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3話 戻ったはずの日常

「は?」


 意味が分からなかった。いや、今日一日ずっと意味の分からないことばかりだったが、その中でも特に分からない。


「見つかったって、誰にだよ」

「……」

「おい、黙るなよ。そういう意味深なこと言ったなら、最後まで説明しろって」


 マハトは答えず、開いたままの本へ視線を落とした。黄ばんだページには、今も俺の名前が浮かんでいる。


 一理解人(いちりかいと)。


 見慣れているはずの文字なのに、他人の名前みたいだった。その周りでは、黒い線が細い枝のように伸び続けている。


「誰に見つかったんだ」

「……それは、まだ分からない」

「……分からない?」

「俺にも、すべてが分かるわけではない」

「理の番人なんだろ?」

「番人は、何もかも知っている者という意味ではない」

「そうだけどさ!それでも何か知ってるはずだろ!」


 マハトの眉が、わずかに動いた。


 怒ったのかと思ったが、その目は俺ではなく、壺へ向けられている。腕に絡みついていた黒い糸が、ぴくりと震えた。


「……下がれ」

「またそれかよ」

「今度は、本当に下がれ」


 声の調子が変わった。それまでの落ち着いた言い方ではない。短く、鋭い。

 壺の表面で結ばれていた黒い糸が、一本ずつほどけ始めていた。ほどけた糸は地面に落ちず、そのまま宙へ浮かび、路地の空気を引っかくようにゆっくりと動いている。


 ざざぁん。

 ざざぁん。


 壺の中から聞こえる波音が、急に大きくなった。狭い路地が海の底へ沈んだみたいに、四方から音が押し寄せてくる。


「ちょ、待て。これ、どうなってんだよ」

「解人、腕を動かすな」

「無理言うなって!」


 黒い糸が強く締まり、腕の奥へ冷たいものが入り込んでくる。自分の腕ではなくなっていくような感覚だった。マハトが本を開いたまま、もう片方の手を俺へ伸ばす。その手が届くより先に、腕を締めつけていた黒い糸が突然ほどけた。


「うわっ……!」


 壺の表面から、黒い糸が一斉にほどけていく。丸い輪郭が崩れ、壺そのものが何本もの糸へ変わっていった。


「壺が……」


 地面へ落ちた糸の束は、生き物のように蠢くと、路地の奥へ走り出した。


「俺はあれを追う。お前は家へ帰れ」


 マハトは本を閉じ、黒い糸を追って駆け出した。


「待てよ。まだ何も聞いてないぞ!」


 マハトは足を止めない。


「次に異変を見つけても、決して触れるな」

「だから待てって!」


 黒いコートが、路地の角へ消えた。俺も慌てて後を追う。ほんの数秒しか経っていない。それなのに、角を曲がった先には誰もいなかった。黒い糸も、マハトも。

 そこは、古びた壁に塞がれた行き止まりだった。


「……は?」


 頭の中が真っ白になった。そのとき、壁の向こうから一度だけ波音が聞こえた。


 ざざぁん。


 次の瞬間には、それも消えていた。


「……なんだったんだよ、今の」


 蝉が鳴いている。路地の外からは車の走る音が聞こえ、遠くでは子どもたちが笑っていた。急に、いつもの町へ放り戻されたみたいだった。

 祠の前へ戻ると、そこだけが何も知らない顔で静まり返っていた。扉は閉じ、最初から中には何も置かれていなかったように見える。

 俺は恐る恐る、黒い糸が絡んでいた腕を確かめた。傷も痣もない。指も普通に動く。


「……夢じゃないよな」


 腕の奥にだけ、冷たい感覚が残っていた。あの糸が、まだ身体のどこかに引っかかっているような気がした。

 ポケットの中でスマホが震えた。画面を見ると、智喜からメッセージが何件も届いている。


『お前どこ?』

『コンビニ出たぞ』

『先に俺ん家戻ってるぞ』

『まさか逃げた?』


 最後には、野球ゲームで俺が打たれた瞬間の画像まで送られていた。


「どんだけ楽しみにしてんだよ……」


 少しだけ、肩の力が抜けた。いつもの智喜のメッセージが、今はやけにありがたい。


『悪い。今日やっぱ無理だわ。ちょっと暑さにやられた』


 そう返すと、すぐに既読がついた。


『大丈夫か?』

『寝たら治る』

『じゃあ今日は俺の勝ちな!』

『それは違うわ!!』

『元気じゃねえか笑』


 思わず小さく笑った。笑えたことに、自分でも少し驚いた。

 路地を出る前に、もう一度だけ祠を振り返る。何も起きていない。白い羽根もない。

 ただ、海の音だけは戻っていなかった。

 家に着くころには、空が薄い紫色に変わり始めていた。見慣れた玄関の扉を開ける。漂ってきた夕飯の匂いに、やっと本当に帰ってきた気がした。


「ただいま」

「おかえり。遅かったじゃない」


 台所から、エプロンで手を拭きながら母さんが顔を出した。


「智喜くんの家に行くって言ってなかった?」

「ちょっと寄り道してた」

「こんな暑い日に?あんた、顔色悪いわよ」

「日焼けじゃね」

「日焼けで青くはならないでしょ」


 母さんは冷蔵庫から麦茶を出し、コップへ注いだ。差し出された麦茶を、一気に半分ほど飲む。冷たさが喉を通り抜けていく。


「本当に大丈夫?熱中症じゃないの?」

「たぶん、ちょっと暑さにやられただけ」

「たぶんって。頭痛は?」

「ないよ」

「気持ち悪くない?」

「なんかさ……変なものを見たんだよな」

「暑さが脳まできちゃってんじゃないの」


 母さんは冗談めかして言ったが、その表情にはまだ心配が残っていた。


「冗談。変な人に会っただけ」

「そっちも十分心配なんだけど」

「真夏に長いコートを着て、分厚い本を持ってた人」

「そんな人、普通はいないわよ。警察に相談した方がいいんじゃないの?」

「いや、そこまでじゃないよ。たぶん……」

「なに、たぶんって」


 説明すればするほど、怪しい事件になっていく。まさか、その男が理の番人で、黒い糸を追って壁の向こうへ消えたとは言えない。


「とりあえず、部屋で少し休む」

「ご飯、もうすぐできるからね。あと、今日は早く寝なさい」

「はいはい」

「返事は一回」

「はい」


 いつものやり取りだった。それだけなのに、少し、痛かった。

 階段を上がり、自分の部屋へ入る。机も、ベッドも、脱ぎっぱなしの部屋着も、朝と同じ場所にある。

 俺は鞄を床へ置き、椅子に座った。それから、今日起きたことを思い出せる順にスマホのメモへ打ち込んでいく。不本意ながら、勉強よりもよほど集中していた。


 波の音が消えた。

 白い羽根が落ちていた。

 地蔵の向きが変わり、知らない路地と祠があった。

 壺の中から、波音と声が聞こえた。

 黒い糸が腕に絡みつき、雲の向こうに山より大きな何かを見た。

 そして最後に、黄金色の目が俺を見た。


『……見つけた』


 打ち込む指が止まった。背中が冷えた。

 あの声だけは、思い出したくなかった。耳で聞いたわけではない。頭の中へ、直接落ちてきた。そして、マハト。理の図鑑。理の番人。勝手に本へ浮かび上がった、俺の名前。

 なんだよ、それ。こんなの智喜に話したら、笑いもんだぞ。


「疲れてる高校生の妄想にしても、設定盛りすぎだろ……」


 声に出してみても、笑えなかった。

 試しに、普段から調べものに使っているAIを開いた。


『理(ことわり)って、どういう意味?』


 数秒もしないうちに、画面へ文章が表示される。


『「理(ことわり)」とは、物事が成り立つ筋道や道理、自然界に存在する法則を意味します。

 簡単に言えば、“世界が一定の仕組みに従って動くこと”です。

 そこには、個人の意思では変えられない現象や、避けることのできない変化も含まれます』


 意味は分かる。言葉の意味だけなら。

 俺は続けて入力した。


『じゃあ、理の番人って何?』


『「理の番人」という言葉に、一般的に定まった意味はありません。

 創作的な表現であれば、世界の法則や秩序を守る存在だと考えられます』


「創作じゃないんだよな……たぶん」


 自分で言っておいて、まったく自信はなかった。

 少し迷ってから、もう一つ打ち込む。


『そいつに「お前はもう、見つかった」って言われた。どういう意味だと思う?』


 今度は、答えが返ってくるまでわずかに間があった。


『「誰に見つかったのか」が省略されているため、正確な意味は判断できません。

 ただし、“理”を世界の法則という意味で用いているなら、あなたの存在が何らかの秩序に認識された、という警告の可能性があります』


 画面をなぞっていた指が止まった。


『たとえば――本来なら見つかるはずのなかったものが、世界そのものに発見された、という意味です』


「……怖いこと言うなよ」


 ただの推測だ。俺が入力した言葉を、それらしく組み合わせただけに決まっている。

 それでも、その文章をすぐに消すことはできなかった。


 智喜とのメッセージ画面を開く。


『今日、変な壺を見つけたぞ!』


 そこまで打って、無言で消した。


『黒い糸に捕まって、山みたいにでかい人を見た』


 もっと駄目だ。これを送ったら、熱中症ではなく別の心配をされる。

 俺はスマホを机へ伏せた。窓の外では、町に少しずつ明かりがつき始めている。車が走り、信号が変わり、遠くの家から夕飯の匂いが流れてくる。

 いつもの俺の日常だ。でも、あの路地で起きたことだけが、町から切り取られている。


「解人ー、ご飯よー」


 夕飯を食べ、シャワーを浴びても、頭の中は少しも整理されなかった。母さんに言われたとおり、いつもより早くベッドへ入る。


「ふー、寝たら治るか」


 智喜に送った言葉を、自分に言い聞かせる。

 目が覚めたら、波の音も戻っている。マハトも壺も、暑さで見た変な夢だったと思える。そんな都合のいいことを考えながら、俺は目を閉じた。

 

 気づくと、俺は雲の上に立っていた。足元には何もない。白い雲だけが、見渡す限り広がっている。その下で、何かが呼吸していた。


 ずしん。


 大気が震え、足元の雲が大きく揺れる。雲の切れ間から、岩山のような指がのぞいた。その奥には、果てが見えないほど巨大な腕が横たわっている。


「なんだよ、これ……」


 声が震えた。逃げようとしても、足が動かない。


 ぎぃぃん。


 金属が軋むような音が、空全体へ響き渡った。やがて雲の向こうで、巨大なまぶたがゆっくりと開く。黄金色の目が、まっすぐ俺を見た。


『見つけた』


「――っ!」


 目を開けると、自分の部屋だった。暗い天井。カーテンの隙間から、昼前の白い光が差し込んでいる。


「……夢?」


 そう思った直後、異変に気づいた。何も聞こえない。冷房の動く音も、外を走る車も、夏の虫の声も消えていた。家そのものが、息を止めている。枕元のデジタル時計は、午前11:11を表示していた。


「11時?」


 昨日は、いつもより早く寝たはずだ。慌てて時計を見つめる。だが、しばらく待っても数字は変わらない。


「……まさか、またかよ」


 起き上がろうとした瞬間、右腕を冷たく細い何かが締めつけた。


「っ……!」


 慌てて腕を見る。だが、何も巻きついていない。傷も、あの黒い糸もなかった。それでも、締めつけられる感覚だけは確かに残っている。


 ざざぁん。

 ざざぁん。


 また、あの波音だ。だが、いつもの海から聞こえる音とは違う。なぜか、それだけは確信を持てた。俺は両手で耳を塞いだ。それでも波音は消えない。むしろ、どんどん大きくなっていく。


「……今度はなんだよ」


 恐怖より先に、苛立ちが込み上げてくる。昨日から、意味の分からないことが起きすぎていた。

 壁の向こうでも、窓の外でもない。


 波音は、俺の右腕の奥から聞こえていた。

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