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1話 異変の始まり

 チャイムが鳴ると同時に、生徒たちは一斉に帰り支度を始めた。


「っしゃー!早く帰ろうぜー」


 教室のあちこちで椅子が引かれ、机の中にノートを突っ込む音が重なる。


「おーい、解人(かいと)。早く帰ろうぜー」


 声をかけてきたのは、幼なじみの智喜(ともき)だった。


「んー?俺はまだいい。脳が疲れた」

「何言ってんだよ。だから帰るんだろ」

「智喜、一人で帰ればいいじゃん」


 こいつとは昔から一緒にいる。いわゆる腐れ縁ってやつだ。

 一緒にいて疲れない友達だ。でも今日は、なぜか一人で帰りたい気分だった。


「早く行こーぜ。お前とのパワプロ勝負、まだ決着ついてないんだからよ」


 まだ、そんなこと言ってるのか。

 まだ野球の話ができるのかよ、こいつは。


「……はぁ。仕方ねぇな」


 俺は重い腰を上げた。


「分かったよ。どうせお前の負けだしな」

「言ったな?今日こそ勝つからな」


 気づくと、教室には俺たちだけが残っていた。

 夏なのに、いつもより静かだった。

 蝉の声は聞こえる。廊下を走る生徒の声も、椅子を引きずる音も聞こえる。

 なのに、海の音だけがない。


 やっぱり俺だけか?


 俺はまた、窓の外へ目を向けた。


「なぁ、今日、海、静かじゃね?」

「いつもと同じだろ。てか、そんなの気にしたことねぇよ」

「……まあ、そうだな」


 教室を出ると、俺と智喜はだるそうに廊下を歩いていた。

 補習終わりの校舎は、生徒たちの声でそれなりに騒がしい。

 階段を駆け下りる音。誰かが笑う声。部活へ向かう生徒たちの足音。

 いつも通りの放課後だった。


 なのに、廊下の角を曲がった、その瞬間。

 一瞬だけ、周りの音が全部消えた気がした。


「……ん?」


 思わず足を止める。

 智喜は二歩ほど先まで進んでから振り返った。


「今度はなんだよ」

「いや、今、急に静かにならなかったか?」

「は?ずっと騒がしいだろ」


 智喜は廊下の先を指さした。

 そこでは一年生らしい男子たちが、大声でじゃんけんをしている。声も足音も普通に聞こえていた。


「……気のせいか」

「お前、マジで寝不足なんじゃね?」

「かもな。脳が処理落ちしてる」

「じゃあ今日はパワプロ楽勝だな」

「調子乗んな。寝不足でも負ける気しねえ」


 軽口を交わしながら歩き出す。

 ふと、掲示板が目に入った。


 夏期講習の日程表と、先月の野球部の集合写真が貼られている。

 写真の中で、俺は前列の端に座っていた。

 主将なのに端かよ……と、撮ったときに思った記憶がある。


 何となく写真を見ていると、少し違和感を覚えた。

 写真の中の自分の顔が、妙にぼやけて見えたのだ。


「……」


 目をこすって、もう一度見てみるが、いつも通りだ。

 汗が目に入っただけかもしれない。


「おーい、置いてくぞ」

「はいはい」


 俺は智喜のあとを追った。

 靴を履き替えて校舎を出ると、むっとする暑さが押し寄せてきた。


「うわ、暑っ」


 智喜が顔をしかめる。


「補習ってさ、絶対やる気を削るためにあるよな。意味ねぇよな」

「意味あるから来てるんだろ」


 俺は、思ってもいないことを口にした。


「先生に文句でも言ってこいよ」

「『意味あるんですか』って?」


 それは煽りレベルマックスだな。はは。

 そんな話をしながら、校門まで歩く。


 校門の外では、生徒たちがそれぞれの帰り道へ向かっていた。

 駅へ行くやつ。部活へ向かうやつ。友達同士で寄り道の相談をしているやつ。

 いつもの光景だ。


 智喜は駅の方を指さした。


「俺、コンビニ寄ってから行くわ」

「じゃあ後でな。パワプロ逃げんなよ」

「逃げるかよ。負ける準備しとけ」

「それ、お前のセリフな」


 智喜は笑いながら手を振り、そのまま駅の方へ歩いていった。

 やがて人混みに紛れて見えなくなる。


 俺はその場に少しだけ立っていた。

 一人になると、さっきの違和感を思い出す。


「……なんだったんだよ、あれは」


 思いっきり頭をかいたあと、もう一度周りを見渡してみた。

 車の音は聞こえるし、蝉も鳴いている。遠くで誰かが笑っている声もする。

 いつも通りの日常だ。


「……?」


 やっぱり、海の音だけが聞こえない。


 俺の家は海の近くだ。

 風向きによっては、この辺りでも波の音が聞こえることがある。

 今日はそれがまったく聞こえない。


「……気のせい……だよな。頭が疲れてんだな」


 そうつぶやいて、海沿いへ続く坂道を見る。

 今日は寄り道せず帰った方がいい。直感で俺はそう感じた。

 けれど、気づけば俺は坂道の方へ歩き出していた。


 坂道に入ると、少しだけ風が強くなった。海から吹いてくる、湿った風だ。

 制服のシャツが背中に張りついて、普通に暑い。


 なのに、やっぱり変だ。


 車が通る音は聞こえる。自転車のブレーキ音も、どこかの家から聞こえるテレビの音も、ちゃんと耳に入ってくる。

 でも、海だけが静かだ。


 坂の下には、いつもの海が見えている。

 波は砂浜に寄せて、白く崩れている。

 見えているのに、音がない。


「……いや、怖っ」


 思わず目を見開いて、声を出した。

 自分で言ってから、少し情けなくなる。


 怖いってなんだよ。

 海が静かなだけだろ。そう思いたくて、耳を軽く叩いてみた。

 右。左。どっちも普通に聞こえる。


 ブォーン。

 近くを通った原付の音が、やたら大きく耳に刺さる。


「耳じゃない……か」


 だとしたら、何がおかしいんだ。


 俺は坂道の途中で足を止め、もう一度海を見た。

 波は動いている。海鳥はいない。空は青い。

 町も、道も、信号も、いつも通りだ。


 だから余計に、波の音だけが抜け落ちていることが気持ち悪かった。

 まるで、動画の音声を一つだけ消したみたいだった。


「マジで病院行くやつか、これ」


 そうつぶやいて、歩き出す。


 そのとき、前を歩いていた会社員らしき男が、ふいに足を止めた。

 男はスマホを取り出して、画面を確認している。


 ただ、その足元の影だけが、一拍遅れて止まった。


「……は?」


 影が、遅れた。


 男の体は止まっている。

 でも、アスファルトに落ちた影だけが、ほんの少し前へ進んで、そして止まった。


 俺は目を細めた。もう一度見る。

 男の影は普通だった。

 太陽の向きに合わせて、ただ地面に伸びている。

 何もおかしくない。


「いやいやいや」


 俺は小さく首を振って、数回瞬きをした。


 これで四つ目だ。


 さすがに多い。でも、たぶん疲れてるだけだ。

 脳が勝手に、退屈な日常へバグを足している。

 そういうことにしておこう。


 でも、気のせいにするには、ちょっと多い。

 気のせいじゃないと言い切るには、どれも小さすぎる。


「疲れてる。うん。疲れてるだけ」


 そうそう。そう思うのが正解だ。

 こんな平凡な日常に、そんなことが起こるわけがない。

 誰に言い訳しているのか分からないまま、俺は坂を下り続けた。


 その先に、いつも通る小さな古い地蔵がある。

 小さい頃から何度も見てきたのに、今日ばかりは目を止めてしまう。

 この地蔵さんには、試合の日に何度か手を合わせたことがある。叶えてくれたかは分からない。


 やっぱり、俺は足を止めた。


 地蔵は、道の端にぽつんと立っていた。

 赤い前掛けは少し色あせていて、小銭と枯れた花が置かれている。

 いつも通りのお地蔵さんだ。


「……あれ?」


 向きが違う。

 俺の記憶では、この地蔵は海の方を向いていた気がする。なんでだ?

 なのに今は、町の方を向いている。


「いや、そんなことあるか?」


 地蔵が勝手に向きを変えるわけがない。

 誰かが動かしたのかもしれない。

 誰かが動かしたのか? 罰当たりなやつめ。


 そう思ったところで、買い物袋を持ったおばあさんが坂を上ってきた。


「あの、すみません」

「はい?」

「このお地蔵さんって、前からこの向きでしたっけ?」


 おばあさんは地蔵を見て、不思議そうに首を傾げた。


「そうだと思うわよ」

「……ずっとですか?」

「昔からそうよ。海の方なんて向いてたことないと思うけどねぇ」


 おばあさんはそう言って、少し首を傾げながらゆっくり坂を上っていった。


 単純におかしな子だと思われたのだろう。

 なぜだろう。なんで、こんなにムキになっているんだ。


「いや、待て待て」


 波の音が消えたんだ。ムキになって当たり前だろう。

 廊下の音も、一瞬消えた。

 写真の顔もぼやけた。

 影も遅れた。

 今度は、地蔵の向きが違う。


 さすがに、笑えないだろう。


 そのとき、地蔵の足元に白いものが見えた。

 白く輝く羽根だった。

 さっき見たものと同じ気がする。嫌な感じも同じだ。


 俺が見ている前で、その羽根がふわりと動いた。


 風は海から吹いている。

 羽根は風に流されているというより、意思を持つように海とは反対側へ飛んでいく。

 俺は、それを追った。


「……絶対ついて行ったらダメなやつだろ、これ」


 ついて行くべきではないと、十分理解している。

 それでも、正直ちょっとワクワクしていた。


 こういうのは、見なかったことにして帰るのが正解だ。

 家に帰って、シャワーを浴びて、智喜とパワプロをして、寝る。それが一番いい。


 羽根は俺を導くように、海とは反対側へ飛んでいく。やがて、住宅の間にある細い路地へ入っていった。

 俺はその前で立ち止まる。


「こんな道、あったっけ」


 何度も通っている場所のはずなのに、その路地には見覚えがなかった。

 人ひとりが通れるくらいの幅。奥は日陰になっていて、外より少し涼しい。

 蝉の声が、急に遠くなった。


「やっぱ、帰ろう」


 でも、白い羽根は路地の奥で止まっている。

 こっちを待っているみたいに。そして、誘っているように。


「なんだよ、この違和感とワクワク感は」


 俺は息を吐いて、路地に入った。

 数歩進むと、奥に小さな祠があった。木でできた古い祠だ。


 扉は少しだけ開いている。

 白い羽根は、その前に落ちていた。


「……神社ではないよな……」


 近づくと、空気が変わった。


 サァァァ……。

 暑さが一気に引いていく。


 祠の中をのぞくと、そこには小さな壺が置かれていた。

 古びた、少し埃を被った茶色の壺だ。

 表面には、黒い筋のような模様が入っている。


 俺は思わず一歩近づいた。


 その瞬間、ざあぁ……と音がした。


「……え?」


 いつもの波の音だ。

 壺の中から、波の音が聞こえる。


 今まで聞こえなかった海の音が、そこにある。

 俺は耳を疑い、さらに顔を近づけた。


 ざあぁぁ……ごおぉぉ……。


「なんで、こんな中から……」


 音が耳の奥いっぱいに響く。壺の中で、波が寄せては返しているのが分かる。

 その音に混じって、一瞬だけ別の音がした。


「うぅぅ……うぅぅ……」

「……け……て」


 低いうめき声のような音が、脳にこびりつく。

 遠くで何か大きなものが軋んでいるようにも聞こえる。

 腕に鳥肌が立った。


「……いやいやいや」


 無意識に周りを見渡したが、違和感があるのはここだけだ。

 頭の奥で、「帰れ。今すぐ帰れ」と何かが訴えている気がする。


 それでも、手は壺へ伸びていた。

 確かめたい。その気持ちが強かった。

 ここに、今日起きたことの答えがあるはずだ。この数分で、そう確信していた。


 俺の指が、ゆっくり壺に触れそうになった。


 その瞬間――


「触れるな」


 背後から、低く抑えた声がした。

 俺の指先が止まった。


「……」


 俺は息を止めて、ゆっくり振り返った。


 路地の入口に、見知らぬ男が立っていた。


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