4話 綻びた町で、再び
俺は右腕を左手でつかんだ。腕の奥では、寄せては返す波が、骨を内側から揺らしていた。音は鼓膜ではなく、右腕から直接、頭の中へ伝わってくる。
ベッドから起き上がり、枕元のスマートフォンを取る。録音アプリを起動して右腕へ近づけると、波音の奥で重い鎖が鳴った。
ぎぃぃん。
今度はさっきより近い。鎖の向こうから、何かの荒い息遣いまで聞こえた気がした。
録音を止め、すぐに再生する。スピーカーから流れたのは、何の音も入っていない数秒間の無音だった。
「俺にしか聞こえてないのか……?」
補習どころか、もうすぐ昼休みだ。枕元のデジタル時計は午前11時11分のまま、秒表示だけが59から零へ進みかけては、また59へ戻っている。スマートフォンも11時11分。一度画面を消して、もう一度つけても変わらない。
「故障……2台同時に?」
口にした瞬間、同じ言葉がすぐ後ろから聞こえた。
『故障……2台同時に?』
「……またかよ」
昨日の黒い糸が身体に何か残していないか気になり、俺は洗面所へ向かった。
鏡の前で首筋と胸元を確かめ、腕をまくる。黒い痣も妙な傷もない。映っているのは、少し日に焼けた肌に太めの眉、黒に近い焦げ茶色の目。寝起きで半分しか開いていないせいで、いつもより機嫌が悪そうに見える。
髪だけは、ひどい寝癖だった。野球部を引退してから伸ばした髪を、智喜に「このままだとキノコになるぞ」と笑われて先週ようやく切ったばかりなのに、人生初のツーブロックは片側だけ派手に跳ねている。
「……うん。俺だな」
少なくとも、自分の身体には何も起きていない。そう思った直後、右腕の奥で小さな波が振動する。
廊下へ出ると、台所から水音が聞こえた。母さんが蛇口の前に立ち、コップへ水を注いでいる。
「母さん?」
「………」
蛇口から落ちた水は、コップの縁へ届く直前で細かな粒にほどけていた。次の瞬間には蛇口の先へ戻り、また同じ形で落ちていく。何度繰り返しても、コップの水位は増えない。
「母さん、何してんだよ」
肩へ触れようとしたとき、母さんの顔がゆっくりとこちらを向いた。
「かい――」
口が一文字だけを作り、元の位置へ戻る。
「かい――」
また戻る。
「かい――」
「うそだろ……やめてくれよ」
肩を揺すっても変わらない。目は俺を見ているようで、俺が一秒前にいた場所を見続けている。
俺は母さんの両腕をつかみ、蛇口の前から引き離そうとした。一歩動いたはずの身体は、次の瞬間には元の位置へ戻っていた。何度引いても同じだった。ここに残って肩を揺すり続けても、母さんを助けることはできない。
救急車を呼ぼうとしたが、発信ボタンを押した瞬間に画面が元へ戻った。智喜へかけると、呼び出し音の代わりに短い呼吸が聞こえた。
『欲しい……満たされない……』
「智喜?」
『欲しい……満たされない……』
通話が切れた。もう一度かけても、同じ声だけが返ってくる。
外で動ける誰かを見つけるか、マハトを捜すしかない。どこにいるのかさえ知らない。理の番人を名乗っておきながら、連絡手段の一つも渡さずに消えやがった。
着替える時間さえ惜しく、白いTシャツに制服のズボンだけを穿き、玄関へ向かう。黒いNIKEのスニーカーへ足を入れ、靴紐もろくに締めずに外へ飛び出した。
玄関の先で待っていたのは、真夏の熱気と、不自然に切り刻まれた蝉の声だった。
ジジジ、と三秒鳴き、途切れ、また同じ高さ、同じ長さで、ジジジと鳴く。
道路を走る軽自動車は、電柱の前まで進んでは一メートル後ろへ戻っていた。自転車に乗った男は、ペダルを踏み込む直前の姿勢を繰り返している。空中にこぼれたジュースの雫は落下せず、ときおり思い出したように上へ昇った。
完全に止まっているわけではない。誰も、次の動作へ進めないのだ。
「何だよ、これ……」
俺の足音だけが、壊れた町を先へ進んでいく。駅へ向かって走ったはずだったのに、俺は同じ自動販売機の前に戻っていた。
錆びたごみ箱。売り切れた炭酸飲料。歩道に転がった黄色い空き缶。
「曲がる道、間違えたか?」
今度は交差点を右へ曲がり、路地を抜ける。近道をするため民家の低い塀を乗り越え、着地に失敗して膝を擦った。それでも走った。
そしてまた、黄色い空き缶が足元へ転がってきた。空き缶は側溝の前で止まり、転がってきた場所へ戻る。再び同じ軌道を通り、俺の靴にぶつかった。
「ふざけんな……!」
缶を蹴り飛ばすが、乾いた音だけ響き、やる気を削ぐ。
熱で息が苦しい。膝からは血が滲み、喉はからからに乾いている。どれだけ走っても、町の方が足元で折り畳まれ、同じ場所へ戻される。
右腕の奥が、ずきりと痛んだ。昨日、黒い糸が絡みついた場所だった。
痛みに引かれるように左の道へ曲がると、コンビニの入口で誰かがしゃがんでいた。
「智喜……?」
智喜は自動ドアの隙間へ両手の指を差し込み、力任せにこじ開けようとしていた。ドアが十センチほど開く。直後に閉じ、智喜の指を挟む。
また開くと、同じ指を挟みながら閉じていく。爪の間から血が出ているのに、智喜は手を離そうとしなかった。
「何やってんだよ!」
腕をつかむと、智喜はゆっくり振り返った。
「ああ、解人か。ちょうどよかった。手、貸してくれよ。これの向こうにあるんだ」
「何が」
「俺の望むすべての欲望がさ!!!」
智喜が笑う。
笑った口だけが、そのまま顔に張りついた。
「俺が契約したんだ。こじ開けてさ、すべての欲で俺を満たすんだよ、なぁ!だから解人、手伝ってくれ!!」
「智喜、手を離せ。指、血が出てるぞ」
「平気だって。開けるまで俺はやめないぞーーー!!ハハハーーー!」
俺は無理やり、智喜の指を引き抜いた。その瞬間、智喜の笑顔が消えた。
「何すんだよ」
「お前だけ持ってるくせに」
「何をだよ」
「知ってんだろ!」
智喜は骨が軋むほど強い力で、俺の右腕をつかんで離さない。智喜の瞳が、俺の右腕へ向く。顔は動いていないのに、黒目だけが皮膚の下を滑るように下がっていく。
「お前はずるいな、解人」
「離せ!」
肩を押すと、智喜の身体は驚くほど簡単に倒れ、自動ドアへ背中からぶつかった。だが、ガラスに映った智喜は倒れていなかった。
鏡の中の智喜だけが立ったまま、必死に両手でガラスを叩いている。声は聞こえなくても、唇が何を伝えようとしているのかは分かった。
――行け。
「智喜……?」
目の前では、本物の智喜が何事もなかったように起き上がり、再び自動ドアの隙間へ指を差し込んでいた。
「もうすぐだ!あとちょっとで手に入るんだ!」
ドアが閉じ、鈍い音とともに智喜の指を挟む。
助けようと手を伸ばした俺の右腕が、見えない何かに引かれるように町の中心へ向いた。今の自分には、智喜をどうすることもできない。
そう理解してしまったことが、何より怖かった。
「絶対、戻ってくるからな!」
届いているかも分からない言葉を残し、俺は走り出した。
今度は道が巻き戻らなかった。商店街では、シャッターが半分まで開いては閉じ、店先の風鈴は同じ方向へ何度も揺れている。音だけは動きから数秒遅れ、追いつこうとするように響いていた。
その中に、一人の少女が立っていた。
高瀬美波だった。
肩にかかるセミロングの黒髪に、白い半袖のセーラー服。笑うと目元が柔らかくなる。
俺が前から気になっている女子だ。
そんな相手をこの状況で見つけたことに、俺は一瞬だけ安堵した。
「高瀬!」
呼びかけると、高瀬はゆっくり顔を上げた。
「……解人くん?」
はっきりと名前を呼ばれた。それだけで、張り詰めていたものが少し緩む。
「よかった。お前は普通に動けるのか?」
「普通?」
高瀬は小さく首を傾げた。
こういう何気ない仕草を、俺は前から可愛いと思っていた。
だからこそ、その髪の先から落ちた透明な雫に気づいた瞬間、胸の奥が冷えた。
雨など降っていない。濡れてさえいなかったはずなのに、雫は次々と頬を伝い、顎の先へ集まっていく。
「解人くん、海を見なかった?」
「海?」
「どこにもないの」
高瀬が一歩近づく。
「音も、匂いも、深さも。昨日まで、あんなにたくさんあったのにね」
「待てって。ちょっとこっちには……近づくな」
「でも、見つけたよ」
高瀬の視線が、俺の右腕へ落ちる。
「ここにあった」
逃げるより早く、高瀬が右腕へ抱きついた。夏の人肌ではない。深い海から引き上げたばかりの何かを押し当てられたような冷たさだった。
高瀬は俺の右腕へ耳をつけ、うっとりと目を閉じる。
「聞こえる。波が、骨の内側で鳴ってる」
「離れろ、高瀬」
「ねぇ、返して」
高瀬の声へ、別の声が重なった。男とも女とも、子どもとも老人ともつかない。海の底に沈んだ無数の声を、一つの喉へ無理やり詰め込んだようだった。
『返してよ!』
声が一段大きくなり、高瀬の指が腕へ食い込む。その瞳の中では、黒い波が何度も岸へ打ち寄せていた。
「痛っ……離せっ!」
俺は高瀬の指を一本ずつ引き剥がした。
最後の指が離れた瞬間、高瀬の身体から力が抜ける。
「……解人、くん」
今度の声は、高瀬だけのものだった。
「ねぇ、解人くん……私の声で呼ばれても……振り向かないで」
「何を――」
高瀬の動きが止まった。倒れかけた姿勢のまま、髪も、頬から落ちた雫も空中で静止している。
足元の影だけが動いていた。影は高瀬の形を捨て、黒い指のように細長く伸びていく。何本にも分かれながら歩道を這い、俺の靴へ触れようとした。
『解人くん』
背後から高瀬の声が聞こえるが、目の前の高瀬は口を閉じている。
『解人くん。こっちを見て』
俺は走った。何度名前を呼ばれても、振り返らなかった。
商店街を抜けたところで、町の中心に黒い煙が見えたが、風には流されず、上へ昇るほど太くなっていた。周囲の建物から影を吸い上げ、空の青を内側から汚している。
右腕が強く脈打った。そこへ行けと、骨の中で波が鳴っている。
「全部、あれが原因か……?」
俺は息を切らしながら走り続けた。
町の中心にある大きな交差点へ着いたとき、最初に見えたのは壺ではなく、黒紫の煙海だった。
交差点一帯を埋め尽くした煙は空へ昇らず、地面の上へ重く積もっていた。膝ほどの高さでうねり、信号機や街路樹の影を呑み込みながら、ゆっくりと波打っている。
その表面を、何かの背びれが横切った。魚にしては大きすぎる。
次に、五本の丸いものが煙の下から押し上がった。一本だけでも、人間の身体ほどある。巨大な指先に見えたのは一瞬で、それは波の底へ沈んだ。
遠くで鎖が引きずられる。すぐ近くで、誰かが水の中から泣いている。煙の表面へ白い顔が浮かび、声を出せないまま口だけを開いて沈んでいく。
煙海の中心に、壺があった。下半分を煙へ沈め、上半分だけをぽつんと突き出している。
蓋はわずかにずれていた。壺から煙が溢れているのか。煙海が壺を産もうとしているのか。
見ているだけでは、もう区別がつかなかった。
「解人!」
背後から鋭い声が飛んだ。振り返ると、長い黒のコートを翻しながらマハトが走ってくる。片手には、ごつごつした細身の木杖。肩には古びた茶色の革鞄を掛けていた。マハトは煙海を見た途端、足を止める。
「……遅かったか」
「おい、これなんだよ!?」
「詳しくは私にも分からない。だが、これ以上この煙を出させるわけにはいかない!早く蓋をしなければ……」
「できんのかよ、そんなこと!」
「やるしかない!さもないと、世界が変わってしまう……」
黒紫の煙海が大きく盛り上がった。波の内側で、鱗のようなものが何列も開いていく。その奥に、縦に裂けた金色の光が灯った。
右腕の波音が、ひときわ大きくなる。金色の光も、それに応えるように細められた。
「マハト……あれ、俺を見てないか?」
「見るな!目を合わせれば、向こうからも見えるぞ!」
「もう遅い気がするんだけど!!」
壺の蓋が、内側から指一本分だけ持ち上がった。隙間から漏れたのは、煙ではなかった。数え切れないほどの何かが、一斉に息を吸い込む音だった。




