2話 触れてはいけないもの
「触れるな」
その声に、俺の指は壺の手前で止まった。あと少しだった。ほんの少し伸ばせば、指先が壺に触れていた。
壺の中からは、相変わらず波の音がしている。
ざざぁん。
ざざぁん。
海から離れた狭い路地で、聞こえるはずのない音が耳のすぐそばで鳴っている。
離れた方がいい。
頭ではそう思っているのに、指先だけが壺へ向かおうとしていた。怖い。気持ち悪い。近づきたくない。
それなのに、壺の中から聞こえる波音が、ただの音には思えなかった。
引っ張られている。知らないはずの音なのに、懐かしい。だから怖い。
「……誰だよ」
俺はゆっくり振り返った。
路地の入口に、黒い長コートを着た男が立っている。
俺より少し背が高い。襟元に触れる灰黒い髪。年齢は二十代後半くらいに見えるのに、色の薄い目だけが妙に古びていた。
真夏だというのに、コートは足元近くまで届いている。両手には黒い手袋をはめ、片腕には辞書よりも分厚い古本を抱えていた。男の周りだけ、空気が少し冷えているように感じる。蝉の声も、車の音も、そこだけを避けて通っているみたいだった。
黒い手袋は使い込まれ、指先だけが擦れている。古本の表紙には、題名らしい文字が見当たらない。
そして何よりおかしいのは、夏の午後だというのに、汗ひとつかいていないことだった。
どう考えても怪しい。怪しすぎる。
「それは、お前が触れていいものじゃない」
男は俺ではなく、壺を見たまま言った。
「……いや、あんた誰?それに、その格好、暑くねえの?」
「質問は後だ。そこから離れろ」
「大変なことになる、とか?」
「壺が開く」
「……蓋が、じゃないよな?」
男は答えず、壺を見る目だけが鋭くなった。
「お前が考えているような壺じゃない」
「俺だって触りたいわけじゃない。なのに、手が……」
言いながら、もう一度指先を見る。止めたはずの手が、ほんのわずかに壺へ近づいていた。
補習中から、町の様子はずっとおかしかった。
そして、白い羽根に導かれた先で見つけたのが、この壺だ。
全部が、ここにつながっている気がした。
「いいから離れろ。今なら、まだ巻き込まれずに済む」
「巻き込まれるって、何に……」
「開きかけているものに」
コートの男は、ためらわず路地へ入ってきた。
足音が聞こえない。いや、壺の中の波音が大きくなっているせいかもしれない。
ざざぁぁん。
ざざぁぁん。
波音に混じって、別の音が聞こえてきた。
「うぅぅ……」
「助けてくれ……神よ……」
泣き声。低い祈り。その奥で、何か巨大なものが息をしている。
全部が混ざって、耳の奥へ沈んでくる。
路地の空気が急に重くなった。さっきまで聞こえていた町の音が遠い。自転車のブレーキ音も、子どもの声も、薄い膜の向こう側にあるみたいだった。
「……今の、なんだ?」
胸の奥へ、冷たく重いものが流れ込んでくる。
泣いているのか、怒っているのか。どっちにしても、ずっと誰にも聞いてもらえなかった声だ。
「聞こえたのか」
「波の音と……誰かの声。それに、何かが息をしてるみたいな音も」
男が初めて俺を見た。わずかに目を見開いたが、すぐに元の表情へ戻る。
「お前、名前は」
「先にそっちが名乗れよ」
「答えろ」
「一理解人」
男は少し黙り、壺へ視線を戻した。
「……まだ、間に合うか」
手袋をした手を、ゆっくりと壺へ近づける。
その瞬間、壺の表面にある黒い模様が、ずるりと動いた。
「うわっ」
思わず声が出た。
模様じゃない。黒い線――いや、糸だ。何本もの黒い糸が、壺の表面で絡み合っている。結ばれ、ほどけかけ、また別の場所で結ばれている。見ているだけで、頭の奥がざわついた。男の手が止まる。そして、ゆっくりと俺を見た。
「……見えているのか」
「何が」
「その結び目だ」
「結び目……?」
壺の表面で、黒い糸が震えた。まるで、俺の声に反応したみたいに。
次の瞬間、糸が飛び出した。
「下がれ!」
「うわっ、なんだよこれ!」
避ける間もなく、黒い糸が俺の右腕に絡みついた。
皮膚の上に巻きついているはずなのに、体の内側を直接掴まれたような感覚だった。糸は脈に合わせて、少しずつ締まっていく。痛みより先に、気持ち悪さが押し寄せた。自分の中にある何かを、外側から探られている。
「動くな!抵抗するな!」
男が叫んだ。初めて、その声に焦りが混じった。
「無茶言うな!勝手に締まってんだよ!」
「力を抜け。糸の奥を見るな。引き込まれるぞ」
「見てねえよ!」
そう答えながら、俺の目は壺から離れなかった。いや、離せなかった。
黒い糸の向こう側に、何かがいる。腕を引くほど、糸は強く絡みついてくる。指先がしびれ、視界がぐらついた。耳の奥で、波音が爆発するように膨らんでいく。
ざざん。
ざざん。
ざざん。
その奥で、誰かが泣いている。いや、叫んでいる。
「くそっ!」
俺は反射的に、左手で黒い糸を掴んだ。
「掴むな!」
男の顔色が変わる。だが、もう遅かった。黒い糸が、俺の手の中で暴れている。細いはずなのに、信じられないほど重い。まるで一本の糸の中に、何か巨大なものが押し込められているみたいだった。
それでも、俺は離さなかった。
怖かったし、意味も分からなかった。でも一番は、離した瞬間にどこかへ連れていかれる気がしたからだ。
「なんだよ、これ!わけ分かんねえよ!」
「お前……」
男が低くつぶやく。
「素手で、理に触れたのか!」
「だから何なんだよ、それ!早くどうにかしてくれ!」
男が古本を開こうとする。
その瞬間、壺の中の波音が消えた。
完全な無音。
次の瞬間、壺の奥から別の景色が流れ込んできた。
「うあああああっ!」
海が見えると思った。だが、最初に見えたのは空だった。
青い空。白い雲。足元には地面がなく、雲が海のように広がっている。自分が立っているのか、落ちているのかも分からない。
ずしん。
空そのものが低く震えた。
雲の向こうで、巨大な影が動いている。最初は山だと思った。違う。肩だ。雲を押し分けるほど巨大な、誰かの肩。
ずしん。
影がわずかに動いただけで、世界が揺れた。
巨人が呼吸をしている。ただそれだけで、白い雲が波のように押し流されていく。
逃げろ。
頭の中で何かが叫んだ。けれど、体は動かない。
雲の切れ間から、巨大な手が現れた。一本一本が大木のような指が、何かに耐えるようにゆっくりと握られていく。
ずしん。
さらに強く、空全体が震えた。
巨人の顔が、雲の奥でわずかに動く。閉じていた巨大なまぶたが、ゆっくりと開いた。
黄金色の目。人でも獣でもない、もっと古く、もっと大きな何かの目だった。
その瞳に、俺の姿が映った。
『……見つけた』
鈍い声が、頭の奥へ直接落ちてきた。
「――っ!」
俺は勢いよく息を吸った。目の前には、黒い壺がある。膝から力が抜け、石畳に片手をついた。心臓が痛いほど暴れている。暑さとは違う汗が、頬を伝って落ちた。
「今の……なんだよ」
男は答えなかった。俺の右腕に絡んだ糸を手袋越しにつまむ。黒い糸は生き物のように暴れたが、男が壺の表面へ押し戻すと、やがて元の模様へ紛れていった。
腕には、締めつけられた痛みだけが残っている。男はすでに、片腕に抱えていた古本を開いていた。黄ばんだページが、風もないのに勝手にめくれていく。
ぱらぱらぱら……。
やがて、一枚の白紙のページで止まった。
紙の上に、黒い文字が浮かび上がっていく。インクで書かれているのではない。紙の奥から染み出すように、ゆっくりと形を作っていく。
俺は、その文字を見て固まった。
一理解人
自分の名前だった。さっき名乗ったばかりの名前が、最初からそこにあったように収まっている。
黒い文字の周りでは、細い線が枝分かれしていた。壺に絡んでいた黒い糸と、よく似ている。
名前が、何かにつながれているように見えた。
「……なんで」
喉の奥から、かすれた声が出た。意味が分からない。勝手に俺の名前が浮かび上がるなんて、どう考えてもおかしい。さっき名前を教えたからだ。この男が何かした。そうに違いない。
「なんで、俺の名前が出てくるんだよ」
男は本を閉じなかった。ただ、静かに俺を見ている。
その目には、さっきまでの余裕がなかった。
「私の名は、マハトだ」
男は短く名乗った。
「理の図鑑を預かる者。そして、理の番人だ」
壺の奥で、もう一度、低い息遣いが響いた。
マハトは図鑑に浮かんだ俺の名前を見つめ、はっきりと言った。
「解人。お前はもう、見つかった」




