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プロローグ

 海が海であり、空が空であり、人が人として朝を迎えること。


 そのすべてには、見えぬ筋道が通っている。


 世界を世界として在らしめる、目には見えない秩序。


 それを、「(ことわり)」という。


 だが、その理からほんのわずかに外れたとき。


 世界は、何食わない顔で昨日と同じ朝を迎える。


 人はそれを知らぬまま、日々を生きる。


 けれど、外れたものは決してその場に留まらない。


 音がひとつ消えただけで。


 影の形が少し変わっただけで。


 昨日まではあり得なかったものが、静かに紛れ込む。


 これは本当に、昨日と同じ世界なのか、と。


 ------------------


 夏休みの補習というものは、名前からして人間のやる気を削りにきている。休みなのか。補うのか。どっちかにしてほしい。

 冷房の効きが悪い教室で、一理解人(いちりかいと)は机に頬杖をついていた。

 黒板には、二次関数のグラフが白いチョークで描かれている。放物線。頂点。軸。最大値。最小値。

 人生みたいだな、と思った。

 上がって、下がって、どこかに頂点があって、あとは緩やかに落ちていく。

 いや、今の俺に頂点とかあったか?


 「おい!一理(いちり)


 数学教師の声が飛んできた。


「今、どこを見ていた?」

「未来です」

「黒板を見ろ」

「未来、黒板より見えないですね」

「ならなおさら黒板を見ろ」


 教室の端で、何人かがニヤついた。

 俺も笑った。笑った、というより、口の形だけそれっぽくした。

 夏休みの補習に呼ばれるくらいだから、成績はまあ、よろしくない。けれど、別に壊滅的というわけでもない。

 努力すれば何とかなる。昔から、大人はそう言う。

 たぶん、嘘ではない。

 努力は嘘をつかない。

 俺もそれに賛成だった。

 でも、努力したからって、結果がこっちを向いてくれるとは限らない。


 一か月前、主将として迎えた最後の夏、甲子園への道があっけなく終わった。


 人一倍努力をし、周りへの声がけもかかさなかった。

 時にはウザがられたけど、できることは全てやったつもりだ。

 そして、9回、1アウト1塁、俺の打席が回ってきたがあっけなくダブルプレーで終わった。

 そのまま努力が泡に消えていった、あっけないもんだよ。

 残ったのは、中途半端な疲労だけだった。

 頭は止まっているのに、体だけがまだ試合の続きを探していた。

 誰でも通る感情と経験だと思う。でも、俺なら大丈夫、いつも次を頑張ればいい。そう意気込んでいたのに、今回ばかりは何も次に繋げられない。


 その日から、俺の中の何かは、ちょっとだけしか動かなくなった。

 夢とか、目標とか、そういう前向きな言葉が苦手になった。

 別に腐っているつもりはない。ただ、燃えかすに「もう一回燃えろ」と言われても、灰としては無理な話だ。

 どうにでもなれ、と思う方が少しだけ楽だった。


「一理。次、この問題を解け」

「先生」

「なんだ」

「俺の脳が停止しています」

「残念だが、脳は死ぬまで停止しないんだよ」

「じゃあ今、かなり死に近いです」


 教師はため息をつき、他の生徒を指名し何もなかったように授業を進めている。

 俺は仕方なくノートに目を向けたが、情報なんて入ってくるわけない。


 窓の外では、夏の光が校庭を白く焼いていた。

 いつも俺たちがいたグラウンドは、無人でどこか整理されている。


 この高校は、少し坂を上った場所にある。だから教室の窓から、町の屋根と、その向こうの海が見えた。

 波が、ゆっくりと砂浜へ寄せては消えていく。

 いつもなら、窓を閉めていても、かすかに波の音が聞こえる。

 ざあ、、ごう、、とか。俺らにとっては当たり前の音だ。

 そして、俺たちの日常にはあるべき音だ。そして、なんだか落ち着く。


 でも、その日は違った。

 波は見えている。海もある。白い波頭も、ちゃんと崩れている。

 なのに。音が、聞こえない。


「……あれ」


 思わず声が漏れた。

 隣の席の男子が、眠そうにこっちを見る。


「どした、一理。ついに数学で悟った?」

「いや。聞こえなくない?」

「は?」

「波の音、しなくないか」


 隣の男子は窓の外を見た。

 数秒、ぼんやり眺めてから、あくびをする。


「閉め切ってるからじゃね」

「いや、いつも聞こえるだろ」

「お前、補習で耳まで拒絶してる?」

「そうかもな、はは…」


 たしかに、疲れているのかもしれない。

 部活は終わったのに、夜はあまり眠れていない。

 進路のことも考えないといけないし、親は親で、妙に優しい。

 元チームメイトたちは、もう次の何かに進んでいる。

 俺だけが、教室の椅子に座ったまま置いていかれている気がした。


 だから、波の音ひとつで変なことを考えているだけかもしれない。

 俺はそう思おうとしていた。

 グランドに、白い羽根が落ちてきた。

 それは夏の光の中、あまりにもゆっくり落ちてきた。

 風もなく、鳥も見えない。

 ただ一枚の白い羽根だけが、ゆっくりとグラウンドの真ん中へ落ちた。

 

 落ちた瞬間。砂が、黒く滲んだ。


「……」


 俺は瞬きをした。と同時に少し鼓動が速くなった。

 もう一度見る。

 白い羽根は、そこにある。けれど、黒い滲みは消えていた。

 いや、そもそも羽根も本当にあったのか分からない。

 夏の光が強すぎて、目がおかしくなったのかもしれない。

 そう思った。思おうとした。


「一理」


 教師の声が、少し遠くから聞こえた。


「答えは?」


 わかるわけねぇじゃん、心の中で教師につっこむ。

 いつもなら、適当な冗談で逃げるが、そのときはなぜか、声が喉に引っかかった。

 窓の外の海が、まだ動いている。

 波の音は聞こえない。

 なのに、耳の奥だけが、あの音を覚えていた。


「……すみません」


 俺は、ゆっくり口を開いた。


「分かりません!」


 教室が一瞬だけ静かになった。

 隣の男子が、目を丸くする。


「お前が素直に分かりませんって言うと、世界終わりそうで怖いな」

「やめろよ。俺にそんな力ないって」


 そう返して、俺はもう一度、窓の外を見た。

 海は当たり前にそこにある。

 空も、町も、グラウンドも、いつもと同じようにそこにあった。


 当たり前だよな。

 そう思ったのに、なぜか少しだけがっかりしている自分がいた。


 ただ、波の音だけは、どこにもなかった。

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