きく揺れた。

 次の瞬間、巨大な手は形を失い、絡みついていた白い触手を巻き込みながら黒紫の煙へ崩れた。

 続いて、町中へ伸びていた黒い糸が一斉に震える。

 巨大な結び目が、壺の口から引きずり出された。外へ出た瞬間、人の頭ほどの黒い塊へ縮む。


「引き上げた……!」


 町中へ伸びていた糸が細い光へ変わり、それぞれ来た道を戻っていく。

 三秒ごとに途切れていた蝉の声が、その先まで続いた。車が前へ進み、信号機が赤から青へ変わる。風に押された黄色い空き缶が、側溝へ落ちた。


「戻った……のか?」


 次の瞬間、車は元の位置へ戻り、信号機も赤へ巻き戻った。

 蝉の声が三秒で途切れる。側溝へ落ちた空き缶は歩道へ戻り、同じ軌道を通って転がり始めた。


「おい……」

「まだだ!」


 マハトに肩をつかまれ、後ろへ引き倒された。

 手の中の黒い塊へ無数の亀裂が走る。それと同時に、壺の表面を走っていた亀裂が底へ届いた。


「うわぁーー!」


 次の瞬間、壺が砕けた。

 破片が地面へ落ちるより早く、黒い塊も無数の欠片へ砕け散る。

 欠片は黒紫の煙となって空へ噴き上がり、幾つもの筋に分かれた。町の四方の空に鱗のような薄い亀裂が開き、欠片は吸い込まれるように、その向こうへ飛び込んでいった。

 その中を、透明な魚が泳いでいた。

 親指ほどの人影が薄い羽根を震わせ、信号機の周囲を飛び回っている。六本脚の白い獣がビルの壁を駆け上がり、屋上へ届く直前に煙へ戻った。


 どれも、この町にいるはずのないものだった。

 透明な魚が青空へ溶けていく。消えた場所には、鱗の形をした薄い亀裂だけが残った。


「こりゃ……直ってないな……」

「町の理がすべて奪われるのは防いだ。だが、漏れ出した欠片の濁りは残っている」

「じゃあ、時間が先へ進まないままなのも……」

「ああ。まだ終わっていない」


 マハトは砕けた壺へ近づいた。破片の大半は黒い粉へ変わっている。

 その中に一つだけ、形を保ったものがあった。手のひらほどの陶器片で、表面を金色の線が脈打つように走っている。

 マハトが理の図鑑を近づける。表紙に並ぶ目が、一斉に破片へ向いた。


 ギロッ!


 中央の裂け目がゆっくりと開き、紙を幾重にも折り重ねたような歯が現れる。中から伸びた黒い舌が壺の破片へ巻きつき、そのまま口の中へ引きずり込んだ。

 ばきり、ばきりと硬いものを噛み砕く音が鳴る。


「食ってる……」

「器に残った理の痕跡を記録している」

「なんか気持ち悪りぃな……」

「普通だ」

「普通じゃねえよ!」


 理の図鑑がひとりでに開いた。固く閉ざされていた二ページ目が持ち上がる。

 黄ばんだ紙の上を黒い線が走った。

 線は幾度も交わり、ほどけ、また別の形に結ばれていく。文字にも絵にも見えたが、どれ一つとして形を留めない。


 やがて黒い線は、ページの中央で歪な印となった。その周囲へ、読めない文字が次々と刻まれていく。


「これ、何を表してるんだ?」

「散った欠片の一つが流れ着いた層だ」

「層?」

「この町とは、別の理によって成り立つ場所だ。世界は一つの理だけでできているわけじゃない。幾つもの層が重なり、本来は互いの理が混ざらないことで形を保っている」

「じゃあ、あの壺には何が入ってたんだ?」

「幾つもの層から切り離された、理の欠片だ。それが壺の中へ封じられていた。別の層へ流れ込んだ欠片が、そこにある理と絡み合えば、層の仕組みそのものを狂わせる」

「今の町みたいになるってことか」

「それより悪くなることもある。ここで起きたのは、壺から漏れた理が町へ干渉しただけだ。欠片が一つの層へ完全に根づけば、時間が次へ進まない程度では済まない」

「……ヤベェじゃん」


 黒紫の煙が晴れ始めた交差点で、親指ほどの人影が一つだけ残っていた。小さな人影は俺たちの頭上を一周し、空に残った亀裂へ吸い込まれていく。


「町を戻す方法は?」

「散った理を追う。町へ残った濁りは、散った欠片とまだつながっている。欠片が流れ着いた先で異変を収め、回収して、本来あるべき層へ戻せば、そのつながりも消える」

「何個あるんだよ」

「分からない」


 迷いのない声だった。


「最初に向かうのは、どこなんだ?」

「図鑑が示す。欠片が別の層へ混じれば、そこだけ理の流れが濁る。図鑑は、その中で最も強い濁りを辿る」


 ページの黒い印が、脈を打つように歪んだ。


 マハトが図鑑を閉じ、両手を持ち上げる。黒い手袋はどちらも指先から裂け、内側に縫い込まれていた白い紋様も焼き切れていた。


「それに、私が理へ触れるには、この手袋が必要だった」

「だった?」

「さっき壊れた。これがなければ、私は理そのものへ触れられない」

「じゃあ、なんで俺は……」

「ああ。何の道具も使わず、素手でな。なぜお前にそれができるのかは、私にも分からない」


 マハトは裂けた手袋を見つめたあと、俺へ目を向けた。


「この町の異変を直したければ、散った欠片を追うしかない」

「……それで……母さんたちも元に戻るんだな」

「ああ」


 マハトは短く答えた。


「私と来い、解人。今の私には、お前の手が必要だ」

「……最初からそう言えよ」

「ただし、向こうに何がいるかは分からない。死ぬこともある」

「ここに残ったって、何も直らないんだろ?」

「そうだな」

「だったら、行くしかないじゃねえか」


 そう言い聞かせながら、胸の奥では、まだ見ぬ世界へ行くことにほんの少しだけ心が躍っていた。

 スマートフォンへ短いメッセージを打つ。今の母さんが、通知に気づくことはない。それでも、何も告げずにいなくなるのだけは嫌だった。


『ちょっと出てくる。必ず帰る』


 送信を押し、電源をオフにした。


「行くぞ、マハト」

「途中で帰りたいと言っても、帰れないからな。肝に銘じておけ」

「脅すなよ。今、勢いで決めたところなんだから」


 マハトは小さく息を吐き、理の図鑑を再び開いた。

 ページに浮かんだ黒い印は、形を定めないまま紙の内側で脈打っている。

 印の一部が墨のように滲み出し、一本の黒い帯へ形を変えた。帯は何かを探るように宙を這い、俺の右腕へ巻きつく。


「ページへ触れろ」

「触ったらどうなる?」

「印が示す層へ道がつながる」

「今度はいきなり腕を持っていかれたりしないだろうな」

「……保証はできないな」

「怖えな」

「大丈夫だ。信じろ」

「一番信用できない言葉だぞ、それ!」


 俺は一度だけ息を吸い、右手をページへ押し当てた。

 最初に、頭上の青空から色が消えた。薄い紙を裏返すように、空がゆっくりとめくれていく。その向こうから、見たこともないほど大きな白い雲が現れた。

 めくれた境目は少しずつ広がり、電線を、建物の屋根を、信号機を上から呑み込んでいく。左右に続いていた通りも雲へ塗り替えられ、町の景色が視界の端から消えていった。


 気づけば、俺とマハトだけが、雲の中に残された道路の上に立っていた。

 足元へ一本の黒い線が走る。

 ぷつん、と糸が切れる音がした。

 地面の感触が消え、身体が宙へ投げ出される。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


今回で序章「欠け始めた世界」は完結です。


次回から、解人とマハトが「理の層」を巡る旅が本格的に始まります!

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― 新着の感想 ―
怪物たちと町全体を縛り付ける黒い糸の描写がとにかく緻密で不気味ですね! マハトの制止を振って町を取り戻そうとする解人の熱血さと度胸がとにかく格好いいです。 手袋を失ったマハトと、なぜか素手で理に干渉…
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